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創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(5)ライフスタイルとはなにか
- 2024/5/1
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Contents
はじめに
動画での説明
・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください。
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その他注意事項
アルフレッド・アドラーとは、プロフィール
・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者、精神科医
・主な著作は『器官劣等性の研究』。
・フロイト、ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる。
・フロイトと袂を分かち、独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた。日本ではあまり知られていなかったが、岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり、多くの人に知られるようになった。
前回の記事
動画の分割について
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(1)心理学の基礎知識
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(2)アドラー心理学の理論
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(3)劣等感とはなにか
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(4)劣等コンプレックスとはなにか
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(5)ライフスタイルとはなにか
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(6)ライフタスクとはなにか
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(7)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(8)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか
記事が長すぎて重いので8つに分割することにしました。動画では1つにまとめています。長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが、どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません。
「ライフスタイル」
「ライフスタイル」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
ライフスタイル:「個人の世界観に基づいて、個人が選択する思考や行動のパターン(型)」のこと。「自分と外界(他者、環境)のとらえ方、ものの見方」、「自己や世界についての意味付けの総体」のこと。
「行動原理」という用語とほとんど同義だと考える。ライフスタイルは先天的なものではなく後天的なものであり、人間が選択して創っていくものであるとアドラーはいう。
・アドラーはライフスタイルを広義に考えている。
「本能、衝動、感情、思考、行動、快不快への態度、自己愛、共同体感覚」などのあらゆる要素が関係していると考えている。
たとえば「信念から行動が出てくる」とアドラーが述べるとき、信念はライフスタイルに近い。
抽象的な定義では「人間の生き方そのもの」とアドラーは述べている。ライフスタイルは「性格」や「世界観」と呼ばれることもあるが、「スタイル(型、考え方)」と呼ぶことで「変えることができる」というニュアンスを意図しているという。たしかに「ヘアスタイルを変える」というように自分の選択によって変えることができるイメージがある。
とはいえ、人間はヘアスタイルですら容易に変えられないことがある。私も今まで慣れ親しんだヘアスタイルのほうが安心する。いきなり坊主や青色の髪にすることはなかなかできない。実際に、ライフスタイルもほとんどの場合は固定的になりがちであり、大きな変化を加えるためには「勇気」が必要になるといえる。
・ライフスタイルはどんな形でも表れるという。われわれが意識的・無意識的に何か行動するとき、思考するとき、感情を出すとき、ライフスタイルに沿ってそれらは行われる。
つまり、ライフスタイルがそれらを支配するのである。ライフスタイルは感情などの限られた部分を支配するのではなく、「全体」を支配するものだという。言い方を変えれば思考や行動はライフスタイルや行動原理に縛られている。関数のようなものなのかもしれない。
キーワード:ライフスタイルとは
「個人の世界観に基づいて、個人が選択する思考や行動のパターンをアドラーはライフスタイルと呼びます。ライフスタルは個人が成功と失敗を繰り返し、『~のときは~をするほうが良い』ということを学びながら形成されます。長く続けてきたライフスタイルは、たとえ自分が不幸だと感じるものであっても、変えるのは困難です。ただし、共同体感覚を持てば、幸福なライフスタイルに変えることができるとアドラーはいいます。」
「心理学用語大全」,121P「ライフスタイルは『自己と世界の現状および理想についての信念の体系』と説明できます。そのため、ライフスタイルの要素は以下の3つに整理されます。(1)自己概念、(2)世界像、(3)自己理想」
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,16p「ライフスタイルは、さまざまな心理学派で名付けられたものがすべていっしょになっています。つまり、本能、衝動、感情、思考、行動、快不快への態度、そして自己愛です。わたしが『共同体感覚』と呼ぶ他者と生きる感覚もです。ライフスタイルはどんな形でも現れ、部分にとどまらない全体を支配します。もしなにか問題があるとすれば、それは大本の行動原理なりライフスタイルの最終目標なりがおかしいのであって、部分的な症状だけがわるいわけではありません。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,5p「重要なのは、人間の生き方そのものが(私はこれを一言で『ライフスタイル』と呼んでいます)、言葉も概念もろくに知らない幼い子どものころに作られているという状況です。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,8p
キーワード:ライフスタイルと性格の違い
「ここで『性格』という言葉を使わず、あえて『ライフスタイル』という言葉を使うのは、性悪という言葉に含まれる変わりにくいものだというニュアンスを一掃したいというねらいがあります。人間の性格はそれほど変わりにくいものではない、それはスタイル、あるいは型であるから、他のものに置き換えることは思われているほど困難なことではない、と考えるのです。」
岸見一郎「アドラー心理学入門」,40pメモ:では、国の型(パターン)はどうなのか。人間の性格の構造、つまりパターン変数として表示できるのか。パーソンズのパターン変数、構造分析につながっていく。基本的に人間も国と同様に、構造を維持するように、保守的になっていく。
メモ:置き換えるという発想はルーマンの機能等価主義と似ている
適切なライフスタイルと不適切なライフスタイル
適切なライフスタイルと不適切なライフスタイルとはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
ライフスタイルの類型は「適切なライフスタイル」と「不適切なライフスタイル」に分けることができる。
前者の場合は「共同体感覚」の充実しているケースであり、後者の場合は欠如しているケースである。
類型とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
類型:一般的な傾向をまとめたもの。
・アドラーは「それぞれの異なる個人を短い決まり文句でまとめることはできない」と述べている。これが大前提である。そのうえで、こういう人にはこういう傾向があるというような一般的な決まり事、パターンとしての「類型」を作っているという。
・「類型」はあくまでも「前もって見るべき範囲を照らす道具に過ぎない」という。
類型を特定の個人に当てはめてすべてのライフスタイルがわかったようになるのは危険である。アドラーは類型は柔軟に使うべきであり、類型との差異にも敏感であるべきだという。
・ライフスタイルは遺伝や家族などの「影響」を受けて作られる。しかし、そうした外部環境や内部環境がライフスタイルを全て「決定」するわけではない。
しかし、影響は大きい。それゆえに「緩やかな決定論」とも呼ばれることがある。
大事なのは「なーんだ、全部とは言わないまでもほとんどの要素は決定されているわけだ」と自分を正当化しないことである。
なぜならば、我々はライフスタイルを今・現在、この瞬間から選び直すことが可能だからである。可能である以上、そのスタイルを変えられないという言い訳にもちだすべきではない。
特定の遺伝的条件や社会的条件はわれわれの決定に影響を与える。これは事実であり、受け止める必要がある。
アドラーは実際に、「器官劣等性」という遺伝的条件、家族や学校などによる「甘やかし、放置」は不適切なライフスタイルへと導きやすいと述べている。「このような条件があったらこのようなライフスタイルになりやすい」とあくまでも統計的確率論として、傾向として、理念型として述べることの有用性をアドラーは述べている。
キーワード:類型
「それぞれの異なる個人を、短い決まり文句でまとめることはできません。こういうひとにはこういう傾向があるというような一般的な決まりごとは、わたしの個人心理学でも作っています。でもそれは、前もって見るべき範囲を照らす道具に過ぎません。照らされた範囲で個人についてなにかが見つかるときもあれば、見失ってしまうときもあります。ひとに当てはめられるパターンを評価し、柔軟に使ったりわずかな差異を読み取りするたび、私の確信は高まっていきました。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,4pメモ:ウェーバーの「理念型」の使用方法とも似ている。
キーワード:統計的確率
「器官の『劣等』、甘やかし、放置は個人の幸福や人類の発展と矛盾する目標を具体的に作らせることがあります。けれど、ひとが誤りから道を外れることについて、原因論ではなく統計的確率によって語るのがよいケースはたくさんあります。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,106p
「私は能力がある」という意識
・あくまでも個人はそれぞれ違うのであり、また個人をとりまく環境もそれぞれ違う。双子であっても違うという。
器官劣等性をもっていても適切なライフスタイルが創られる場合もあれば、甘やかされて育てられても適切なライフスタイルが創られる場合もあるということになる。同じ赤色でも、朱色や紅色、紅葉色など細かくみれば違ってくることがある。また、色を積み重ねていくうちに違う色に変わることもある。また、自らの意志で「変えることができる」のである。
一定のマイナス要因があっても、他の要因がプラスに影響すれば全体としてプラス、つまり適切なライフスタイルに傾くこともある。
たとえば共同体感覚に満ちた友人と出会ったり、考え方を改めさせられるような事件があったり、映画を見たり、そうした多様な条件が考えられる。例えば過度に甘やかされたところを友達に馬鹿にされたりするだけでも微妙に変わってくるのだろう(もちろん、これがマイナスになる場合もあるかもしれないが)。なにがプラスで何がマイナスかは、その人がいままで創ってきたライフスタイル次第ということになる。関数という箱にXを入れて、プラスで返す人もいればマイナスで返す人もいる。重要なのは特定の対応というよりも全体のライフスタイルである。汚れた箱に物を入れると、ほとんどの物は汚れてしまう。
キーワード: 私には能力がある
「『私は能力がある』という信念について補足するならば、これは自分の人生の問題を自分の力で解決することができるという意味です。このような能力があると感じることが自信を築く唯一の方法である、とアドラーはいっています(『個人心理学講義』六〇頁、八八頁)。」
ライフスタイルの主要な形成時期
ライフスタイルの主要な形成時期について
【ポイント】アドラーは四、五歳の比較的早い時期に最初のライフスタイルは形成されると述べている。
なお、現代アドラー心理学では十歳前後であるということになっている。要するに、ライフスタイルが固定的で、容易に変化しにくくなるまでの時期である。
こうしたライフスタイルが容易に変化して修正されていくような柔軟な時期のライフスタイルを「子どものライフスタイル」とアドラーは呼ぶ。
「子どものライフスタイル」に対して、固定的で容易に変化しにくくなるライフスタイルを「大人のライフスタイル」と呼ぶこともできるだろう。
しかし我々がもし自分のライフスタイルが不便であり、不満を持ち、また幸せではないと感じていたのならば、ライフスタイルを変えるという勇気をもち、選択する必要がある。
「子どものライフスタイル」が反動もなくずっと続くとしたら「永遠を眺めるような目」で正しく作られた場合だけだとアドラーはいう。実際は固定的になりがちであり、容易には変わりにくい。しかし「変えることはできる」のであり、変える勇気をまずはもつ必要がある。勇気という鍵で扉を開ける必要がある。暗いところで不平を言いながら安心している人生でいいのか、自分に言い聞かせる必要がある。
キーワード:ライフスタイルはいつごろ作られるか
「アドラー心理学では、行動は信念から出てくる、と考えますから、自立し、社会と調和して暮らせるという適切な行動ができるためには、それを支える適切な信念が育っていなければならないのです。ここでいう信念は、自己や世界についての意味付けの総体であり勝つライフスタイルと呼ばれています。この信念を人は比較的早い時期に形成します。アドラーは四、五歳といっていますが(『子どもの教育』一二五頁、『個人心理学講義』三二頁など)、現代アドラー心理学では十歳前後である、といわれています。もとより次に見るようにライフスタイルは固定したものではありませんから、概してこの時期にライフスタイルが形成されるということです。」
岸見一郎「アドラー心理学入門」,40p
「子どもが行動原理を身に着けた場合、リズム、気質、活動性、そして共同体感覚がどのくらいあるかが観察されます。行動原理はたいてい1歳くらい、遅くても4歳くらいで姿を現します。ほかの能力もすべて、それぞれの形で行動原理の制限を受けています。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,8p
ライフスタイルの影響因
内的要因と外的要因
- 内的要因(気質遺伝、器官劣等性、劣等感など)
- 外的要因(家族布置、社会制度、文化など)
・遺伝などの先天的な要素や家族・制度などの社会的条件に「影響」は受ける。しかし過去の影響因から全てが「決定」されるわけではない。それらはあくまでも「素材」であり、この素材をもとにわれわれはライフスタイルを選択、創造していく。
「しかしアドラー心理学では『影響はあるかもしれないが、決定因ではない』と考えます。決定するのはあくまで自分自身。自分の身体や置かれた環境をどう感じ、どう意味を見つけていくか。同じ経験をしても、人によって受け取り方はさまざまです。すべて自分次第です。できるだけ建設的で、前向きな決定をしていきたいのは言うまでもありません。」
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,18p
ライフスタイルに与える遺伝の影響について
・気質は「個人の性質、気風、性格」などのうち、とくに「先天的な性質」を一般的に表す。
アドラーは基本的に遺伝を重視していない。例えば性的倒錯のようなものは遺伝ではなく、後天的な、間違った方向でのトレーニングの結果だとアドラーは述べている。また、「遺伝が重要なのではないかと考えたこともありました。けれど、それは否定するほかありません」とアドラーはより直接的に述べている。
・しかし一方で、アドラーは遺伝がライフスタイル形成に「影響」を与えることは認めている。たとえば生まれつきの器官劣等性はある種の遺伝によるものであり、ライフスタイルに影響を与えるからだ。
アドラーは遺伝が「材料」であり、そうした内的要因と外的要因という多種多様な材料をもとに子どもが「創造力」によってライフスタイルを形成していくことを強調している。
キーワード:気質の遺伝
「親から受け継いだ気質の遺伝や、身体の感覚器官や内蔵などに障害があることは、その人の人生に影響する。」
岩井俊憲「アドラー心理学入門」,140pキーワード:アドラーの遺伝に対する考え
「倒錯もまた子ども時代に表面化することは不思議ではありません.倒錯のある人は、たいていこれに遺伝が関係していると考えます。彼らも多くの学者も、子供時代の倒錯を生まれつきか、なにかの体験で身についたものと見なします。しかし、これは間違った方向で『トレーニング』してしまったことの名残で、共同体感覚の不足を明確に示しています。共同体感覚の不足が人生の別のところにも姿を見せているのです。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,67pメモ:材料=能力に表れる遺伝
「進化という形で確かめられたとおり、克服という目標が存在するならば、子どものなかで具体化した進化は、さらなる発展に使われていきます。つまり、肉体的であろうと精神的であろうと、能力に現れる遺伝が意味をもつのは、最終目標に利用できる場合、実際に利用される場合だけだということです。のちに個人が成長したときに見られるものは、まず遺伝を材料に作られ、子どもの創造力で完成します。私自身、遺伝が重要なのではないかと考えたこともありました。けれど、それは否定するほかありません。外界は多様でつねに変化するので、この材料を創造的に、そして柔軟に使っていく必要があるからです。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,106p
(1)家族布置について
・家族布置の布置は「配置」という意味で一般には用いられる。噛み砕いて言えばある人間がその家族の中でどういう位置づけなのかというわけである。心理学では布置を「ありさま、めぐり合わせ」として使うという。
・家族布置として「兄弟関係」、「家族価値」、「家族の雰囲気」が挙げられている。
その中でも特に「兄弟関係」が重視されているという。たとえば誕生順位や競合関係である。例えば一人っ子と複数の兄弟(姉妹)では兄弟関係が異なる。複数の兄弟がいる場合の末っ子は甘やかされる傾向にあったり、第一子は年下の兄弟に愛情を奪われると感じやすくなる。また、大家族の場合、流産があった場合、兄弟が幼い頃死んだ場合など、さまざまな事象がライフスタイルの形成に影響を与えるという。
キーワード:家族布置
「家族布置の『布置』とはモノの配置という意味ですが、心理学ではありさま、めぐり合わせというニュアンスで使われます。」
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,18p「第一の影響は…これは、家族の配置図で、きょうだいの中で誕生順位(何人きょうだいの何番目か)や、きょうだい間の力関係、親がよく口にする価値観(家族価値)、親を中心とした家族の雰囲気などのことを指している。」
岩井俊憲「アドラー心理学入門」,140p
家族価値について
・家族価値とは「親が子どもに求めるもの」だという。
たとえば「学力が低いやつは価値がない」、「お金をいくら儲けるかが世の中の全てだ」、「親に従わない子どもは価値がない」、「男はこういうものだ、女はこういうものだ」等々、親が子どもに求めるものは子どもに影響を与える。
なにが子どもの「適切なライフスタイル形成」にとって「適切な教育」なのかがここでは重要になる。たとえば子どもの性格をレッテルで決めつけたり、甘やかしたり、競わせすぎたり、期待しすぎたりするのもよくないのかもしれない。DVなど論外だろう。アドラーは賞罰教育を否定している。
(2)環境、文化について
たとえば環境は「自然環境」のような非人工的な、天然のものが考えられる。
たとえば自然災害を経験したり、熊や野良犬に遭遇した子どもは、世界を危険なものとして捉えるかもしれない。
一方で、人工的な文化や法律、政治などの制度が考えられる。
人工的な環境の場合は、特にそれぞれの共同体ごとに環境のあり方が異なるという点が重要である。たとえばアメリカでは「個人の自由」が重視されるパターンがあるが、中国は必ずしもそうではない。そうした環境は人間のライフスタイルの形成に影響をあたえる。
ある国では望ましくないと思われるような行動も、別の国では正反対の望ましいと思われる行動でありうる。しかしアドラーは、そうしたケースバイケースを認めながらも、全ての共同体に共通するような、個別の共同体を超えた「理想」を仮想的に認めているという点が重要になる。
【コラム】性格の遺伝について
・行動遺伝学者の安藤寿康さんの双子の研究を紹介する。
「遺伝子の違いが一人ひとりの高度や性格の違いにだいたい50%ほど影響を与え、残りの50%ほどが環境によるものだという。この影響を与えるというのは親に似るということではないという点に注意する必要がある。
たとえば知能は遺伝子の影響が60%、環境が40%であるという。性格は30~40%が遺伝であり、環境が60%だという。
・環境は親の影響や家庭の影響といった共有環境と、非共有環境にわけられるという(双子でそれぞれ違う友達をもつ、違う学校に行く場合などを考えるとわかりやすい)。この際、家族などの共有環境はきわめて影響が小さいと安藤さんは述べていることが興味深い(双子の実験の場合は、ということなのだろうか)。
また、環境が整っていないと遺伝による素質は発揮されないので、環境を整えること、とくに家庭や学校といった「教育」の重要さも安藤さんは指摘している。当然ながら、遺伝ですべてが決まると主張しているわけではない。
安藤さんいわく性格や能力の遺伝の話はタブーになりがちだという。性差別、人種差別等につながりうるからだ。
とはいえ、「努力や選択」のせいだけに極端に偏る主張はほんとうに望ましいのか、と考えさせられる話である。わたしは正直遺伝の話の論文をすべて見たわけでもなく、見たとしてもその実験の妥当性を容易に判定することは難しい。能力が遺伝するならその能力が性格にも影響を与えるのはわかるが、そもそも性格の遺伝子なるものがあるのか。正直ほとんど理解できていないため、こういう考え方もあることを頭に入れておく。
・遺伝に向き合い、それぞれの遺伝に適した教育や努力というのはたしかに大事なのかもしれないと雑駁に感じた。
自分の遺伝がどういうものなのか、たとえばどういう能力に秀でた遺伝子があり、どういう性格に至りやすい遺伝子があると具体的にわかっていたほうが「材料」としては扱いやすいだろう。ただし、具体的にわかってしまっているがゆえに「言い訳」に使われるようになると劣等コンプレックスの問題が生じるので扱いが難しいと言える。
だからといってアドラー心理学と必ずしも矛盾する話ではないと私は考える。仮に共同体感覚を育むような環境でライフスタイルが形成されていれば、安易に遺伝子を言い訳にするのではなく、むしろ前向きに、プラスに捉えていくような手段としても用いる視野の広さとして捉えることができるからである。重要なのは特に外的環境であり、教育制度や文化、治療などになる。特に私は社会学的視野が重要だと考える。遺伝の明示化はそれらを補完するものとしてプラスへ機能させていくと考えていく。
行動遺伝学者に聞く「遺伝」と「環境」どちらが大事?【後編】 (出典:https://benesse.jp/kosodate/201603/20160316-1.html)
「私的感覚」と「共通感覚」
私的感覚とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
私的感覚:自分自身の価値観、全くの私的な、個人的な意味付けのこと。私的感覚は「共同体感覚の欠如」によって特徴づけされるという。「個人の感覚」とも呼ばれることがある。アドラーによれば「人生からまったく価値を得られていなければ、私的感覚に偏ってしまう」という。「私的な知性」、「私的な理性」、「個人的な意味付け」ともよばれることがある。イメージとしては「自己中心的、自己執着的な感覚」だろう。とにかく自分が大事であり、他者は道具にすぎない。
私的な知性ともいわれる。私的感覚そのものには正誤、上下、優劣などはないという。人の数だけ私的感覚があるということになるだろう。例えば辛いから仕事をしない、面倒だから掃除をしない、怖いから人助けをしない、楽だから人のものを盗むなどそれぞれの私的な感覚がある。
「完全な目標」としての共同体感覚からすれば全ての現実の感覚は私的感覚であり、「誤り」であるとアドラーはいうのかもしれない。自分が完全に達していて正しいと思い込むと危険である。常にあらゆる相手の立場を想定して感覚を磨き続かなければならない。
私的感覚のみや、共通感覚のみなど1か0かのものではないと考えていく。その間を我々は揺れ動き、その完璧なバランスを保っている状態が「共同体感覚」であるとわたしは考えている。
キーワード:私的感覚とライフスタイル
「人間は人生で課題に直面すると、自分自身の価値観(私的感覚private sense)に基づいて、その課題がどのようなものなのか、自分がどのような解決を目指すのか、そのためにどんな対処を適切とするかなどを、主観的に判断し行動します。私的感覚をもとにしているため個人の行動には独特のパターンがあるとアドラー心理学では考えており、そのパターンを「ライフスタイル」と呼んでいます。
私的感覚そのものには本来、正誤、上下、優劣などはないのですが、個人が自分の私的感覚でもってものごとを判断しようとばかりすると、他者との摩擦を生み出しやすくなります。仮想論に従って、どの私的感覚もたくさんある価値観のひとつにすぎないのだという立場をとるなら、課題を解決するそのときどきに有用な価値観を採用することができるでしょう。」
出典:野田俊作財団「彼の人生の捉え方は(わたしたちには明白なのですが、本人はわかっていませんでした)、『世界が勝たせてくれないから出ていかない』という公式にまとめられます。他者への勝利を最終目標と考える人間として見れば、その行動は正しくかしこいものであることを否定できません。男性が自分で作った行動原理のなかにあるのは『理性』でも『共通の感覚』でもなく、わたしが『個人の感覚』と呼ぶものでしょう。実際に、人生からまったく価値を得られていなければ、ひとは男性と同じようなふるまいをするはずです。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,20p「アドラーは1928年,劣等感補償の枠組みに重要な追加を行った。アドラーは論文「理性,知性,知能障害に関する簡潔なコメント」のなかで,私的な知性や理性とコモンセンス)を区別した。後者は共同体感覚(世界に対する開放性と共感)と関連するものである一方,前者は共同体感覚の欠如によって特徴づけされる。アドラーは初期において,精神障害の核心を劣等感と補償に置いていたが,その考えを完全に捨て去ることはせず,のちに個人の人生における合理的で全般的な問題解決への行程に対する関心にシフトし,人生おける失敗は社会的感覚,つまりコモンセンスの欠如に由来すると記している4,p.53)。1936年のインタビューにおいてアドラーは,「共同体感覚を持たない子どもは常に自分の殻に閉じこもり,想像的に不満を大きくする」と述べ,さらに劣等コンプレックスについては,「それは一つの表現に過ぎない。今やあちこちで使われるが,私自身は滅多に使わない」と述べている。アンスバッハーは,イマニュエル・カントの「精神障害の分類」の新訳から「すべての精神障害に共通する唯一の特徴は,コモンセンスの欠如であり,個人にとっての意味づけとしての補償的発達の欠如である」という記述を引き,アドラーより1世紀前の偉大な哲学者が,私的な知性とコモンセンスを区別していたことを指摘している。」
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」138-139p「個人の優越は協働と対立します。この点から見ても、失敗するのは、共生の成長を止め、正しく見る、聞く、判断することのできない人物であることがわかります。こうした人物は道を外れたままでいるために共通の感覚の代わりに『個人の感覚』をうまく利用します。わたしは、甘やかされた子どもは、つねに他者を働かせようとする寄生者だと書き表しました。そこで作られるライフスタイルは、愛情などの精神的なものであれ所有物などの物質的なものであれ、他者の貢献を自分のものだと思うことだと理解できます。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,124-125p
共通感覚とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
共通感覚(コモンセンス):自分だけ、自分たちの共同体だけの常識や価値観を見るのではなく、より広い共同体の価値を考えるような、より普遍的な感覚のこと。この定義だけだと、ほとんど共同体感覚と等しいものであるといえる。
共同体感覚(世界に対する開放性と共感)」と関連するものだとされている。どの私的感覚も数あるうちの価値観のひとつにすぎないと自戒していき、その時々の適した共通感覚から物事を考えるようになるべきだという。
私は共同体感覚と共通感覚を便宜的に区別し、共通感覚の過剰は不適切であり、共同体感覚の過剰は形容矛盾であると考えていく。
あるいは共通感覚は「普通の、常識の、平均的感覚」であり、共同体感覚は「普遍の、理想の、あるいは我々の感覚」であると考え、私的感覚は「特殊な感覚」だと読み替えていくこともできるかもしれない。
このように読み替えていくと、マートンの特殊理論をより普遍的な理論へと繋いでいくという趣旨が煌めいて見えてくる。私は〇〇をするべきである、普通は〇〇をするべきであるという考えから、ほんとうにそうか、〇〇ではないかと無限に視野を広げて考えていくのが共同体感覚である。
アドラー心理学の文脈ではコモンセンス(共通感覚)は常識とは必ずしも重ならない、理想として、つまり共同体感覚とほとんど同義で用いられていることに注意する必要がある。ただし仮に同義なら冗長であり、混乱させるだけである。
キーワード:共通感覚
「共通感覚とは、『健全、建設的であり現実に即した考え』のことです。自分のモノサシではなく、他の人の目で物事を見たり、考えたりすることと言えます。この共通感覚を身につけるには、自分の意味付けを、『本当にそうなのだろうか?』『根拠はあるのか?』と疑ってかかることが大切です。また、自分の意味付けの癖を知っておくのは便利です。悪い方向に意味づけしていることに気づき、共通感覚で見直すきっかけになります。そのうえで、できるだけ建設的に物事を捉え直しましょう。」
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,48p
「コモンセンスは、しかし、常識とは必ずしも重ならないので、『共通感覚』というこなれない言葉を使うことにしています。今現に私たちが属している社会の通念に合致しているのがいいのか、それに対してノーというのがいいのか判断に迷ったらより大きな共同体を考えよ、とアドラーはいってきました。ときには、それゆえ、既存の社会通念や常識に断固としてノーといわなければならないこともあります。」
岸見一郎「アドラー心理学入門」,113-114p
「自己犠牲感」は貢献感か?
アンスバッハーは哲学者であるイマニュエル・カントの「すべての精神障害に共通する唯一の特徴はコモンセンスの欠如であり、個人にとっての意味づけとしての補償的発達の欠如である」という叙述を引用していることが興味深い。
私は共通感覚を「自己が他者の感覚を配慮する感覚」であり、共同体感覚を「我々という感覚であり、我々を配慮する感覚」として区別している。共通感覚の場合は他者を配慮しすぎた結果、自己犠牲につながる。ある種の「固定的になってしまった普通の感覚」とも表現できる。
共同体感覚の場合はそもそも犠牲になる自己や犠牲を受ける他者がないので自己犠牲という概念が成り立たない。自己犠牲は貢献感ではなく「自己犠牲感」というべきものと私は考える。意味づけや動機の問題であり、結果として同じであったとしても違うものだと仮定する。
「我々」にとってプラスの行為をバランスよく行っているような感覚である。普通は私の命を捨てて国に尽くすべきだ、普通に考えて私の命よりも偉大な科学者や政治家の命のほうが価値がある、こうしたケースが過剰な共通感覚である。
完全に共通感覚だけで構成されるようなライフスタイルというものも想定することができない。言い換えれば、「完全な自己犠牲」など存在しない。ある程度「自己のため」という私的感覚が混ざっているものだと考える。人間は私的感覚と共通感覚の間で、常に揺れている存在だといえる。
その揺れの中で、「私的感覚」に傾きすぎると、他者との摩擦、共同体にマイナスな貢献をしてしまうことになる。そもそもこのような過剰な感覚は「メサイアコンプレックス」に近いものだろう。また「我々感覚(共同体感覚)」の完璧なバランスにおいては「我々犠牲」などという意味付けはありえないことになる。
アドラーは「自己犠牲的な生き方を善しとはしていない」という点がきわめて重要であり、「社会に過度に適応した人」として注意している。そもそも、「自己犠牲」という言い方は「自己」と「他者」に区別がついているからこその概念なのかもしれない。もし自己と他者が溶け合い、「我々」という主語になっていれば、他者のために自己を犠牲にするという感覚が生じないのではないだろうか。
・もし宇宙で自分一人しか生きていないなら、共通感覚や共同体感覚は必要ない。他者と一度も出会ったことがない、他の人間の存在自体知らないというような極端な前提のうえで考えるケースである。
というよりそうした感覚は生じようがないという(動物たちのことを思う、ということはありえそうだが)。しかし現実では、我々は孤立して生きるのではなく、引きこもりですら社会の中で、世界の一部として生きている。山奥に籠もる仙人ですら「他者を思う」瞬間があるだろうし、何でも自分勝手に生きることはできない。
キーワード:自己犠牲
「哲人『他者貢献が意味するところは、自己犠牲ではありません。むしろアドラーは、他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを、「社会に過度に適応した人」であるとして、警鐘を鳴らしているくらいです。』」
岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,238p「このように常に自分のことだけではなく、他者のことも考えられる、他者は私を支え、私も他者とのつながりの中で他者に貢献できていると感じられること、私と他者とは相互依存的であるということ、しかし、同時にそのことは決して自己犠牲的な生き方を善しとする考えでもなく、自分も他者に貢献ができていると思えること…このような意味のことをアドラーは、アドラー派の中でも議論の多い『共同体感覚』という言葉で表そうとしているのだ、と私は考えています。」
岸見一郎「アドラー心理学入門」,111-112Pキーワード:カント
「アンスバッハーは,イマニュエル・カントの「精神障害の分類」の新訳から「すべての精神障害に共通する唯一の特徴は,コモンセンスの欠如であり,個人にとっての意味づけとしての補償的発達の欠如である」という記述を引き,アドラーより1世紀前の偉大な哲学者が,私的な知性とコモンセンスを区別していたことを指摘している。」
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」138-139p
ライフスタイルを見極める方法
そもそも自分のライフスタイルを自分は理解しているか
人間は自分で理解している以上のことをわかっているという。意識的な理解以上のものを無意識的に、あるいは「暗黙知」として理解しているということなのだろう。
一方で、人間は自分の目的をたいして「理解」していないという。これは「わかっている」と「知っている(理解している)」のニュアンスの違いに注意する必要がある。たとえば我々は人を顔だけで見分けることができるが、どう見分けているかを具体的に理解していないし言葉で伝えられない。
同じように自分で目的を隠していると強く意識できないでいるのだろう。たとえば怒りや悲しみを支配や復讐のために使っていると明確に意識しているのかといわれれば、なかなか難しい。しかし復讐のためにプラスになる行動だとは「わかっている」のである。
かといって「無意識的に、勝手に、自分の意志とは無関係に、反射的に」という言い方はアドラー心理学では許されない。孤立した部分が勝手にやったのではなく、「私という全体=個人」が部分を意志によって利用したのである。
キーワード:理解
「人間は自分で理解している以上のことをわかっているものです。それでは、この『理解』が眠っているとき、夢のなかで『わかっている』という状態は目覚めているのでしょうか?もしそうであれば、起きているときと同じようなことが証明できるはずです。そして実際、人間は自分の目的を理解せずに目的に従っています。ライフスタイルを理解していませんが、つねにとらわれています。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,270-271p
メモ:意図していないが、意図している?暗黙知?ギデンズ、ポランニーへ
どうやってライフスタイルを理解することができるのか
本人の言葉や思考からは読み取ることは難しい。嘘をついているかもしれないし、本人すら自分の思考をよく理解していない場合がある。
しかしどうにかして自分や他者のライフスタイルがどういうものかを知りたいとき、どこに着目すればいいのか。
ライフタスクに直面したとき「どういう行動をとるか」で特に読み取ることができる。
これは「行動主義」的な側面も含んでいるといえる。例えば口では人助けをしたいと言っていても、いざ病人が倒れたのを目の前にしたとき、いじめられてる人を目の前にしたとき、困っている人を見たときに「見て見ぬふりをして回避したり、これから仕事だからと言い訳をする」ケースもありうる。いわゆる「行動は言葉よりも雄弁」であるということになる。
私はここでもM・ウェーバーの言葉を思い出す。
「『究極の立場』ですって?そんなものは愚にもつかぬおしゃべりのきっかけになるだけですし、センセーションを呼び起こすだけで、なんの役にもたちません。それに、なによりもわたしは、長年の経験から、またわたしの原理的に確信することからして、その問題に関して次のように考えております。
ある人間が本当に望んでいるものが何であるかは、これぞわが『究極』の立場だと称するその人の言い分からではなく、およそ言い抜けを許さぬその時々の全く具体的な問題に対して、いうところの『究極の』立場からして、その人が実際にどう対処するかによってのみ確かめられるのだ、と。」
M・ウェーバー『政治論集』674p~
「つまり、個人心理学の技術でライフスタイルを突き止めるには、まず人生おきた問題を知り、それが個人になにを求めるかを知ることが欠かせません。すると、問題を解決するには、ある程度の共同体感覚、人生全体とのつながり、協力や共生の能力が必要なことが見えてきます。この能力が欠けている場合、さまざまな形で劣等感が強まり、たいていは『ためらう態度』や回避が観察されるようになります。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,38p
「自分と外界のとらえ方は、その人が人生にどのような意味を見いだし、人生にどのような意味を与えているかを見ると、もっとよくわかります。理想的な共同体感覚、共生、協力、仲間として生きる意識に問題があるだろうことは明らかです。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,9p
回避するか、向き合うか
【ポイント】個人の適性が厳しく問われる状況(ライフタスク)で強くライフスタイルは現れ、見極めることができる。
差し迫った問題がなかったり不利な状況でなかったりすればライフスタイルはあまり強くあらわれないという。
たとえば「ためらう態度」や「回避」が見られる場合は、「共同体感覚に欠けているライフスタイル」だと推測することができる。もし向き合う「努力」が見られる場合は、「共同体感覚に満ちているライフスタイル」だと推測することができる。
あるいは「類型」によって、まずは暫定的にあたりをつけていくこともできる。
たとえば幼少期のことを質問していく。幼少期の頃から「器官劣等性」はあったのか、兄弟関係はどうか、親は甘やかしてくれたのか、欲しいものは何でも買ってくれたのか、放置されていないか、そうした影響を聞いていくことは有効だろう。結婚観や将来観について聞いたりするのも有効かもしれない。
当人がトラウマなどを持ち出して言い訳をするという行動を取った場合にもライフスタイルは共同体感覚に欠けているということができる。
あるいは優越コンプレックスの諸特徴である高慢、目立つ服装、けなし好き、ごますり、英雄崇拝などがあるかどうかも重要である。ちなみに、こうしたアドラー心理学の知識を用いて心理学者や医者気取りになり、「あなたは共同体感覚が足りないどうしようもない性格なのね」などと面と向かって言うことは好ましくないので注意する必要がある。そんな事を言う人こそ「共同体感覚が足りない性格」といえる。とはいえ、相手の勇気をくじかずに援助する絶妙な距離感はケースバイケースになるといえる。
キーワード:ライフスタイルはどういう場面でつよく表れるのか
「差し迫った問題がなかったり不利な状況でなかったりすればライフスタイルはあまり強くあらわれませんし、個人の適性が厳しく問われる状況ならばかなり強くあらわれます。芸術や宗教のような並の解決でおさまらない問題では、3つの要素がすべて関わってきます。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,42p
ライフスタイルを変える方法
Q あなたはいま幸せだと感じているか、不幸せだと感じているか。幸せになりたいか。
もし神経症や不幸と感じるような状態にあるなら、その根本には「ライフスタイル」が関わっている。したがって、ライフスタイルを根本的に変化させる必要があり、ある症状だけを緩和させるような対処療法では根本的に改善しない。
例えば肌が荒れる人に肌荒れの薬を処方すると、肌は一時的に治るかもしれない。しかし根本的なライフスタイル、たとえばお菓子ばかり、脂質ばかりを好んで食べる、掃除をしない、不清潔、寝不足、ストレスといった諸事象を生み出すようなパターンが変わらない限りまた肌は荒れてしまうだろう。
出てしまった症状を治すのではなく、そもそも症状を出にくいようなパターンに変化させることが重要である。そのためにはまず自分のライフスタイルを見直すこと、そして変化させる決心をつけることが重要になる。
長く続いてきたライフスタイルほど、変わりにくい。ライフスタイルの再選択は可能か?
「簡単には変えようとしない固定的なもの」である。しかし過去に規定されて一生根本的には「変えられない固定的なもの」ではなく、「ライフスタイルは変えられる」という立場をアドラーはとる。
ガラリと変えることは現実には難しいでしょう。一歩ずつ変えていけばいいのです。まずは誰かに助けてもらった時に「ありがとう」と一言いうだけでも違ってくるでしょう。
人間は不満があっても楽である「予測できるような安定した自分のライフスタイルを変えない」という「決心」をしているという。この「決心」をどうにかする「勇気」さえあれば、人間はライフスタイルを変えることができる。「深淵の前にいて、深淵に飛び込めと言われれば恐れるのが人間です」という岸見さんの言葉を思い出す。たしかに勇気がいる。もしかしたら就職活動や恋愛活動で自分の価値を全否定される場面に直面することもあるかもしれない。しかし勇気をもつ必要がある。
こうした勇気をもつために共同体感覚が必要だという論理になる。後ほど検討するが、共同体感覚は生まれながら持っているものであり、それを「掘り起こす」と表現をすることがある。
・どういう状況で「不適切なライフスタイル」は生じやすいのかを理解する必要がある。
また、どういう方法で「適切なライフスタイル」へと変化させていくことができるのかを理解、発案する必要がある。方法については「技法」に関わる問題、とくに「勇気づけ」が重要である。何が適切かについては「哲学」に関わる問題、とくに「共同体感覚」が重要である。
・アドラーは「ライフスタイルはごく初期のうちに発達し、変わらないからです。変わるとすれば、本人が成長の中で誤りを理解し、人類全体の幸福を目標にして再び社会に参加できたときだけです。」と述べている。
やはり「共同体感覚」が重要になってくるのだろう。
キーワード:再選択
「もしもライフスタイルが先天的に与えられたものではなく、自分で選んだものであるのなら、再び自分で選び直すことも可能なはずです。」
岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,50p
「あなたが変われないでいるのは、自らに対して『変わらない』という決心をしているからなのです。」
岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,51p
「神経症患者が活動性が低かったことを子ども時代にさかのぼって追跡できることは確実でしょう。もともと活動性が低いことは、個人心理学にしたら当然と言えます。ライフスタイルはごく初期のうちに発達し、変わらないからです。変わるとすれば、本人が成長の中で誤りを理解し、人類全体の幸福を目標にして再び社会に参加できたときだけです。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,166pキーワード:固定
「子どもはライフスタイルを固定するまでに試行錯誤的にいろいろなことを試みたはずなのですがいつのまにかこのような状況ではこうすればいいのだという体験を繰り返す中で、自己や世界についての信念を身につけ、固定することになります。」
岸見一郎「アドラー心理学入門」,41p
参考文献リスト
今回の主な文献
岸見一郎、 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」
岸見一郎、 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」
岸見一郎、 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」
岸見一郎、 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」
岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」
永藤かおる、 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」
永藤かおる、 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</p
岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」
岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」
アルフレッド・アドラー、長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」
アルフレッド・アドラー、長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」
心理学 改訂版 (キーワードコレクション)
汎用文献
米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」
トーマス・クーン「科学革命の構造」
真木悠介「時間の比較社会学」
モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」
モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」
グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」
グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」
グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」
マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」
マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」
参考論文
※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です
・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(URL)
– 「共同体感覚」の定義の参照
・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(URL)
・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(URL)
– 「共同体感覚」の定義の参照
・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(URL)
– 「共同体感覚」の定義の参照
・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(URL)
– 「共同体感覚」の定義の参照
・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(URL)
– 統計データ、考察、成人版
千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(URL)
– アーレントの「共同体感覚」の参照。アドラーへの言及は皆無なのだが、しかし人類にとって切実であろうことを語っており、面白かった。これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる。ただし、私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず、今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)。
・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(URL)
– 認知行動療法について参考に。また、行動主義や機能主義についても参考になる
・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(URL)
– 認知行動療法、不安障害について参考に
・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(URL)
– アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳
– 論理療法、アドラーの主張についての理解
・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(URL)
– アドラーの怒り、悲哀、不安などについて参考になる
・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(URL)
・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(URL)
– アドラー、フロイト、ユングなどの夢解釈について参考に
・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(URL)
– 行動療法について参考に
・石倉陸人, 林篤司, 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(URL)
– 認知行動療法について参考に
・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(URL)
– 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(URL)
– ファイフィンガー、二元論、デカルトについて参考に。ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ。
・小西 美典「法における擬制」(URL)
– ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる
・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(URL)
– メサイアコンプレックスの定義の参考に
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(URL)
– メサイアコンプレックスの説明の参考に
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