【基礎社会学第三十回】アルフレッド・シュッツの「目的の動機と理由の動機」とはなにか

Contents

はじめに

概要、要旨、まとめ

  1. ウェーバーの理解社会学:社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学。行為者の主観的な意味の解明を主題にする科学であるといえる。
  2. ウェーバーの分析は、表面だけのところで中断されてしまっている。抽象的、比喩的に定義しただけで終わってしまっている。シュッツからすれば、「見出し」にすぎない。また、自明なものをそのまま受け入れて、問わずに、根本概念としてそのまま扱っている傾向がある。シュッツは上辺だけではなく、もっと徹底して分析するべきだと主張している。
  3. 特に重要なのはウェーバーにおける行為の定義である、「行為者もしくは複数の行為者が主観的な意味を結びつけている限りの人間行動」である。この定義における、「主観的意味」や「人間行動」、「結びつける」といった概念が曖昧であり、それらの構成過程などが徹底的に分析されていないという。シュッツは行為の定義の内、特に「意味問題」を「時間問題」であると解釈し、行為を定義した。シュッツによれば行為とは、「先行する投企に基づいた行動」であり、投企とは簡単に言えば「未来へ目標(目的)を投げかけること」である。行動とは、「自発的な能動作用」を行っている「体験」であり、その点でほかの体験と区別される。ただし、実際に起きた体験、過去を想起、反省する際の自発的な能動作用であり、未来を想像しつつ、想像によって振り返る「行為」とその点で区別される。ここで重要なのは、過去でも未来でもない「現在」、「行為経過」、ベルクソンでいうところの「内的持続の経過」の中では、意味は明らかにされない。なぜなら、体験は無意識的・受動的に、無我夢中に流れていくからである。こうした現在における「内的持続の経過」が過去になった時、つまり「流れ去った体験」という形式をとるときに、意味が明らかとなり、他の体験と際立たされる。このときの「際立たせる」ような意識の根源的体験への向き方、志向的作用、眼差しの方向や構えが「主観的意味」である。「流れ去った体験」を未来に応用することも可能であるという(未来完了的に振り返る)。こうした「意味の構成過程」を明らかにすることによってのみ、行為や行動、体験との区別が可能になり、「社会学の根本概念(一次的構成物)」を我々は獲得することができる。
  4. シュッツがウェーバーに付け足した重要な概念として、「目的の動機」と「理由の動機」というものがある。「目的の動機」とは、未来との関係における動機のことである。「理由の動機」とは、過去との関係における動機のことである。ウェーバーの動機の定義は「行為者自身や観察者がある行動の当然の理由と考えるような意味連関」である。要するに、ウェーバーは「時間」と動機を関連させて深く動機を説明できなかったということである。そのため、「意味」概念も曖昧になり、また「行動」と「行為」の区別も曖昧になってしまった。目的の動機も理由の動機も「経過としての行為」ではなく、「成果としての行為」に関連するものであり、またその「成果としての行為」を未来において想像するか、過去から振り返るかの違いである。経過中か、すでに終わった体験、ないし終わった体験を前もって想像するかの違い。そしてさらに重要なのは、社会学における理念型は主に「行動」ではなく、「行為」の構成を念頭においているということである。だからこそウェーバーは社会学の最小単位を(社会的行動ではなく)「社会的行為」であると主張したのである。シュッツいわく、行為は「目的の動機」をもつものであり、従ってすべての行為は「合理的行為(目的合理的行為・価値合理的行為の両方)」であるという。他の非合理的な行動ないし曖昧な行為も社会学の対象でありうるが、まずは合理的行為が優先とされ、その偏倚(平均値からの偏り)として発見的にそれらの行為が把握されるという。シュッツによれば、あらゆる科学は「合理的」であるべきであり、日常生活のもつれあった「判断内容」を解き明かし明確にすることを目標としている。社会学が科学でいられるのは、こうした「合理性」や「客観性」を伴っているからであり、曖昧で不明瞭な感情移入や予め委ねられた価値に身を委ねないからである。

動画説明

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その他注意事項

私が記事を執筆する理由について

アルフレッド・シュッツとは

・アルフレッド・シュッツ(1899-1959)は社会学者。オーストリアのウィーン生まれ。アメリカへと亡命している。金融機関で仕事をしながら、学究生活を送っていた。

・生前の出版は『社会的世界の意味構成』(1932)のみ。現象学を通して社会学を基礎づけようとしたためシュッツの学問は「社会学的現象学」と俗にいわれ、意味学派に分類されることがある。他にも、「レリヴァンス」や「多元的現実」という言葉で知られている。

・ピーター・バーガーや、トーマス・ルックマンが門弟としてシュッツの学問を引き継ぎ、門弟外としてはガーフィンケルのエスノメソドロジーなどに影響を与えたといわれている。

マックス・ウェーバーの理解社会学とはなにか(おさらい)

※以前記事で扱った内容なのでざっと振り返るだけです。詳細は以下の記事を参照

【基礎社会学第十六回】マックス・ウェーバーの「理解社会学」とはなにか

マックス・ウェーバーの理解社会学とはなにか、意味

POINT

理解社会学・社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学

この定義を真に理解するためには、それぞれの「根本概念」を理解していく必要がある。行為とはなにか、行動とはどう違うのか、社会とはなにか、理解とはなにか、因果的とはなにか、といった基礎単語の理解が必要になる。

各用語の整理

ウェーバーにおける行為とは、意味
POINT

ウェーバーにおける行為・行為者もしくは複数の行為者が主観的な意味を体験に結びつけている(含ませている)限りの人間行動。外的・内的・中止・停止を問わない。たとえば相手からの暴言を我慢するといったような、外的過程には明瞭にわからないようなものも行為でありうる。行為の「選択性」や「意識」、「能動性」が重要になる。例:キーボードを打つ、シャーペンを握る。

ウェーバーにおける行動とは、意味
POINT

ウェーバーにおける行動・行為者もしくは複数の行為者が主観的な意味を結びつけていない(含ませていない)限りの人間行動(体験)。行為の「非選択性」や「無意識」、「受動性」が重要になる。例:熱いものに触り、反射的に手を離す。音がした方へと(反射的に)振り向く。

ウェーバーにおける社会的行為とは、意味
POINT

ウェーバーにおける社会的行為・行為者もしくは諸行為者によって思念された意味に従って他者の行動に関係づけられ、またその過程がこの行動に方向付けられるような行為。ここでいう「思念された意味」とは、感情的過程(要するに外的にはわからない心の動きなど)や外的過程(外的にわかる体の動きによってわかる表面的な心の動き)といったような広義の「主観的意味」を表す言葉である(「考えられた意味」が、目的や理由をもつという狭義の意味だとすれば、それよりも広義の意味となる)。また、「他者」とは特定の人だけではなく、不特定の人を含んでいる。たとえば貨幣の交換は不特定多数の人々との将来の交換を予想して行うものである。

ウェーバーにおける「意味」とは、意味
POINT

ウェーバーにおける意味・ウェーバーにおける「意味」:(1)(イ)一人の行為者が実際にに主観的に考えている意味、(ロ)多くのケースを通じて、多くの行為者が実際に平均的近似的に主観的に考えている意味、(2)観察者が枠組(理念型)を通して構成した、行為者が主観的に考えている意味や意味連関。

ウェーバーにおける理解の二類型(直接的理解と動機理解)とは、意味
POINT

ウェーバーにおける理解の二類型・「直接的理解」と、「動機的理解」の二種類にわかれる。

直接的理解:行為(言葉を含む)の主観的意味を「外的過程」を通して理解すること。直接的理解は合理的なものと非合理的なものにわかれる。たとえば「顔に怒りの表情が出ている」ということは直接的に理解できるし(感情の非合理的直接的理解)、1+1=2だということも直接的に理解できる(観念の合理的直接的理解)。「ドアを閉めようとドアノブに手をのばしている」といったものは「行為の合理的直接的理解」であるとされている。

動機的理解:行為(言葉を含む)の主観的意味を「内的過程」を通して理解すること。たとえば「斧で木を切っている動機はお金のため」といったような例が挙げられる(合理的動機的理解)。「興奮のために斧で木を切っている」というような動機は非合理的な動機である。説明的理解とも言われる。

ウェーバーにおける「動機」とはなにか、意味
POINT

ウェーバーにおける動機・行為者自身や観察者がある行動の当然の理由と考えるような意味連関。「意味適合的」なものと、「因果適合的」なものの二種類にわかれる。

意味適合的:思考や習慣の平均的なものからみて、普通は正しいというような意味連関。例:お金持ちの人が寒いからエアコンをつけるという動機は普通は正しいから、意味適合的な動機として理解できる。

因果適合的:経験的規則から見て、いつも実際に同じような経過をたどる可能性の度合い。ある特定の条件のもとでは特定の結果が生ずる公算が高い規則性があるということ。経験的妥当性。客観的可能性。たとえば貧乏な人は、寒いからといってエアコンつける蓋然性(確かさの度合い)が高いとは必ずしも言えず、むしろ低いこともあり、この場合は因果適合的とは必ずしもいえない。

限られた知、知の不確実性

こうした理解(直接的理解、動機的理解)はどこまでいっても「推定」にすぎず、どこまでいっても可能性や蓋然性が高い仮説にすぎない。経験的にいってこう考えるのが普通だろう(意味適合的)、あるいは他の社会と比較して因果的にこう説明がつくだろう(因果適合的)といったような推定にとどまる。因果適合性を判断できるケースは社会科学では少ないです。なぜなら、自然科学のように、他の要素を一定にしてある要素がある現象に因果的に影響を与えたと証明することが難しいから。

限界内でどこまで理解度を高めるかという点にポイントがある。1(完全に法則から行為を説明できる)か0(行為はいかなる方法でも予測できないから意味がない)かではなく、できるだけ1に近づける作業。必然性ではなく解釈の客観的可能性に着目。そのため、準客観性といわれることもある(佐藤俊樹さんの言い方)。できるだけ妥当な、蓋然性の高い、客観的可能性の高い「理解と説明」を目指す作業。こうした客観性を獲得してこそ、社会学を「科学」として扱うことができる。また、行為の「主観的意味」を客観的に理解するという点で、他の、主観的意味とは独立した自然科学と区別できる。

解明的理解と因果的説明

解明的理解:普通はこういう意味だろう、というような「明証的な解明」による理解。観察者が、観察者側の社会(あるいは被観察者側の社会)ではある行為はこう考えるのが普通だ、といったような経験的な規則等によって裏付けられる理解。明証性という基準がある。

具体的には普通はこうする(合理的行為など)だろう、というような一意的、一面的なモデルを特定の関心から(理念型)を作り、現実と照らし合わせて理解していく。現実と照らし合わせていく過程で、非合理的な要素が索出されるといった発見的モデルとして重要。

因果的説明:他の社会などと「比較」し、因果関係を裏付ける作業によって「因果的に説明」することができる。具体的には比較対照試験などを用いる。経験的妥当性という基準がある。

例えば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では、「解明的理解」が高められたが、「因果的説明」はなしえなかったという。解明的理解がされたからといって、因果的説明ができているわけではない。

・理解社会学は「理解」と「説明」がセットになっている。理解しつつ説明するということを目指す。

しかし理解(明証的な解明)できただけでは、説明(経験的妥当性をもつ因果的解明)になっているとは限らない。明証的に解明できることと、因果的に説明できることがセットになってはじめて理解社会学となる。

シュッツによるウェーバー批判

シュッツにおけるウェーバーの評価

・まず前提として、シュッツはウェーバーの理解社会学をジンメルと並んで独創的であり、優れた業績だと評価している。

・行為に還元して社会現象を理解するという原理(いわゆる行為理論)は、マックス・ウェーバーの理解社会学ほど徹底した仕方において行われたことは一度もなかった、とまでいっている。

・社会学の「根本概念」、つまり社会学の「土台」にまでさかのぼって社会学を基礎づけようとした点は評価されるし、また、その土台からつくられた方法論、たとえば理念型なども重要な貢献だという。

・ウェーバーのなにが問題であり、理解社会学における欠落なのか。

ウェーバーが社会学の「土台」にまでさかのぼって社会学を基礎づけたのは評価されるが、そのさかのぼる深さが表面だけであり、徹底して問われておらず、また解明されていないという点。土台とは、行為とはなにか、行動とはなにか、理解とはなにか、意味とはなにかといった、根本概念の構成過程の解明のこと。シュッツの言葉でいうと「一次的構成物」である。

「ごくうわべだけのところで中断」されてしまっていて、「より詳しい考察を必要とする問題のための見出しにしかすぎない」という。

「反対に、同時代の多種多様な思潮を総括しているウェーバーの著作は、その驚くべき天賦の才による全くの個人的な成果である。彼は、社会学が救済論ではなく科学として登場したかぎりで、今日のドイツ社会学にその職分を示し、また社会学に自己の特殊な課題の解決のためにい必要な論理=方法上の道具を手渡したのである。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,16-17P

「客観的精神の世界を個々の行為に還元するという原理は、マックス・ウェーバーの理解社会学の対象規定にみられるほど徹底した仕方において行われたことは一度もなかった。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,17P

「彼の社会的世界の分析は、社会事象の諸々の要素をこれ以上還元できない、あるいはこれ以上に還元を要しない形態においてはっきりさせたごくうわべだけのところで中断されてしまっている。個人の有意味で理解可能な行為という概念は、理解社会学に固有の根本概念である。けれどもこれは決して社会事象の純粋な要素の一義的な確定を意味しない。むしろ多岐にわたる、より詳しい考察を必要とする問題のための見出しにすぎないのである。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,19P

(1)ウェーバーによる不徹底な考察の例

1:行為理論の最も基礎的な用語である「行為」の定義が曖昧。行為の定義が曖昧である原因は、行為の定義を構成する「意味」や「結びつける」、「行動」といった概念の定義問題にあります。最小単位である「行為」の定義が曖昧だと、社会的行為も曖昧になり、またそれらからなる社会関係や社会形象、社会制度等のあらゆる社会現象の概念も曖昧になってしまう。特に「行為」と「行動」をわける基準が曖昧であることが重要になってくる。

2:「意味」の定義が曖昧。これに関連して、「意味」と「動機」をわける基準も曖昧。「客観的意味」と「主観的意味」をわける基準も曖昧。「直接的理解と動機的理解」の区別も曖昧。

「ウェーバーは経過としての行為(Handeln)と既に完了した行為(Handlung)、産出活動(Erzeungen)の意味と産出物(Erzeugnis)の意味、自己の行為と他者の行為あるいは自己体験と他者体験、自己理解と他者理解を区別していない。彼は、行為者がいかに意味を構成するかについて問題にしないし、またいかに意味が社会的世界における参与者や局外の観察者によって修正変更されるものであるかについても問題にしていない。また『他者理解』現象の正確な把握にとって、自己心理的なものと他者心理的なものとの固有の根本連関を明らかにすることは不可欠であるのに、これも問題にしていない。たしかにウェーバーは、行為の主観的に思念された意味内容と行為の客観的に認識できる意味内容とを対比している。しかし彼はこの両者についてそれ以上の区別を行わず、また意味連関が解釈者のその時々の立場によって被る特殊な意味変化とか、さらには社会的世界のなかの生活者にその同僚や同僚一般が与える解釈の視座とかについても、ほとんど考察を行っていない。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,19P

「私たちの主要課題は、マックス・ウェーバーの批判的解釈を通して『直接的理解と動機的理解』、『主観的意味と客観的意味』、『有意味的行為と有意味的行動』のような概念には、もっと突っ込んだ分析が必要であることが明らかになる。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,25P

(2)ウェーバーの自明視の例(問わずに不問にし、素朴に仮定している例)

・自然的態度を疑わず、素朴に自明視、肯定してしまっている例

※自然的態度については前回の記事を参照。

・自分と同じように他者も主観的意味を行為に結びつける構造をもち、また自分と同じように存在している。動機とは、意味のことである。他者の主観的意味の理解は、普通はこうだろう、というような観察者の習慣や知識にあてはまるような客観的理解でよいとされている。

・こうしたウェーバーの自明視は、日常的に人々がほとんど意識せずに、自明視、確信している態度と同じもの。

たとえば、相手の行為の動機を理解すれば、相手の行為の主観的意味を理解したつもりになるし、多くの場合はそう確信しているし、動機が不明瞭だと意味がわからない、感情的、非合理的などという。現象学の用語で言う「自然的態度」における在り方である。

しかし、社会科学の課題は「自明のものを疑うこと」であり、なんの吟味もせずに受け入れるべきではなく、どのようにそうした自然的態度が構成されているか、私の主観的意味が構成されているか、他者の主観的意味が構成されているか、社会的世界が構成されているかについて徹底的に分析する必要がある。本当に動機の明瞭さの度合いが意味・無意味をわける基準なのだろうか、と疑い、問うことが大事。ウェーバーは問いを中断してしまった。

主観的意味そのものが複雑、カオスすぎて解明できないから、観察者の平均的・近似的な理解や社会学者のより合理的な、理念型的理解で満足するという論理は理解できる。しかし、なぜ理解できないのか、その構造を明らかにしてから進むべき問題であり、そのような不徹底な土台から素朴に妥協された仮定から出発するべきではない。

ただし、ウェーバーの結論とシュッツの結論は似ているという点は重要。シュッツの目的はウェーバーの理解社会学に哲学的な基礎づけ作業を行うことであり、主観的意味そのものは複雑すぎて捉えられない、という「根拠」を「意味の構成過程」を通して明確にする作業。そしてウェーバーの根拠は曖昧で、比喩的で、不徹底で、自明視を疑う作業を中断してしまっている

・感想

特に、シュッツの「彼は、世界一般が、したがってまた社会的世界の意味的現象が、素朴にも間主観的に一致するものとして過程することで満足している(『社会的世界の意味構成』,20P)」という文章が重要です。

間主観的に一致する、ということはつまり「私」だけではなくて、「あなた(他者、彼ら)」と「私」の「我々」の「意味」が素朴に一致すると仮定してしまっているということです。たとえば私は戦争は「悪」だという意味付けを行っています。おそらく「あなた」も戦争は悪だと意味づけているだろうし、、多くの彼らも戦争は悪だと意味づけているだろうと思っています。悪だと思っていない人は少数、例外であり、誤差にすぎないと思ってすらいます。

シュッツいわく、こうした「他者の行為についての自分たちの意味解釈」は大体において的中していると確信しているらしいです。たしかに、自分と同じように人々も戦争は悪、泥棒はいけないこと、働くのはお金のため、中指をたてるということは挑発という意味、等々の解釈は的中していると私も確信しています。

もちろん100%確実にそうだ、と思っているというより、”普通”はこうだろう、というような解釈の仕方をしています。電車で高齢者が目の前にいて席を立つ若者がいれば、「席を老人に譲るために」席を立つという行為をしたんだろうな、と意味解釈を私はします。しかし本人はもしかしたら、もっと違う動機で行為をしていたかもしれません。

シュッツの結論からいえば、社会的世界の意味的現象は間主観的に一致しません。つまり、完全な他者理解などありえないという話です。そうしたことはウェーバーも気づいていたかもしれませんが、なぜ不可能なのかと問い、その理由を徹底的に分析できていないからだとシュッツはいいます。要するに、主観的意味そのものはカオスで他者には完全に理解することはできないので、間主観的な一致で前に進むというわけです。つまり、ウェーバーにおける「意味適合的」の定義のように、思考や習慣の平均的なものからみて、普通は正しいというような意味連関を満たせば、理解社会学における「理解」の大部分は満たされてしまうわけです。

「たしかに私たちはみな、素朴な日常生活においては自分たちの行為を有意味的なものとして体験し、他の人々もまた彼らの行為を有意味的なものとして、しかも私たち自身がそのような行為を体験するのと全く同じような仕方で体験するということを、自然的世界観に基づいて確信しているのである。その上私たちは、他者の行為についての自分たちのこうした意味解釈が大体において的中していることも確信している。とはいえ日常生活のこうした概念を無批判に科学の概念装置のなかに取り入れることは、おそらく次のようなしっぺ返しを受けるにちがいない。即ち、科学の基礎概念のなかに研究の進展を錯乱するような曖昧さが知らないうちに忍び込むとか、あるいはまた現象の深部に横たわっている根が暴き出されないために、本来共属している現象を互いに完全に別個のものとみなしてしまうとかである。以上述べたことは、全く一般的にどの科学にもあてはまることである。日常生活における『自明のもの』をなんの吟味もせずに受け入れてしまうことは、社会学が重大な危険を背負うことに他ならない。社会学の課題は、まさにこの『自明のもの』を疑うことにある。日常生活の社会的世界の諸観念が社会現象の一部を構成しているからには、この世界そのものが社会学の科学的加工の対象でなければならない。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,20-21P

見出しを超えた、徹底したシュッツの分析の例

「経過としての行為と既に完了した行為の区別」、「産出活動の意味と産出物の意味の区別」、「自己の行為と他者の行為の区別」、「自己理解と他者理解」の区別、「行為者がいかに(自分や他者の)意味を構成するかの問題」、「意味が社会的世界における参与者や局外の観察者によって修正変更されるものであるかについての問題」、「自己心理的なものと他者心理的なものとの固有の根本問題」など。

とりわけ、行為のさらに基礎土台である、「意味」という中心概念の徹底した分析がポイントとなり、シュッツはそれらを「時間問題」と同一視し、フッサールやベルクソンの哲学で基礎づけを行うとしている。

・感想

「意味問題は時間問題」というワードはすごく重要です。とくに、自我理解については時間がキーワードとなります。また、時間問題については特にフッサールの「超越論的現象学」の知見が応用される場面が多く、シュッツの「自然的態度の構成的現象学」における超越論的要素という意味で重要になります。ここを理解できればひとまず峠を超えたイメージです。次回の記事で詳細を、今回の記事で概略を扱う予定です。

「意味現象はその全範囲にわたって自己体験や他者体験の意味として解明されるかぎり、こうした試みには詳細な哲学的準備が必要とされる。これまでのおおまかな分析によって、意味問題は時間問題であることが示されている。この時間問題は、勿論分割したり計測したりする物理学的な空間時間の問題ではなく、また常に外的な出来事に満たされた経過にとどまるような歴史的な時間でもなくて、むしろ『内的時間意識』の問題である。体験者にとって体験の意味が構成される、常に固有の持続意識の問題である。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,24P

シュッツによる分析の概要

シュッツによる3つの大きな問題圏(論点1~3、および4)

・主にシュッツの「社会的行為」の分析は以下の4つの問いに対する「回答」として分けることができる。ウェーバーはこれらの質問に対して、曖昧な答えを表面だけ与えているか、あるいはそもそも問題にしていないという。

※正確には3つの問いであり、3つの大きな問題圏。論点1~3は一次的構成物に関するものであり、4は二次的構成物に関するもの。

(論点1)【自我理解の問題】行為者が自分の行動(行為)に意味を結びつけるという言明は、何を意味するのか。

(論点2)【間主観性問題(他我認識の問題)】どのようにして他我は自我に有意味な存在として与えられるのか。

(論点3)【他我理解の問題】どのようにして自我は他者の行動を、一般に、しかじかに行動するものの主観的に考えられた意味に従って理解するのか。

(論点4)【理解社会学の問題】社会的世界を適切に調べるためには、社会科学はどのような方法を用いなければならないのか。

行為の定義の問題は、基本的に論点1の問題に属している。まずは論点1に関するウェーバーへの批判を扱う。

論点2の間主観性問題は、ウェーバーが問題とすらしていないので、特段説明する内容はない。シュッツの説明についてはこの動画で扱いきれる内容ではないので省略する。

論点3の他者理解の問題は、論点1の行為(自我理解)を基本として、行為を他者へ関係づけるとはどういうことなのか、つまり「社会的行為」とはなにかという定義問題へとつながる。特に「直接的理解」と「説明的理解」の区別への批判が中心となる。論点4については論点1~論点3の解明が徹底されていないのにも関わらず社会学理論・概念が形成されているという点で批判される(今回は特段扱わない)。

・感想

「行為者が自分の行為に意味を結びつけているという言明は、何を意味するのか」という問いで、なぜ「行動」ではなく「行為」なのかが気になっていました。正直なはなしをすると、動画の時点で混乱しっぱなしでした。

ウェーバーの定義では行為は「主観的な意味を結びつけている限りの人間行動」です。行為の定義で「行為に意味を結びつける」と言ってしまうと、頭が混乱してしまいます。

中間目標として設定された行動を、「部分行為」ということがあります。ここがややこしいです。行動が、行為であるというと混乱してしまう。ドイツ語で言えば「部分行為(Teihandlungen)」です。handlungは「行動」で、handlenは「行為」です。行為は複数の行動(部分行為)からなりたっているという話です。

経過中の行為(actio)と構成済みの行為(actum)の区別も重要になってきます。シュッツが自分の行為に意味を結びつけるというとき、もっぱら構成済みの行為であるactumを指すことになるかと思います。なぜなら、経過中の行為に意味を結びつけることができないからです。過去となった行為や未来においてこれから想像によって構成済みの行為に意味を結びつけること、この点が重要になっていきます。

【具体例】例えば、手紙を出すという行為において、目標(企て、計画)が手紙が相手に届くことであると仮定する。この場合、行為の中には複数の行動が存在することになる。たとえば、家のドアを開ける、道を歩く、信号で止まる、ポストへ手紙を入れるといった複数の行動が存在する。このように行動を複数に区切ることを、「分節化」という。もちろん、行動の定義は自発的能動性の存在の有無であり、行為を投企したときに意識されないような体験は、行動とみなされない。たとえば、家の「廊下を歩く」という体験が意識されないこともある。つまり、行動の「反省的な眼差し」がそうであったように、行為の投企も「特定の方向」にしか眼差しをむけないのである。

それゆえに、行為に意味を結びつけるとは、行動(部分行為)に意味を結びつけている、眼差しを向けているともいえます。このあたりの詳細な検討は次回の記事で行いたいと思います。

「以上の分析は、既に今後論議されるべき社会的行為の概念に関する3つの大きな問題圏を明らかにしている。(1)行為者が自分の行為に意味を結びつけているという言明は、何を意味するのか。(2)どのようにして自我は他者の行動を、(a)一般に、(b)しかじかに行動するものの主観的に思念された意味にしたがつて理解するのか。この問いかけは、基本的にいって社会科学の対称の基層、つまり他者との日常生活の[意味]措定作用ならびに解釈作用における社会的世界の構成に注目しているものである。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,29P

「こうして、それぞれの手段はそれ自体、投企された所為全体と同じ構造をもっている。つまり、所為の構成要素がそれ自体所為的構造を有する(「部分所為」では意味不明となるので「部分行為」と訳しているが、ここでの行為はHandlungである。ここでHandelnではなくHandlungが用いられているのは、用法として一貫している)。こうした投企は、「段階ごとに(vonStufezuStufe)」、つまり手段それぞれの内部にも見いだされるのである。」

橋爪 大輝「なにが行為を行為たらしめるのか──シュッツの行為論──」,168P

「先に指摘した第2の問題圏──他我の有意味的な先与性──は、ウェーバーの場合にはほとんど問題にされていない。他者の行動の解明について語る場合、ウェーバーは他者の有意味的存在を所与として前提しているだけである。彼の課題設定からみれば、私の意識における他我構成を詳しく説明することは必要のないことである。だが、他者の行動の主観的に思念された意味について考察を行う場合には、他者心理の先与性という特殊な様式についての問いがどうしても提起されなければならない。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,31P

【論点1】の概要

ウェーバーの「行為」の定義が曖昧である、という批判

まずは「行為」の定義が曖昧である、という批判から検討する。

マックス・ウェーバーの行為の定義は、「行為者もしくは複数の行為者が主観的な意味を行動に結びつけている限りの人間行動」である。

この定義で重要なのは、「主観的な意味」を「行動」に結びつけていることが、行為が行為たりえる理由であり、基準であるということである。したがって、「主観的な意味」が結び付けられていない体験は「行動」として定義される。有意味かどうかが、行動と行為の区別とみなされている

なぜこのようにしてウェーバーが有意味かどうかで行動と行為を区別するのか、理由が重要になってくる。

その理由として、(1)ウェーバーは行為の原型(アーキタイプ)として「目的合理的行為」を想定していること、(2)意味と動機を同一視してしまっていることが挙げられている。

「以上の引用文は、ウェーバーの有意味的行動としての行為概念が、実際にはきわめて曖昧な定義であることを物語るものである。今や私たちは上述のような仕方で行為概念を定義するに至ったウェーバーの深い動機を指摘することができる。その動機は、2種類ある。第一に、有意味的行動について言及する際、ウェーバーは全く特殊な行動、即ち合理的な、それも目的合理的な行動を行為の『原型』Archtyposとして念頭に浮かべている。ウェーバーにとっておおむね目的指向が、すぐれて──しかも理解社会学の見地からみれば当然の理由で──意味構成のモデルをなしていることとこれは同じである。第2に、目的合理的、価値合理的、感情的および伝統的の4つの類型による行動の分類は、ある行為に結びついけられる意味とこの行為の動機とを等置していることに起因するものである。この両者の混同は、やがて指摘されるように、ウェーバーにおける理論的展開の首尾一貫性を失わせる。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,30P

なぜウェーバーが目的合理的行為が原型だと見なしているとわかるのか

なぜ目的合理的行為が原型だと見なしているとわかるのかというと、他の社会的行為が「限界ケース」あるいは「限界の彼方にいる」という表現のように、行為と行動の区別が曖昧だからである。要するに、ウェーバーにとって行為と行動の区別が一番はっきりしている類型が目的合理的行為である、という話。

社会的”行為”の四類型(以前動画で扱ったのでそちらを参照)は目的合理的行為、価値合理的行為、感情的行為、伝統的行為の四つである。

【基礎社会学第十四回】マックス・ウェーバーの社会的行為の四類型とはなにか

たとえば感情的行為はほとんど反射的な体験であることが多いという。たとえばお化け屋敷で驚かされて、後ずさりするというような体験は行為か、行動か、判別しにくい。挨拶をされたら挨拶を返すというような習慣的な行為も同様である。価値合理的行為も、エートスのように、無意識的に染み付いてるような、ほとんど反射的なものが少なくない。また、日常生活においては、ほとんどの体験が、ウェーバーのいうところの「行動」に属するものであり、無意識的なものである。なぜ会社にいくのか、なぜ学校にいくのか、なぜご飯を食べるのか、なぜトイレに行くのか、なぜ服をきるのか、なぜ友だちと話すのか、それら全てに毎回、意識的に、目的をもたせているのだろうか。

社会的行為の四類型の中では、目的合理的行為が一番「意識的」であり、「選択的」である。選択的というのは、自分はAという行動もBという行動もすることができるけれども、あえてAという行動を選ぶ、というようなケースである。

たとえば大学の進学先や就職先については、やりたい仕事内容だからとか、給料がいいからだとか、そうした「動機」が明確であり、また選択するという過程を含んでいる事が多い。そうした行為は「目的合理的行為」といわれる。

逆に言えば、そうした意識や選択性の程度の低い、動機の明瞭さが低いような体験は行動と行為の区別がつきにくいというわけである。

「一見したところ、まず行為と行動の違いの指標として提供されうのは、行動の非選択性に対する行為の選択性である。もしウェーバーの有意味的な行動としての行為という定義をそのように解釈するならば、行為に結び付けられる意味、もっとうまく言えば、行動を行為たらしめる意味は、選択……そのように自分は行動できるけれども、自分はそのように行動してはいけないという主従選択であり、そうすることの自由であるということになるだろう。……概していえば、選択意志は体系的に考察すべき、きわめて複雑な意識事象の簡略化した表現にすぎない。この際『意志』現象とは(大抵は不明確な)形而上学的根本態度のことであるとしてなんの解明もせず、そのままにしておくわけにはいかない。そうではなく、選択意志的行動の分sネキは、あらゆる形而上学的問題の此岸において追求しなければならない問題である。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,56P

「第2の表面的か区別は、行為を意識的な行動として無意識的な行動もしくは反射的な行動から分けようとするものである。この場合行動に『結び付けられる』意味とは、この行動をまさに意識することにあるだろう。だがここで『意識的』と呼ばれているのは、明らかに、行動する者に彼の行動が示す特殊な明証性のことである。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,56-57P

動機と意味の同一視とは

・「動機」の明瞭さが低いと、行動と行為の区別がつきにくい、ということは、動機の明瞭さが意味の明瞭さと同一視されてしまっているということになる。

つまり、動機と意味が同一視されている。そしてシュッツはこの同一視を批判している。なぜか。そもそも行動と行為は有意味か無意味か、動機(意味)が明瞭かどうかで区別できず、どちらも大前提として有意味な体験だからである。

POINT:行動と行為は、有意味かどうかで区別することはできず、どちらも大前提として有意味である

・ある体験に意味があるかどうかで区別するのではなく、根源的体験に対してどのような構えをとるか、どのような眼差しを向けるか、それによって意味が知られるかどうか、体験が再構成されるかどうかが重要になる。次の項目で詳細を見ていく。

・感想

日常生活においては、行為の意味とは行為の動機のことである、というような自然的態度がよくとられているらしい。たとえば「ブログを書くという行為の意味」を聞かれた場合、「自分が楽しいから」、「人の役に立ちたいから」といったような「動機」で答える。しかし意味はこのように実体化できるような単純なものではなく、もっと複雑で曖昧で、言葉にすることが難しいような「構え」や「方向」であるとシュッツは言う。そうしたことを理解するためには、意味がどのように構成されるのか、行為がどのように構成されているか、行動がどのように構成されているかを徹底的に分析する必要があるという。

「なぜなら私たちが『行動』と呼ぶものもまた、もっと根源的な語義においては既に有意味的なものだからである。体験としての行動がその他あらゆる体験から区別されるのは、それが自我の能動性を参照しているからである。したがって行動の意味は、態度決定の作用において構築される。だが私はまた、能動性によらない体験についても、それが有意味であるということができる。私がこの体験に注目して、これを私がそのなかで生きている他のあらゆる体験から『際立たせる』ことを前提にしている。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,57P

時間と意味の関係

たとえば、「今」キーボードを打っている時に、私はキーボードを打つという体験に対して自発的な能動作用をむけていない。ただ体験のなかに素朴に身を委ねているのであり、ベルクソンの用語で言えば「内的持続の経過(durée)」の中にあり、フッサールでいえば前回学んだ「現出」、「事象そのもの」の体験、「内的時間意識」の中にある。また、シュッツの用語で言えば、「構成済みの行為(actum)」や「成果としての行為(handlung)」ではなく、「経過中の行為(actio)」の中にある。

「今(現在)」はすぐに、過去になり、今をとらえようとしたその瞬間には過去になっている。時計のような外的な時間ではなく、体験者固有の内的な時間である。1秒とか1時間とか、1時間前でとらえられるような時間ではなく、生成し去るような、継続的で流動的な過程である。

このようなちょうど「現在」の時間において、意味は自発的に行為者に知られていない。このような体験を「根源的体験(原初的体験)」という。

こうした根源的体験の過程では自発的能動作用がないために、体験の意味を知ることはできない。したがって、意味がまだ構成されていない。自発的能動作用がない体験が無意味であるといっているわけではない

たとえば反射的にポテトチップスを食べてしまうような、非自発的な体験であったとしても、後になって、つまり過ぎ去った体験となって自発的能動作用を通して振り返るときに、有意味体験となり、意味が知られ、構成されるのである。もしそのまま過ぎ去ったまま、反省的な眼差しを向けられない、つまりある体験として際立たせられなければ、有意味体験として構成されないまま終わる。たとえばペン回しをした後、挨拶を返した後、電車に乗った後、その体験を振り返らないというようなことは多々ある。喧嘩した後のような、「なんでこんなことをしてしまったんだろう」、というような特別なときに振り返る。辞書で意味を調べるような過程ではなく、内心を探す過程。

体験に意味を結びつけたり、行動に意味を結びつけるというのは、ある体験を際立たせることであり、そうした意味で「知られる」のである。

「私の経過としての行為は、私がそのなかで生きている、一連の今ある体験として、より詳しくいえば、今生成したかと思うと生成し去るような体験として、私に呈示される。また私の意図した行為は一連の予期された将来の体験として、さらに私の経過し去り完了した行為(私の生成し去った行為)は、想起という反省のなかで私が向けている一連の完了した体験として、私に提示されるのである。私が行為の意味と呼ぶものは、それ故単に行為を履行している最中に体得しているような意識体験に限られるのではなく、むしろここで意図した行為といっている私の将来の体験とか、完了した行為といっている私の過去の体験とも関連している。ところで私たちの研究は、前節の終りで既に構成済みの意味内容と自己構成的な意味内容とを明確に区別している。私たちは、この知識を行為現象に適用し、用語として行為成果の(ハンドルング)の産出作用である経過中の行為(actio)と、行為(ハンデルン)によって産出された既に構成済の行為(actum)とを鋭く区別しなければならない。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,54P

「あらゆる経過中の行為は、時間の中で、もっと詳しくいうと、内的時間意識のなかで、duréeのなかで履行される。それは持続―内在的である。これに対して、成果はとしての行為は、持続―内在的な自己履行ではなく、むしろ持続―超越的な履行済みの存在である。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,55P

体験と行動の区別、行動と行為の区別とは

アルフレッド・シュッツにおける時間意識

・「体験の意味を知る」とは、言い換えれば「ある体験を他の体験から際立たせる」ということである。この作用によって、体験と行動が区別される。

・「際立たせる」とは言い換えれば「目を向ける」ということであり、「反省的な眼差しを向ける」ということである。あるいは「縁取りされる」とも表現し、そのような体験を「縁どりされた体験」と呼ぶ。ウェーバーでいうところの「意味を結びつける」という意味である。

・ある体験に意味があるかどうかで区別するのではなく、根源的体験に対してどのような構えをとるか、どのような眼差しを向けるか、それによって意味が知られるかどうか、体験が再構成されるかどうかが重要になる。

・体験、行動、行為を区別するのは有意味かどうかではなく、根源的体験へと「どのような特殊な眼差しを向けるのか」である。そして眼差しによって、意味が明瞭かどうかも区別される。(根源的)体験は無意識的であり、行動や行為は意識的であり、行動よりも行為のほうがさらに意識的であり、動機もまた明瞭であるといったことがいえる。

・もし「現在」の体験に素朴に身を委ねるという眼差しをむければ、「体験」となる。もし「過去」の体験に対して反省的な眼差しを向ければ、「行動」となる。もしこれから起きる「未来」の体験に対して、投企に基づいて反省的な眼差しを向ければ、「行為」となる。※投企とは簡単に言えば「未来へ目標(目的)を投げかけること」。端的に言えば「目標」である。

・ただし、動機=意味ではなく、意味はあくまでも「眼差しの方向」、「根源的体験への態度」といったような、非実態的、非述語的なものである。

アルフレッド・シュッツと主観的意味1アルフレッド・シュッツと主観的意味2

・意味が動機と同一視されてしまうのは、もっぱら「言語」のせいだという。たとえば「木を切った意味」を聞かれたら、「給料のため」というように、意味を言語化(実体化)すれば解明できたような気になってしまう。しかし(主観的)意味はすべて言語化できるような実体的なものではなく、体験を切り取るような方向、構えを意味する。どう切り取るか、縁どりするかはその時々の個々人の関心や知識、話す相手によって変わりうる、流動的なものである。たとえば就職先の面接官に生きる意味を聞かれたときと、友達に聞かれたときでは、どこが切り取られるかは変わってくるし、戦争が始まるというような大きなことや、読書をしたりというような些細な事ですら変わってくる。主観的意味とは、そういった捉えがたい、複雑で流動的な「構え、方向」なのである。

「自我はその持続のあらゆる瞬間において、彼自身の身体の状態、感覚、知覚、態度決定の作用および感情状態についての意識を有している。すべてのこういした構成要素が、その時々の現在の体験の内容を構成し、そのなかで自我は生きているのである。したがって、これらの体験のうちの1つについて、それが有意味的であるという場合、私は当然次のことを前提にしている。私は、この体験と同時に存在したり、それに先行したり、後続したりしている。素朴に体験された夥しい経験のうちから、まさにこの体験を『際立たせ』、これに私が目を『向ける』ことである。私たちは、こうして際立たされた経験を『縁どりされた体験』と呼び、またこの体験について私たちは、これに『意味を結びつける』と言うことにしよう。こうして私たちは、第1の根源的な意味概念一般を手に入れたのである。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,57P

「……むしろ意味はある自分自身の体験に向ける特定の眼差しの方向を言い表す。持続の経過のなかで素朴に惰性的に生きている私たちは、もっぱら反省作用においてこの自分自身の体験を縁どりされた体験として他のあらゆる体験から『際立たせる』ことができる。したがって意味は、自我の経過に対する特殊な構えを指している。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,58P

「言語は、深く根ざしたその理由から一定の仕方で注目される体験を行動として実体化するのであり、その上こうした体験をそもそも行動とする眼差しの方向自体を、この他ならぬ行動にとっての意味として述語するのである。同様に行為もまた、一定の仕方で眼差しに入れられる体験の言語による実体化にすぎないし、いわゆる行為に結び付けられる意味は、自分自身の体験に対する眼差しの特殊な向け方に他ならない。眼差しの特殊な向け方が最初に行為を構成するのである。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』,58P

「行為は、先行する投企のために基づいた行動である。あらゆる投企は行為の『ために』や『なんのために』という要素を含んでいる。そのかぎりではどの行為も合理的な行為である。このような投企がみられない場合、行為者は『行為』を営んでおらず、単にある種の『行動』を行っているにすぎない。またある種の自発的な能動作用すら行っていない場合には、行為者はただ体験のなかに素朴に身を委ねている。しかし、逆に、あらゆる投企された行為はより高次の意味連関のなかに組み入れることができる。この高次の意味連関のなかで投企された行為は、ある上位にある行為目標を達成するための部分的な行為となる。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』331P

意味が明らかになる、意味が知られるとはどういうことか

1:根源的体験、原初的体験、持続の経過、行為の過程、無我夢中の体験のレベル(レベル1とする)では、意味が明らかではない意味は知られていない

2:そうした1のレベルの根源的体験が「過去」となって想起、あるいは「未来」において想像するときに、意味が明らかになる(レベル2とする)。自分は~状況で、~の理由で~をしていたんだ、と明らかになるか、あるいは自分は~状況で~の目的で、これから~をする、と明らかになる。ほとんど能動的・自発的ではない反射的な体験であったとしても、振り返るという特殊な眼差し、特殊な配意、特殊な方向を向けることによって、意味が明らかになるのである。どういう方向かは、その時々(眼差しを向ける時点)で変わる

3:「意味が明らかになる」ということは、「意味が構成される」ということである。意味は1のレベルで発生したのではなく、2のレベルで発生したのである。夥しい無意識的、受動的な体験から、ある特定の体験が区別され、私に捉えられることによって、体験への方向、再構成の方向性が定まり、意味が明らかになる。

4:たとえば、30分後に木を切った理由を振り返れば、意味が構成され、もし言語化するとすれば、「お金のためだ」と実体化されるかもしれない。しかし、1年後にまた振り返れば、「健康のためだ」と実体化されるかもしれない。このように、自分の眼差しと無関係に、意味が自分とは独立して存在するのでなく、その時々の特殊な眼差しによって意味が構成されるのであり、またそうした特殊な眼差しの「方向」、「構え」が「意味」なのである。ただし、言語化して実体化された動機は意味そのものではないという点に注意。

【コラム】主体と客体があらかじめ存在するのではなく、志向性の中で事後的に構成される

小熊英二さんによれば、フッサールの志向性は主体と客体があらかじめ存在するのではなく、志向性の中で事後的に構成されること。個体論に対する関係論ともいう。

つまり、志向性とは(ノエシスとノエマ、現出と現出者の)「関係」のことであり、関係を作るような意識を向けること。豚を見てかわいいとおもうか、食糧だと思うかは関係次第になり、豚のノエマ(ノエマ的意味)がノエシスと無関係に存在するわけではない。意味は生成しつつ消滅するような、移ろいゆくものであり、固定的なものではない。※ノエシス・ノエマなどの話は前回の動画を参照

このフッサールの話のように、「主観的意味」は志向性の中で、反省的眼差しの中で、自発的に意識を向けることによって、事後的に構成され、知られるといえる。ただし、原初的体験が再構成される時点で、原初的体験そのものではなくなり、その時々の関心や状況によって、現出者(超越されたもの、客観的なもの)となっている。「特殊な構え」によってどういう体験が構成されるかが変わってくる。このことは社会学における社会調査のアンケートなどでも重要で、調査員や質問の形式との関係によって回答(動機など)も変わりうるという話につながる。

「近代の基本的な考え方は、『主体があって客体を認識する』というものです。これは物理学でも、経済学でも政治学でも同じです。それをもとに、自然科学も社会科学も、このように考えてきました。……現象学は、それは成りたつのかを問いました。しかし、『この世のことはわからない』という不可知論かというと、そうではありません。実際にわれわれには、ものが見えています。それはどううことか、ものを認識するとはどういうことか。そういったことを考えます。そこでフッサールとその後継者が提唱した考え方は、主体と客体、『私』と『あなた』はあらかじめ存在するのではなく、『志向性』のなかで事後的に構成されるのだ、ということでした。」

小熊英二「社会を変えるには」346~347P

「むしろ、こう考えられないでしょうか。『あなた』の本質などというものは、人間には観測できない。ただ、そのときそのときに、この世に現れた(現象した)姿が見えるだけだ、と。……それでは『あなた』の本質は観測できないとして、『私』はわかるのでしょうか。『私のことは私がいちばんよく知っている』とは言えません。相手から指摘されて初めてわかることもあります。……それでは、こう考えたらどうでしょうか。最初から『私』や『あなた』があるのではなくて、まず関係がある。仲良くしているときは、『すばらしいあなた』と『すばらしい私』が、この世に現象します。仲が悪くなると、『悪逆非道なあなた』と『被害者の私』が、『私』から見たこのよに現象する。これを、『ほんとうは悪逆非道なあなたのことを、私は誤認していた』と考えるのではなく、そのときそのときの関係の両端に、『私』と『あなた』が減現象していたと考える。」

小熊英二「社会を変えるには」348-350P

「ここではあらかじめ『私』や『あなた』がある、それが相互作用する、という考え方を個体論とよびましょう。それにたいし、関係のなかで構成されてくる、相手も自分も作り作られてくる、という考え方を関係論とよびましょう。人間は、なかなか個体論的な発想から抜け出せません。やっぱりあなたが悪い、私が正しいと思い、あれこれの観測を数えあげてしまう。そこのところで、『ちょっと待て、いったん頭を空にしてみよう』という知恵が必要です。それを『エポケー』といい、日本語では『判断停止』などと訳します。」

小熊英二「社会を変えるには」351-352P

「たとえば第3章でも述べたように、途上国の街に行くと、昼間から道端でぼーっと座りこんでいる人がよくいます。その側には、タバコが何箱かならべてある。売れている様子もないし、売る気もあるのかわからない。そもそも売っているのだろうか。こういう人を、『自営業者』と分類するか、『失業者』と分類するかは、むずかしい問題です。見る人や定義によって変わる、としか言えません。調査すればわかるといっても、警官が『おまえ、なぜ働いていないんだ』と聞けば『商人です』と答えるでしょうし、税務署が『税金の申告をしなくていいんですか』と聞けば『失業者です』と答えるでしょう。調査者との関係によって、観測されうものが変わるとしかいいようがありません。」

小熊英二「社会を変えるには」353P

理由の動機と目的の動機

POINT

理由の動機・過去との関係における動機。自発的能動作用によって、体験は他の体験と際立たせられ、意味が体験に知られ(結び付けられる)、行動を形成する。「動機づけられる事態」というのもポイント。

POINT

目的の動機・未来との関係における動機。自発的能動作用に加え、目標(目的)を想像する、つまり「投企」することによって、行動と区別され、行為を形成する。このような動機による行為は、すべて「合理的行為」であり、社会学はこうした「行為」からなる「社会的行為」の理念型を用いて、社会現象を分析するものである。「動機づける事態」というのもポイント。

要するに、ウェーバーは「時間」と動機を関連させて深く動機を説明できなかったということ。そのため、「意味」概念も曖昧になり、また「行動」と「行為」の区別も曖昧になってしまった。目的の動機も理由の動機も「経過としての行為」ではなく、「成果としての行為」に関連するものであり、またその「成果としての行為」を未来において想像するか、過去から振り返るかの違いである。

「かくして行為の主観的意味に関する問いが重要となる。というのも解釈されるべき意識経過を1つの単位行為にするのは主観によって、ただ主観によってのみ確定されるからである。マックス・ウェーバーはこれがもとで行為の意味と行為の動機とを同一視してしまっている。これに対して私たちは、動機には既に一連の複雑な意味構造が予め与えられているとの結論を得たのであった。私たちは動機を、動機付ける自体と動機づけられる事態との意味関連として理解し、これを目的の動機と理由の動機とに区別したのである。」

アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』302P

論点2(間主観性問題、他我認識問題)の概要

※次の次の記事で扱う予定です

 間主観性問題は超越論的方法の解明は断念し、内在的、存在論的に、自然的態度において、心理学的にどのように人々が社会的世界を構成しているかを明らかにすることを目指す。他者の身体(しるし)を見て、そして同時性(たとえば大きな音がして友達と同じ方向を振り向くなど)を手がかりにして、どうやら他者も自分と同じ意識構造をもっているぞ(しるされるもの)、と確信するようになる。身体が現前し、他者の意識体験が付帯現前する。「他者の意識と自身の意識の同時性」が成り立つことを「自然的態度における他我の一般定立」という。

論点3(他者理解問題)の概要

「社会的世界」とは

 他者理解は他人の行為の「類型化」を通して行われる。社会的世界は直接世界、共時世界、前世界、後世界からなり、直接世界においては状況や個体の「類型化」が行われず、かけがえのない「われわれ関係」が存在するだけである。たとえば過去を想起したり、未来を想像した時の再構成された他者は直接世界における「今」相対しているかけがえのない他者ではなくなっている。

直接世界以外の世界において、「彼ら関係」が存在し、他人の行為が「類型化」を通して理解される。類型化を通して理解されるということは、他人の主観的意味そのものは理解されず、記憶、経験、知識などに基づく一般化された意味、「客観的意味」が代用され、理解される。社会学における客観的意味は、それよりも厳格な基準、論理的一貫性、合理性などを満たしたものであり、類型と区別され、「理念型」という。どちらも能動的な意識を伴う理解は行為者本人の「主観的意味」ではなく、観察者(他者)側の「客観的意味」で代用されているというのがポイント。より客観的なもの、より合理的で明瞭に理解できる「客観的意味」へと組み替えることが科学の役割。

※次の次の次で詳細を扱う予定です

ウェーバーにおける「直接的理解」と「動機的理解」

ウェーバーは他者の行為理解を「直接的理解」と「動機的理解」の2種類にわけている。つまり、「他者が自分の行動に結びつけた主観的意味」を私がどのように理解するかについての分類である。

先程の話でいうと、複雑でカオスで、生成したと思えば消えているような、体験への眼差しの方向、構えといったある他者の「主観的意味」を私がどのように「理解」するのか、何をもって理解したということにするのかという話。結論からいえば主観的意味そのものを直接的理解でも動機的理解でも理解することはできず、他者がもっている客観的意味で代用して理解するしかない。他者の原初的体験に対して私が体験することも、私が眼差しを向けることもできない。私は私の原初的体験を体験し、私の原初的体験に対して眼差しを向けることができるだけである。

ウェーバーの直接的理解:「外的過程」を理解すること。直接的理解は合理的なものも非合理的なものもある。たとえば「顔に怒りの表情が出ている」ということは直接的に理解できるし(感情の非合理的直接理解)、1+1=2だということも直接的に理解できる(観念の合理的直接的理解)。「ドアを閉めようとドアノブに手をのばしている」といったものは「行為の直接的合理的理解」であるとされている。

ウェーバーの動機的理解:意味を動機的に理解すること。たとえば「斧で木を切っている動機はお金のため」といったような例が挙げられる(合理的な動機)。「興奮のために斧で木を切っている」というような動機は非合理的な動機である。外的過程と対比して言えば、「内的過程」を理解するということになる。

主観的意味と客観的意味

・ウェーバーは他者理解(他者の主観的意味)を「直接的理解」と「動機的理解」の2つに分け説明しているが、この回答は問題の核心からずれてしまっている。これらの2分類は曖昧であり、またどちらも「主観的意味」の理解へとつながらないという問題がある。

・「他者の行動の主観的意味の理解」ではなく、「他者の行動の客観的意味の理解」にすぎない。

・ウェーバーは行為者自身にとっての行為の意味と、その行為の観察者や研究者にとっての意味とを区別せず、混同してしまっている。

・結局のところ、行為者の主観的意味は観察者や研究者にとっての意味(客観的意味)であると素朴に同一視されてしまっている

・シュッツの主張は、それらが同一ではないと主張することである。ウェーバーもそれらが違うということは知っていたが、そこから進まずに、中断したという言い方が正しい。

自己理解と他者理解、自己体験と他者体験が同一でないことを研究者(社会学者)に意識させ、できるだけ乖離しすぎないように理論や概念を構成する試みをするべきだとシュッツは言う。

「マックス・ウェーバーは、投企された行為成果と履行された行為成果とを区別しておらず、これがもとで行為の意味と行為の動機とを同一視してしまっている。これに対して私たちは、動機には既に一連の複雑な意味構造が予め与えられているとの結論を得たのであった。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,302P

「『私は……のためにそう行為する』、『私は……だからそう行為する』というのは、一般に、どんな意味を行為に結びつけているかという質問に対して、常に与えられる回答である。しかしながら、このような言い方は、行為者のきわめて複雑な『意味体験』の簡略な表現以外の何物でもないこと、したがって『動機』を述べることが決して『思念された意味の最終的な構造を明らかにするものではないことを、この際はっきりさせておかなければならない。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,42P

「行為者は、かくして、意味連関について、その有意味な行為の有意味的な根拠について、要するに動機について問題にすることができる前に、『思念された意味』が行為者に既に与えられていなければならないということができるわけである。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,42P

「ウェーバーのいわゆる動機遡及的理解は、主題からみれば動機の暴露を対象にしているにすぎない。しかしながら、動機の把握は、論じたように、ただ行為の既に解明されている意味自体から行いうるものである。この行為の意味は、たしかに思念された意味として行為者には疑問の余地ないものとして与えられるが、しかし観察者にはそうはいかない。そこでいわゆる動機遡及的理解は、行為者に疑問の余地なく与えられている意味を観察者に疑問の余地なく与えられている意味で代用するのである。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,43P

Qなぜ他者の行動の客観的意味の理解にすぎないのか

たとえばウェーバーの直接的理解の「ドアを閉めようとドアノブに手をのばしている」という「行為の直接的合理的理解」を考えてみる。

なぜ他者に「ドアを閉めようとしている」と直接的に理解できるのだろうか。もしかしたらドアを壊そうとしているかもしれないし、開けようとしているかもしれないし、ドアに触りたいだけかもしれない。そのような行為者本人しかわからないような主観的意味を、「外的経過」を見て他者である観察者が理解できるのか。内的経過も同様で、「お金を稼ぐために木を切っている」ということが理解できるためには、行為者の背景的な過去、現在、未来の一連の知識、たとえば「賃金契約をしていた」などの知識をすべて知っている必要がある。その上で、観察者の客観的知識に主観的意味が内属している(組み込まれている)と言う事ができるが、それでもなお、客観的意味にすぎず、主観的意味そのものではない。

「ウェーバー流に言えば、ここでは直接的理解可能なある行為が主観的に思念された意味に従って内属している意味連関が問題である。というのもウェーバーは、先に引用した同じ箇所で、私たちに理解可能な意味に従って当の行為が内属している、私たちに理解可能な意味連関について語っているからである。しかしこの表現の仕方は、曖昧であり、その上一見したところでは矛盾してもいる。なぜなら、私たちに理解可能な意味連関は、主観的に思念された意味に従って行為が『内属している』意味連関と同じであるとは必ずしも言えないからである。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,40P

「つまり動機遡及的理解は、脈絡からはずれた『スナップ』写真では不十分であり、説明的理解はむしろ行為者の適切な過去や将来についての一連の知識を予め前提しているということである。……このようにして行為はその主観的な意味に従って私の認める意味連関に内属しているかどうかを確定することができる。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,40-41P

・しるしと、しるされるものの関係
POINT

しるし(独;Anzeichen)・説明

外的経過、体の変化は確かに直接的に観察できるが、それは「しるし」にすぎない。歯ぎしりをしたり、目つきがわるくなったりしているからといって、怒っているとは限らない。感情と同様に、「言語」もしるしにすぎない。「給料のために木を切っていた」と行為者本人が説明したとしても、そうした動機の言語化は「しるし」にすぎず、原初的体験へと反省的眼差しを向ける時の「方向(しるされるもの)」とは違う。もっといえば、その質問をされて眼差しを向けた時の方向から1秒でも経過すれば、また別の「方向」が生じつつあり、また消えつつある、流動的なものである。

要するに、こういう外的経過の場合は普通はこういう意味だろう、こういう意図だろうと観察者(他者)に与えられている意味から判断しているのである。この場合の「普通はこういう意味だろう」という観察者の意味を、単に行為者本人の意味(主観的意味)ではないという意味で、「客観的意味(連関)」と呼ぶ。

「ところで、これらすべての外的世界の経過や事物は、これを体験している、それも解釈的に体験している私にとって意味をもつが、しかしこの意味は必ずしもこの行為を惹き起した他社の方で彼の行為に結びつけている意味である必要はない。というのも外的世界のこの対象物(経過や産出物)は、行為者の主観的に思念されたしるし(Anzeichen)にすぎないからである。私たちはこの行為者の行為を経過として知覚したり、あるいはこの行為者の行為が外部世界のこうした対象を産出したものとして知覚するのである。『しるし』という用語を、私たちはフッサールの『論理学的研究』の精確な意味で使用する。『しるし』は、『ある対象なり事態が、その存在について直接の知識を得ている人に、一定の他の対象なり事態の存在を指示し、しかも一方の存在についての確信が、彼によって他方の存在についての確信なり憶測の動機として(それも非洞察的な動機として)体験される、という意味で指示すること』である。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,33P

直接的理解でも、動機的理解でも「主観的意味」に近づくことができない

・笑いの中に歓びを、涙の中に他人の苦悩や苦痛を、赤面の中に恥じらいをといったものを直接的理解だと仮定してみる。しかし、ある「笑い」によって人を落ち着かせるという「動機」や、「涙」によって人を騙すといった「動機」までは直接的にはわからない。

したがって、直接的理解だけではなく、動機的理解も必要になる。

・ウェーバーによれば、動機とは「行為者自身や観察者がある行動の当然の理由と考えるような意味連関」である。

動機的理解とは、「斧で木を切っている動機はお金のため」といったような例が挙げられる。しかし、なぜ観察者にそのような動機が理解できるのか。行為者が薪割作業者の登録申請を行っているだとか、ストレスがない状態でいるだとか、そうした行為者の適切な過去や未来についての知識を前提していなければ動機的理解ないし説明的理解はできないはずである。

動機的理解ではそのような知識を前提としているのであり、もっぱらその意味において、直接的理解と区別される。ただしウェーバーは「ドアを開けるためにドアノブに手をかける」というようなものも直接的理解としているため、区別は曖昧であり、知識量の差、動機遡及を中断しているかどうかなどで区別されている。

POINT1:直接的理解では、行為者が行動に結びつけた意味、すなわち「主観的な意味」に近づくことができない

→外的経過を観察するだけでは、主観的な意味に近づくことはできない

→外的経過を観察することによって得られるのは、「主観的意味連関」ではなく、「客観的意味連関」であり、「行為経過の客観的対象性」である。そして、「客観的意味連関」は、行為者がその行為について思念している意味連関ではない。

例:「斧で木を切っている」というような直接的理解をしたからといって、行為者が行為に結びつけた意味が解明されるわけではない。謎のままである。

POINT2:動機的理解でも、行為者が行動に結びつけた意味、すなわち「主観的な意味」に近づくことができない

→ウェーバーの定義では、「行為者に疑問の余地なく与えられている意味(主観的意味)」が「観察者に疑問の余地なく与えられている意味(客観的意味)」で代用されてしまっている

→「観察者に疑問の余地なく与えられている意味」で代用することによって得られるのは、「主観的意味連関」ではなく、「客観的意味連関」である。

例:「斧で木を切っているのは、おそらく給料を稼ぐためという動機だろう、なぜなら彼は〇〇伐採業に依頼されているからだ」というような動機的理解を観察者がしたからといって、行為者が行為(行動、体験)に結びつけた意味が解明されるわけではない。謎のままである。もしかしたら内心では、お金のためではなく、ストレス解消のためだけに切っているかもしれない。

「ところで、ウェーバーの直接的理解と動機遡及的理解の概念を相互に比較してみてわかることは、この2つの理解の仕方の区別が恣意的なものであり、また内容的にも無根拠なものであることである。どちらの場合にも解釈者には客観的意味連関が与えられながら、どちらの場合にも主観的意味の把握は閉め出されている。主観的意味に直接的理解の主題が向けられる場合、この直接的理解は、動機を尋ねる際につきものの無限遡及を適当なところで完全に中断しさえすれば、動機を尋ねるのとほぼ同じように扱うことができるだろう。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,43P

・主観的意味とは結局どういう意味なのか
POINT

主観的意味・生成したとおもったら消滅するような、根源的体験へ向けられている眼差しの方向。今現在体験しつつある、その過程の場合は体験が縁取られていないので主観的意味が行為者本人に知られない。体験がすでに終わったあと、つまり過去の体験を振り返る、想起する場合に意味が知られる。未来の体験を想像する場合にも意味が知られ、かつ一番明瞭に知られる。

知られるとは、際立たせること、縁取りをすること、他の体験と区別することであり、ウェーバーでいうところの「行為に意味を結びつける」ということである。

・フッサールの言葉でいえば、主観的意味とは「概念的・統一的な一群の可能的意味を抱合しつつも、その都度の明示的意味を方向づけることが本質的に重要であるような表現」である。

・客観的意味とは、「表現がただその音声的現出内実によってのみその意義を拘束している場合、ないしは拘束しうる場合であり、したがってそれを表明する人物やその表明の事情を顧慮しなくとも理解しうる場合」である。

「『私たちがある表現を、客観的と呼ぶのは、その表現がただその音声的現出内実によってのみその意義を拘束している場合、ないしは拘束しうる場合であり、したがってそれを表明する人物やその表明の事情を顧慮しなくとも理解しうる場合である。』これに対して表現が本質的に主観的かつ機会的であるのは、次のような場合である。即ち『概念的・統一的な一群の可能的意味を包含しつつも、その時々の機会に応じて、つまり話し手とその状況に応じて、その都度の明示的意味を方向づけることが、本質的に重要であるような表現』の場合である。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,48P

「成果としての行為」と「経過中の行為」
POINT

成果としての行為・既に履行された存在であり、行為の主体から切り離して、また行為者の構成する意識体験から切り離して、これを考察することができるもの。超越的な履行済みのもの。

POINT

経過中の行為・履行中の存在であり、行為の主体に関係づけられているもの。内的時間意識の中、duréeの中で履行される、内在的なもの。

・感想

内在的と超越的の対比は前回フッサールを学んでいるとわかりやすいかもしれません。

たとえば現象そのもの、事象そのもの、直接体験そのものといったものを行為の経過中に意識することはできません。意識するということは、別の言い方をすれば志向性であり、志向的体験です。キーボードを打っている時、ゲームをしている時、食事をしている時、その「現在」の「行為の過程」において、自分がどういう動機でしているか、自分の行為はどういう意味かを明らかにするということはできないのです。

そもそも「現在」はすぐに「過去」になり、「未来」もすぐに「過去」になります。たとえば「今キーボードを打っています」と入力したとたん、それは「キーボードを打っていた」に変わっているわけです。今キーボードを打ちながら、打つ意味は「文字を入力するためだ」という眼差しを同時に向けることはできるのでしょうか。打つ前にすでに眼差しをむけているのかもしれません。眼差しを向けようと構えた瞬間、それはすでに「履行された行為」に向けているのでしょう。ある行為に事前に眼差しを想像によって向けようとするか、あるいは事後に眼差しを想起によって向けようとするか、どちらかしかできないわけです。

思い出したり、想像したりして「根源的体験」を特定の眼差しの方向で捉えること、まさしくこの方向に、際立たせ方こそ、かまえこそが「主観的意味」なのです。

ミードでも学びましたが、「自分自身をつかまえるほどすばやくは走り回れない」わけです。

「この瞬間の『I』は、つぎの瞬間の『me』のなかに現存している」(Mead 1934=1973:186)、「だから、自分自身の経験のどの点で直接に『I』が登場するのかという問への解答は、『歴史的人物の形でだ』ということになる」、『わたしは、自分自身をつかまえるほどすばやくは走り回れない』(Mead 1934=1973:187)といったミードの説明はわかりやすいです。

ミードで言うところの、客我になって主我が間接的に分かるというのはシュッツにおいても重要になります。なぜから、主観的意味はいかなる意味においても「客観的意味」として私たちが能動的に眼差しを向けることでのみ与えられるからです。主我は客我を通して間接的に与えられる、というミードの言い方と重なるところがあります。

【基礎社会学第二十四回】G・H・ミードの「主我と客我(IとMe)」とはなにか

「成果としての行為(Handlung)は、したがって既に履行された存在(ein Gehandelt woeden sein)であり、行為の主体から切り離して、また行為者の構成する意識体験から切り離して、これを考察することができる。経過中の行為は、それぞれの履行された存在に先立って与えられるが、成果としての行為が論じられる際には、それは主題として注目されることはない。成果としての行為とは反対に、経過中の行為は主体に関係づけられており、それは匿名の履行の結果ではなくて、むしろ(私自身とか他我の)行為者の具体的な個別的な意識経過における一連の自己構成的な体験である。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,55P

直接的理解と動機的理解の区別が重要な理由

・直接的理解と動機的理解の区別は曖昧だが、それにもかかわらず重要な点がある

1:直接的理解とは、「行為の経過そのもの」、「経過中の行動」に向けられているものである。たとえば「斧で木を切っている」まさにその行為の経過を他者が見て、同時に体験して、そうしたしるしを手がかりとして、理解するものである。

2:動機的理解とは、その反対に、「行為が経過してしまったもの」として、あるいは「行為が未来のなかで経過してしまうであろうもの」として、行為が対象となる。行為の過程そのものが「現在」に関連しているのだとすれば、動機的理解は「過去」や「未来」が中心となる。

3:動機的理解ないし説明的理解は、行為の経過そのものを対象としないゆえに、直接的理解よりも「高度な明瞭性」、すなわち「合理性」(はっきりと理解できる)が得られる。したがって、このような動機的理解が「主観的意味」解明の科学的方法を基礎づけるべきだという。また、その反対に、日常においての理解はほとんどの場合は「直接的理解」だという。つまり、日常においては、明確に目的をたてたり、過去を振り返ったりすることが少なく、ほとんど習慣的、反射的、受動的、無意識的な体験が多く、曖昧で、不明瞭で、意味がもつれあっている。

4:体験よりも行動、行動よりも行為のほうが、意味が明瞭である。したがって社会学はこのような「行為」を最小単位とする「行為理論」である必要がある。とりわけ、目的合理的行為や価値合理的行為が理念型の構成として優先され、他の行動や体験はそれらの理念型の偏倚、偏りとして発見的に理解されるものとなる。

あらゆる意味は、「客観的意味」として私たちが能動的、意識的に眼差しを向けることで、与えられる

 あらゆる意味は、「客観的意味」として私たちが能動的、意識的に眼差しを向けることで、与えられる(知られる、明らかになる、際立たせられる、結び付けられる)にすぎない。明らかにならない意味は、体験としてそのまま素朴に、無意識に流れていくのである。

 たとえば2×2=4であるという客観的表現や、泥棒は「他人の物を盗むことである」といった客観的表現が予め与えられている。意味を辞書で「調べる」、計算結果を「調べる」というように、自分とは独立して、自分の態度とは無関係にある、匿名的・客観的なものである。

 社会学が明らかにしようとしている「行為者によって思念された意味」とはそうした匿名的・客観的意味ではない。まさに行為をしているのは他ならぬこの行為者であることが重要であるような意味、すなわち「主観的意味」である。

 ただし、そうした非匿名的な主観的意味そのものをそのままの形で理解することはできない。本人のみが体験しているのであり、本人すら言語化できない。だからこそ、主観的意味を客観的意味で代用して、つまり類型的、理念型的に、普通はこうだろうという意味で理解するしかない。日常生活のこのような類型よりもさらに論理的一貫性をもった「理念型」で他者の行為を「説明」しつつ、かつ類型、つまり日常生活における理解の在り方と乖離しすぎないように「理解」する必要がある。

POINT:直接的理解の場合が「現出を見て現出物を構成する超越的な過程」だとすれば、動機的理解の場合は、すでに現出物から出発してる。サイコロの一面を見て、サイコロそのものを構成するのではなく、サイコロそのものから出発している。そのため、動機的理解のほうが客観性が高く、高度な明瞭性が得られるという。普通~の場合、~のケース、~の状況などにおいて斧で木を切るというのは~のためだ、というような客観的意味から出発している。まるで行為者であるかのように、観察者が普通はこうだ、というような超越物を設定している。※現出・現出物については前回の動画を参照。

比喩的に言えば、裁判官が交通事故において故意か過失の際の判決のように、~の場合は本人がどう心で思っていようと、~という故意(わざと事故を起こした)があったとみなされて話がすすんでいくようなイメージ。行為者の心はほんとわざとじゃないかも・・というような曖昧なものは隅におき、当時の状況、たとえばタイヤの痕や、アルコールの検出、防犯カメラ等、因果的、客観的に説明できる判断材料、さらには普通は~であるというような平均的理解で判定していく。法が合理性を重視するように、社会学も同じように合理性を重視する必要があるというわけだ。したがって、直接的理解ではなく、動機的理解(説明的理解)が社会学の理解の中心となる。

「しかもAの行為が、たとえば命題を述べる場合のように、客観的意味内実を伴う措定をする場合でも、事態はそうではない。なぜならBとCにとって興味があるのは、結局のところ、が表現されているかという意義、つまり表現のイデア的対象ではないからであるし、また誰がそれを措定しようと、不変であるような表現の意義でもないからである。むしろ、社会的世界の観察者は今、ここで、しかじかの仕方でこの措定を行っているのは他ならぬAであるという現象を解明しようとしてる。……即ち、Aはこの命題を述べることに特殊な意味を結びつけているとか、ある一定の意図でそれを述べているとかいう風に。だが、このような関心からは、まさしく客観的表現として表現された事柄は、ほとんど重要ではなくなる。なぜなら、経過Hの解釈に際してBとCに提出される問題とは、この人間が今、ここで、このようにこの命題を述べているという事態の基礎になっている機会的かつ主観的(本質的には決して機会的かつ主観的とはいえない)契機を解釈することにあるからである。私たちのこれまでの言い方の意味では、Aが今、ここで命題を述べることもまた、客観的に有意味なのである。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,48~49P

「さて、『イデア的対象』としての表現の客観的意味内容とこれが結びついてる言語、芸術、科学、神話等の大きなシステムが、他者の行為の意味解釈の際に、特殊な機能を果たしているのは勿論である。それらはいってみれば他者の行動のあらゆる意味解釈の解釈図式として予め与えられている。経過HのなかでBとCに与えられている客観的意味という言い方も、本来的にはまさにこのことを意味してる。即ち、この経過の解釈は、BとCによって行われるとしても、そのかぎりで彼らと関係があるにしても、通常はそれが客観的に予め与えられている解釈図式に基づいて行われる。」

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成」,49P

【コラム】ウェーバーとフッサールの関係

ウェーバーが前期フッサールを参照していたとか、研究者と行為者の区別を行っていたという話もある。『社会学の根本概念』では区別されず、『理解社会学のカテゴリー』では区別されていたらしい。つまり、表面以上の分析もある程度は行っていたということになる。たとえば(歴史においては)行為者はいつも常識的見地などの判断や客観的に妥当と思われる動機を抱いているとは限らないという点が重要であり、実際の行為者への因果帰属も重要だという認識をもっていたそうだ。ただし時間的には『社会学の根本概念』の方が後の著作であり、そうした認識は弱くなっていったと解釈される。

※興味のある方は宇都宮京子さんの『ウェーバーにおける現象学の意義とその影響についてシュッツ、パーソンズのウェーバー解釈と「客観的可能性の範疇」をめぐって』を参照。

論点4(理解社会学の方法)の概要

いままでの整理

1:他者の主観的意味そのものを理解することは誰にも、本人でさえもできない。行為者本人も、他者も、主観的意味そのもの、現在の行為過程の中では意味を知ることができず、過去や未来の行為結果の中でのみ意味を際立たせることができる。ただし、意味そのものを言語化することはできない。なぜなら、意味とは原初的体験へと向ける特殊な眼差しの「方向」であるからであり、この方向はもつれ合っていて、不明瞭である。

2:あらゆる意味は、客観的意味連関として私たちに与えられる(知られる)にすぎない。その客観的意味連関としては、感情的行為のように目標が不明瞭なものもあれば、目的合理的行為のように明瞭なものもある。たとえば言語化によって意味を行為者本人が説明する時、それらは客観的意味連関となっている。普通はこういう場合、こういう意味だよな、と他者から解釈されたり、私はこういう意味だと解釈する、というように、本人以外の、つまり客観的な意味を通して解釈されている。

3:日常生活者における「客観的意味連関」と社会学者における「客観的意味連関」は違う

言い換えれば、日常生活における理論と、社会学における理論は違う。日常生活が「類型」、普通はこうだろうというような、というような理解で、ときには論理的矛盾を伴うものだとすれば、社会学では「理念型」であり、特定の関心から論理的一貫性をもった理論が構築される。

原初的体験への眼差しによって、それぞれの理論、枠組、ストックを通して体験は解釈され、再構成され、「客観的意味連関」となる。

一般に、理論とは、「個々の現象を統一的に説明できる、普遍性のある知識体系」のことである。複雑で豊かで意味のもつれあった現象、主観的意味の情報を、理論によって理解できる形に再構成する。そうした明確さの度合いが、科学の方が高いということ。たとえば、水は火であたたかくなるという日常生活の理論と、分子の運動がさかんになり、水蒸気の圧力が高まるという科学的な理論では明確さが異なる。

・日常生活における理論と社会学、もっというとあらゆる科学の理論との最大の相違はなにか。それは「合理性」である。

・たとえば矛盾のないように論理的に概念や理論を形成したり、意味適合的・因果的に説明できるような基準を満たすような理論が理解社会学における理論の基準である。自然科学の場合は特に実証性が重視される。ウェーバーの理解社会学においても、自然科学のようにではないにせよ「思考実験」によって因果的説明を行い、客観的可能性を高めることを要求される。

4つの公準:論理的一貫性の公準、レリヴァンスの公準、主観的理解の公準、適合性の公準

・シュッツによれば、あらゆる科学は「合理的」であるべきであり、日常生活のもつれあった「判断内容」を解き明かし明確にすることを目標としている。日常生活では無意識に理論を通して現象を捉えているが、科学においては、そうした理論を求めることを目的として定められているのであり、最初から前提されているのである。

・社会学の主題は主観的意味を客観的意味に組み替える、代用することであり、曖昧で多義的な意味を明白で一義的なものとして、不変なものとして確定することである。一方で、前科学的、日常的に行っている常識的なものと乖離しすぎないように気をつけなければならない。つまり、前科学的な類型化と科学的な理念型化とが乖離しすぎてはならないということ。そうした公準を満たすことによって、社会学の理論は二次的構成物たりえるのであり日常生活における一次的構成物とは区別される。

では、シュッツは社会学において、どのような理論の基準(公準)を満たせばいいと考えたのか。先取りすれば、以下の4つである。論理的一貫性の公準、レリヴァンスの公準、主観的理解の公準、適合性の公準であり、最後の2つが社会学固有の公準だという。※次回以降(おそらくシュッツ最終回)の動画で扱う予定。

「これまでの論議は、おおむね、日常生活において人々が自然的態度にもとづいてどのようにして世界を意味構成しているか、すなわち、一次的構成物に関するものであった。社会学はこの構成物を類型的に再構成しようとするものであり、その基本問題は、どのようにして、主観的意味連関についての、客観的観念や客観的に検証可能な理論を構成しうるか、ということである。この問題に答えるためには、シュッツによれば、社会学は次のような公準をみたさなければならない。(1)論理的一貫性の公準。科学は、ひとつの意味連関として、固有の認知様式、すなわち形式論理を持っており、社会学者もこの論理に従って首尾一貫した概念ん・理論構成を行わなければならない。(2)レリヴァンスの公準。それぞれの科学は、それに固有の知識体系・有意性構造・解釈図式を持っており、社会学者もこれらに従って、研究されるべき問題の確定、妥当なデータの選択、問題解決のために必要かつ適切な理念型構成を行わなければならない。妥当な意味をもつという公準である。以上の二点はあらゆる科学に共通の公準である。(3)主観的理解の公準。社会学者は、社会的現実を把握しようとする限り、社会現象をその主観的意味連関に即して理解しなければならない。この公準をみたすために、ウェーバーが行ったように、社会学者は、日常生活における同時代者の類型的理解の方法を論理的に順化・彫琢した、理念型的構築物(人間類型や行為類型)を適切に用いることによって、主観的意味連関を意味適合的かつ因果適合的に理解することができる。(4)適合性の公準。社会学者が使用する理念型やそれに含まれる用語は、生活世界での行為者の常識的な類型化や用語と適合的でなければならない。この後の二点が、まさに社会学(広くは社会科学)に固有の公準であり、これらによって、社会学の構成物と常識的構成物との一貫性が保証されるのである。」

「社会学のあゆみ パーロ2」168~169P

今回の主な文献

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成―理解社会学入門」

※私が使っているのは旧訳です

アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成―理解社会学入門」

森 元孝「アルフレッド・シュッツ―主観的時間と社会的空間 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)」

森 元孝「アルフレッド・シュッツ―主観的時間と社会的空間 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学) 」

アルフレッド・シュッツ「生活世界の構造」

アルフレッド・シュッツ「生活世界の構造」

谷 徹「これが現象学だ」

谷 徹「これが現象学だ」

山竹 伸二「本当にわかる哲学 」

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汎用文献

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

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大澤真幸「社会学史」

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新睦人「社会学のあゆみ」

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本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

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アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学 第五版

社会学

社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

クロニクル社会学

クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

参考論文

1:盛山和夫「反照性と社会理論─理解社会学の理論仮説と方法─」(URL)

2:高艸賢「シュッツの社会科学基礎論における生の諸相――体験次元と意味次元の統一としての主観的意味――」(URL)

3:盛山和夫「経験主義から規範科学へ-数理社会学はなんの役に立つか-」(URL)

4:水谷史男「自明なことを凝視する先に何が見えるのかエスノメソドロジー管見―社会学方法論の研究―」(URL)

5:渡部光,西原和久「A・シュッツにおける「間接呈示的指示関係」―<日常生活世界>論あるいは<意味の社会学>へ向けて―」(URL)

6:江原由美子「『ジェンダーの社会学』と理論形成」(URL)

7:浜渦辰二「フッサールとシュッツ:対話としての臨床哲学のために」(URL)

8:梅村麦生「A.シュッツの同時性論「共に年をとること」としての同時性について」(URL)

9:飯田卓「同時性と時間意識―社会的時間の解明に向けて―」(URL)

10:吉沢夏子「A・シュッツにおけるフッサール哲学の意義:”自然的態度の構成的現象学”とは何か」(URL)

11:吉沢夏子「社会学と間主観性問題主観主義”批判再考」(URL)

12:浜渦辰二「フッサールとシュッツ:対話としての臨床哲学のために」(URL)

13:周藤真也「アンチ・アンチ・ソリプシズム──A・シュッツと独我論をめぐる関係から──」(URL)

14:佐藤大介「フッサール他者論に関する先行研究の整理と比較検討(1)―フッサールへの批判を中心に―」(URL)

15:宇都宮京子「ウェーバーにおける現象学の意義とその影響についてシュッツ、パーソンズのウェーバー解釈と「客観的可能性の範疇」をめぐって」(URL)

16:橋爪 大輝「なにが行為を行為たらしめるのか──シュッツの行為論──」(URL)

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