動画での説明
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はじめに
社会学とはなにか
社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。
なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。
【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか
この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。
できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。
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(準備中)
(6)[D]生活世界関連
[6-10]レヴィナスの「他者論」
レヴィナスの「イリヤ」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
フランスの哲学者であるレヴィナスはフッサールやハイデガーに影響をうけつつ、人間哲学の基礎は「他者との関係」にあるべきだとした。代表作は『全体性と無限』である。フッサールとは違ったかたちで「間主観性」を考えているという点がポイントになる。
現象学においてそれ以上なにも言うことができないような根本的な前提を「原事実」と表現することを先程学んだ。しかし原事実に対してわれわれは「解釈」を行うことはできる。
たとえば原時間が我々に贈与され、その地平において自我が構成され、この自我を通して物事を認識していると「解釈」することができる。
ハイデガーにとって原事実とは「人間がすでに世界の中で存在していること(世界-内-存在)」である。そうした世界は我々に常に既に「贈与」されているのである。
我々は言語や身体、文化、理性の能力などを選んで生まれたのではなく、贈与されて生まれてきたのであり、世界に投げ込まれているのである(被投性)。
時間や空間、他者、文化、物体などの世界と関係しながら常に生きているのであり、そうした根本的な前提において、「自分とはなにか、自分はどうあるべきか」を考えることのできる存在(現存在)なのである(生きているだけの動物の存在とは区別される人間特有の存在のあり方)。
もちろんそうした世界と主体の特定の意味づけ、自我の構成に必然的な関係はないとされる(違うふうに意味づけされていたかもしれないし、自我が構成されなかったかもしれない)。
一方で、レヴィナスは原事実を「イリヤ(il y a)」と解釈する。フランス語で「・・・がある」という意味である。
たとえば暗闇になにかあると感じるだけであり、それがなにか見えず、意味もなく、倫理性もなく、なにも与えないような無秩序な存在がイリヤのイメージである。もちろん比喩であり、「暗闇である」という意味づけする前のなにものかである。「暗闇がある」、「空間がある」、「空気がある」と理解できる時点で、それはもはやイリヤではない。いわば主語を伴わない匿名的存在であるといえる。「なにかがある」が、そのなにかはまとまりをもたず、境界ももたないようななにかなのである。
たとえば「私は存在する」と「彼は存在する」は違うものである。なぜなら、彼が存在するからといって私が存在することにはならないからである。
私や彼はなんらかのまとまり、意味、アイデンティティーをもった存在だというわけである。「暗闇が存在する」、「空気が存在する」も同様である。そのようなアイデンティティーをもつまえの、あるいはそのような意味づけとして差異づける前、区切る前のなにものか、アイデンティティーをもたない存在一般がイリヤなのである。たとえるなら端のない白紙に我々は絵を描いて、これは丸だとか三角だといって区別しているようなものである。白紙はこの意味でなにものでもない、「存在者の不在の存在」とでもいうべきものである。
自我が存在する前は世界との区別がなく、世界と一体となっているような状態だともいえる。
しかしどういうわけか、人間は自分を世界と区別し、自我をもつようになる。ハイデガー的にいえば「必然性なき贈与」であり、レヴィナス的にいえば「偶発的な事態」である。レヴィナスの説明では、自我はイリヤという匿名的で不快な存在から脱出することによって成立するという。
たとえば眼の前の「なにものか」が友人であり、太陽であり、病原菌であり、猫であり、タワシであり、狼であり、折り紙であるという状況を考えてみる。
恐ろしく不気味である。「なんでもある」という存在一般は怖いのである。友人は友人でまとまっていてほしいし、犬は犬でいてほしいのである。そしてなにより、私は私としてまとまっていてほしい。レヴィナスによればイリヤとはいわば「非人称性」であり、「不快な存在」であり、「不安定で無秩序な存在」なのである。
人間はどういうわけかイリヤから偶発的に逃走し、自我を獲得した。つまり「私というまとまりは存在する」という意識を獲得し、「私以外のそれ、それではなくあれ、あれと似ているこれが存在する」といった多様な解釈を獲得していくわけである。
しかしいくら「それ」と意味づけし、対象化していっても、「それらすべてとは違う、なにものでもないもの」は常に存在(潜在)する。イリヤが中断されているだけであり、イリヤからの逃走が完了したわけではない。
人間はイリヤから脱出し、自我を獲得し、自分勝手に世界を区切り、意味づけていく。「なんでもありうるもの」を「ほかではありえないもの」に変換していくのである。ルーマンでいえば「複雑性の縮減」を行っていくのであり、ウェーバー的にいえば「理解」していくのである。
しかし自分勝手に意味づけをしたままででは、「この世界は自分の主観の表れでしかないのではないか」といった不安定な状態も生じうる。結局は何でもありであり、制約はなく、勝手に、適当に意味づけているだけであり、「するべき行為」や「あるべき状態」も不安定なままになる。「家畜と友人、AIと私の区別」すら恣意的な私の解釈に依存してしまう。
・特に参考にしたページ
竹田青嗣「哲学入門」,166-171p
谷徹「これが現象学だ」,219p
「哲学用語図鑑」,266~268p
山竹伸二「本当にわかる哲学」,217-220p
小川真未「レヴィナスの『イリヤ』とレヴィ=ブリュールの『融即』」
レヴィナスの「他者の顔」、「無限なるもの」とはなにか
そうした「なんでもあり(なんでもない)」の不安な状態からの脱出の際にレヴィナスが重視するのが「他者の顔」である。ここでいう他者とは現代的な意味ではなく、「何でもありに制限をかけるような命令を発する存在」ともでいうべきものである。他者の顔は私に「殺すな」と訴えかけてくるのである。
「人間は他者の顔を見ると殺せなくなる。つまり殺すことを倫理的に正当化できなくなる」というわけである。レヴィナスによれば、他者の顔が目の前に現れたとき、「他者性」が感じられるという。私の意味づけから逃れてしまう、自分の解釈した世界に取り込めないという意味での「他者性」である。
レヴィナスにとって他者とは「私」にとって「無限なるもの」であるという。たとえば「Xはよくない」と私が述べたとしても、「『Xはよくない』ということはよくない」と否定する可能性を他者はもっている。
さらに別の他者がそれを否定する可能性をもっているのであり、この作業は理論的には無限に続けることができる。私が世界をなんらかの形で解釈したり記述しても、その囲いに含まれないものが無限に存在しうるのである。
「なんでもあり」だと私が述べたとしても、「なんでもありではない」、「こうであるべきだ」と否定してくる他者もいる。「殺してもいいし、殺さなくてもいい、なんでも自由だ」と私が考えたとしても、他者の顔は「殺すなかれ」と迫ってくる。
人間は他者の顔を見たときに、そこで了解不可能性を認識すると同時に、他者の顔から「殺すな」というメッセージも読み取るという。「なんでもあり、殺したっていい」という状態ではいられないのである。この話と直接的には関係ないが、建築家のアレグザンダーが「赤ん坊の笑顔のような建築」を美の例に出していたことを私は思い出してしまう。原初的な「こうであるべきだ」というものとして顔は大事なのかもしれない。
我々は他者の意識を完全に了解することはできない。他者は私の理解を超えた存在、無限で超越的な存在なのであるという。普遍性や全体性、本質性を志向して人間(他者)をわかったつもりになること、自分の主観の世界に周りのすべてを包摂できると思い込むこと、絶対的な「真理やルール、倫理」を見つけたと思いこむことは危険であるともいえる。
主体が真理を提示しても、他者はその真理を否定することができる。だからこそ、それゆえに無限に我々は問い続けることが可能なのである。「一つの全体」、「一つの価値」にまとまろうとしても、他者はそこを超え出てくる可能性をもっている。こうした意味で普遍性を揺らがせようとする視点はデリダとも共通しているのかもしれない。
「なんでもありの主観的世界の状態」から、「他者の顔」を通して我々は他者を「絶対に助けなければならない対象」、「殺してはならない対象」として構成するようになり、「責任」を自覚するようになるという。
「なんでもあり」ではなく、「そうでなくてはならない、そうあるべきだ」というように勝手な解釈を停止させるのである。他者は批判を促す、反省を促す存在ともいえる。他者は私の世界の一部に過ぎないといった「全体性」ではなく、「無限性」として捉えられていくのである。
法律があるから、あるいは法律にはなくても社会のルールがあるからといったものではなく、レヴィナスは戒律以前に人間に内在する倫理性だという。具体的な他者との出会いの中で、間主観的な事態のなかで常にすでに成立しているものだというわけだ。
ホッブズ的秩序問題的に考えれば、「他者の顔」を通して「殺してはならない」という原初的な倫理が生じ、そこからそれがルールとして形成されていくということになるのだろう。ハーバーマスはコミュニケーション的な合意を重視したが、レヴィナスはその前の生成論的な段階を語っているということになる。しかしそれが自分勝手な恣意的、思弁的なものではなく「間主観的な説明」だという点がポイントになる。
・特に参考にしたページ
竹田青嗣「哲学入門」,166-171p
谷徹「これが現象学だ」,219p
「哲学用語図鑑」,266~268p
山竹伸二「本当にわかる哲学」,217-220p
小川真未「レヴィナスの『イリヤ』とレヴィ=ブリュールの『融即』」
レヴィナスによる「慈悲」と「正義」の違い
こうした他者との関係(対面関係)において生じる倫理をレヴィナスは「慈悲」と呼ぶ。
このうえで、対面する二者関係だけではなく、第三者の関係(対面していない人たち)をも考慮した意識、普遍的なルールが意識されてくるのだという。こうした倫理をレヴィナスは「正義」と呼ぶ。
慈悲はときには正義を超えることがあるという。たとえば「法律に違反してでも目の前の人を助けたい」という場合は慈悲が優先されているということになる。
法律の遵守ばかりが形式的に尊重され、実質的に慈悲を疎かにしていることもありえる。レヴィナスはこうした対面関係における慈悲が正義の根拠であることを強く主張する。それを見失うと個人を抑圧する危険な思想となってしまう可能性があるからである。ナチズムが民主主義的なプロセスを通して法を作り、特定の民族を虐殺したという歴史をふまえているわけである。
レヴィナスは正義の根拠は法ではなく、慈悲にこそ基づいているべきだと考えた。この点ではジャック・デリダも同様である。
たとえばデリダは法の絶対性を脱構築し、法を超えた他者への絶対的義務、見返りといった「他者への配慮」を正義の根拠としている。
デリダやレヴィナスは法や形式(理想的な対話の条件など)などの「ルール」ではなく、その根拠となるような「対面的で特殊的な他者配慮」を先行的なものであるとしてより重視する。
そもそも人間はコミュニケーション的理性なるものを発揮して「普遍的に正しい法やルール」を見つけ出し、運用させることができるのか疑わしいと彼らは考える。リオタールが合意を重視する討議に画一性や抑圧を読み取ったという点を、この面から理解することもできる。
・特に参考にしたページ
山竹伸二「本当にわかる哲学」,217-220p
ハーバーマスは普遍的なルールを志向するのか
一方で、ハーバーマスやアーレント、ロールズなどは「普遍的なルール」を追求することを重視するという。
どちらも虐げられた人々を救済しようという姿勢は同じだが、力点が違うというわけである。「慈悲」を強調するのか「正義」を強調するのかという問題でもある。具体と抽象、特殊と普遍といった概念の相違もそこにはある。両者の緊張関係をどのように考えるのかという点がポイントになっていくのだろう。ハーバーマス的に考えると結局は「他者の顔に対する直観」は示唆的ではあるが「理性の他者(感情、無意識など)」であり、「理性の枠内での社会改善」というハーバーマスの姿勢とは相容れないのかもしれない。
・特に参考にしたページ
山竹伸二「本当にわかる哲学」,217-220p
山竹伸二「本当にわかる哲学」,233-236p
参考文献リスト
今回の主な文献
J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」
J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」
中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」
中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」
汎用文献
佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」
大澤真幸「社会学史」
新睦人「社会学のあゆみ」
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
参考論文
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]
嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)




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