【基礎社会学第二十二回】マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」とはなにか

    はじめに

    「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の要約

    前提:この項目は「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を要約、簡単に説明したものとなります。ただし、これらは私の関心によって選び取られた要素の要約であることに注意してください。別の方が要約すれば違った要素が取り出されることもあるかもしれません。しかしウェーバーの問題設定とその結果はウェーバー自身が文書において述べていることなので、大筋は外していないものと思われます。 

    1:問題設定

    ・ウェーバーが明らかにしようとしてる点は、「天職思想」がどのような精神的系譜をもって「合理的な生活態度」へつながったのかということ。

    ・プロテスタンティズムの倫理は「天職思想」と「確証思想」、「禁欲的な生活態度(キリスト教的禁欲の精神)」を構成要素としてもつ

    ・資本主義の精神は「職業義務思想」と「(職業義務思想を土台とする)合理的な生活態度」を構成要素としてもつ

    ・近代文化は「(職業義務思想を土台とする)合理的な生活態度」を構成要素としてもつ

    ・プロテスタンティズムの倫理の1要素である「天職思想」がいかにして資本主義の精神の1要素である「合理的な生活態度」を生み出したのか、ということをウェーバーは明らかにしようとしている。そのためには過去に遡り、現在までどうつながったのかという「精神的系譜」を明らかにしていく必要がある。

    2:結論

    ・(職業義務思想を土台とした)合理的な生活態度は、直接的には「キリスト教的禁欲の精神(宗教的な目的である確証思想を伴った禁欲的な生活態度)」から生み出された

    ・(職業義務思想を土台とした)合理的な生活態度は、外面的には(天職思想や確証思想を土台とした)禁欲的な生活態度とほとんど同じである。結果的には貨幣の獲得をめざしているように見えるし、そのために合理的、計算的、合目的的、組織的な行為がなされている。しかし内面的には、資本主義の精神の場合は倫理的な要素はあるが宗教的な要素がなく、プロテスタンティズムの倫理の場合は倫理的で宗教的な要素があるという大きな違いがある。プロテスタンティズムの倫理における禁欲的な生活態度には神の救いを目的としているという宗教的な要素が他の利害関係よりも重要だとみなされていたが、資本主義の精神の場合はそういう態度が欠け、醒めた職業道徳にすぎないものとなっている。

    3:精神的系譜

    1:中世において合理的な世俗外禁欲が完成する。世俗外における労働に宗教的な価値が認められる

    2:近代初期において、宗教改革が起きる。ルターは世俗外における修道士的な世俗外禁欲に価値がないとみなし、世俗内労働に宗教的・倫理的(道徳的)な価値を認め、さらに世俗内労働こそ神の使命であるという召命観を聖書の解釈を通じて生み出していく。ルターにおいて後のプロテスタンティズム諸派に共通する中心的な教義が完成するが、ルター自身は天職思想のうち、「神の使命」という要素が抜け落ちていくので「禁欲」を生み出す「起動力」としては弱かった。

    3:ルターやカルヴァンの影響を受け、一般信徒や牧師たちは「確証思想」をつくりあげていく。この「確証思想」はプロテスタント諸派の中心的な教義となっていく。世俗内労働の成功(貨幣の増加など)が神の救いのための確証の「印し」へとつながると考えられる(救いの結果が変わるわけではない)。この確証思想は「世俗内禁欲」へと強く結びついていき、「世俗内禁欲」に倫理的、宗教的な価値が認められるようになる。

    4:資本の形成などさまざまな理由により、宗教的な精神が抜け落ちていき、禁欲的な生活態度は宗教的な精神を失った合理的な生活態度へと代っていく。

    4:現代の我々と、未来の我々

    ・資本主義が発展し、そのシステムが確立された後の我々は、プロテスタンティズムのエートスも資本主義のエートスも失っていく。

    ・宗教的な目的をもって職業労働を義務として行うのでもなく、倫理的に善いという理由で能動的に職業労働、貨幣の増加それ自体を目的としていくのでもなく、そうせざるをえないのが現代の我々である。

    ・合理的・禁欲的な生活態度を送らなければ(適合していかなければ)、競争に負け、落ちぶれてしまうからである。一度資本主義が発展し、システムや秩序が確立するとそこから簡単には抜け出せなくなる。こうしたシステムを硬い殻という。

    ・硬い殻の中で生きていく人間の将来の3つの可能性:①新たな預言者が現れる②かつての思想や理想が復活する③変革が起きること無く、自己陶酔で粉飾された機械的硬直化が起こる。ウェーバーはプロ倫において、どういった未来が望ましいのか、どういった未来になるのかについて具体的に言及はしていない。

    「……われわれの究明すべき点は、過去および現在において資本主義文化のもっとも特徴的な構成要素となっている》Beruf《『天職』思想と──前にもみたとおり純粋に幸福主義的な利己心の立場からすればはなはだ非合理的な──職業労働への献身とを生み出すに至った、あの『合理的』な思考と生活の具体的形態は、いったい、どんな精神的系譜に連なるものだったのか、という問題でなければならない。それも、この場合、とくにわれわれの興味を惹くのは、この》Beruf《『天職』概念のうちに、(すべての》Beruf《『天職』概念の場合と同じように)存在する、この非合理的な要素はどこからきたのか、ということなのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、94P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「近代資本主義精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つというべき、天職理念を土台とした合理的生活態度は──この論稿はこのことを証明しようとしてきたのだが──キリスト教的禁欲の精神から生まれでたのだった。読者はここでいま一度、この論稿の冒頭で引用したフランクリンの小論を読み返して、その個所でわれわれが『資本主義の精神』とよんだあの心情の本質的要素が、さきにピュウリタンの[天職意識に由来する]職業的禁欲の内容として析出したものと同じであって、ただフランクリンのばあいには、宗教的基礎付がすでに生命を失って欠落したものにすぎない、ということを見届けていただきたい。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、364P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    動画での解説・説明

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    マックス・ウェーバーのプロフィール

    マックス・ウェーバー(1864~1920)はドイツの経済学者、社会学者、政治学者。28歳で大学教授を資格を得て、1905年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表した。社会学の元祖ともいわれる。ウェーバーの研究成果はT・パーソンズの構造ー機能理論、A・シュッツの現象学的社会学、J・ハーバーマスの批判理論やシンボリック相互理論等々に引き継がれた。

    2:ウェーバー・テーゼ

    ウェーバー・テーゼとは、意味

    POINT

    ウェーバー・テーゼ・「プロテスタンティズムの倫理は近代資本主義の発展をもたらした」という誤ったウェーバー理解に基づくテーゼ(命題)のこと。出版当初(1904-1905年)頃からある誤解であり、カール・フィッシャーによるものが有名である。現代においても、著名な社会学者がそうした誤読をしてしまいがちだという。

    1:「プロテスタンティズムの倫理は近代資本主義の発展をもたらした(ウェーバーテーゼ)」

    2:このウェーバーテーゼと言われる命題はウェーバーの本意ではなく、主要課題ともしていないという。ウェーバー自身は一度も「プロテスタンティズムの倫理は近代資本主義の発展をもたらした」とは主張していない。主張していないだけではなく、ウェーバーはこのような理解を「誤解」であり、「バカげた教条的テーゼ」と批判している。また、「発展」だけではなく、「プロテスタンティズムの倫理は近代資本主義を生み出した」とも主張してない

    ・誤読によるテーゼ例:「プロテスタンティズムの倫理」のみが資本主義の発展や成立をもたらした

    →論外。すでに資本主義の重要な形態はプロテスタンティズムの倫理の発生前に存在している

    ・誤読によるテーゼ例:複数の原因が考えられるが、「プロテスタンティズムの倫理」がなければ資本主義は発展しなかった。

    →「それは知らない」。そうしたことを証明した、あるいは証明したいと主張している旨の文章はない。

    ・「プロテスタンティズムの倫理」の構成要素の一つである「キリスト教的禁欲の精神」は「資本主義の精神」の構成要素の一つである「合理的生活態度」を生み出した。「合理的生活態度がもしなかったら資本主義が発達しなかったのか」について、ウェーバーは「その点は知らない」と答えているわけである。また、この点を「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で主要課題としていなかったのである(もし主要課題としていたら、知らないでは済まされないだろう)。彼にとって重要なのは、「キリスト教的禁欲の精神が合理的生活態度を生み出した」という点である。そこから合理的生活態度が資本主義の発展につながっていったかどうかは論証されていない(肯定も否定もされていないのであり、自分がまるで肯定しているかのように誤解されていることを馬鹿げていると表現している。命題そのものの真偽は「知らない」と述べるだけである)。

    読者側が勝手にその点を主要課題としていると思い込む傾向があるらしい。たしかに私もそう思いこんでいた。宗教的な要素が合理的生活態度を生み出し、合理的生活態度が近代資本主義の発展につながっていたとしたら、たしかに「プロテスタンティズムの倫理」が「資本主義の発展」を生み出したと言える。間接的にでも宗教が資本主義の発達に関係してるじゃないか!と思ってしまう。

    ・三笘利幸さんによれば、現代でもそうした誤解は受け継がれており、専門家や一般解説書においてもそうした誤読がそのまま受け継がれ、説明されているという。小熊英二さんや大澤真幸さんといった著名な社会学者の名前も挙げられている(詳細は三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(1)─」参照)。

    「かれの宗教社会学的労作のうち、<倫理論文>では、プロテスタンティズムと近代的営利追求熱との<因果連関>が、冒頭の第一節で簡単に例示されたのち、従来問残されていた微妙で困難な問題、すなわち、宗教と経済との二領域に跨る両者の<意味──動機連関>が<明証的>に<解明><理解>されている。ところが、<倫理論文>は、発表後ラファールの批判を浴び、ウェーバー死後にもアロンによって批判されたとおり、<禁欲的プロテスタンティズムの倫理>と<近代資本主義>との<因果連関>の証明としては、必ずしも十分ではなかった(ここが脚注58です──引用者──)。というよりも、著者自身、じつは右記のとおり、それを主要課題としてはいなかったのである。」

    「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩 補訳、岩波文庫、P246の、折原さんの解説

    「ウェーバーがこの事実を自覚したことは、かれがラファールとの論争を打ち切った<反批判・結語>の末尾から明らかである。<最後に、もしだれかが、つぎの問題──すなわち、資本主義の《精神》の、近代に固有の要素の展開がなかった fortdenken と考えたら、経済体制としての資本主義の発展は、はたしていかなる運命をたどったであろうか、という問題(読者も想起されるとおり、ラファールは、この点についても、管見によればかなり軽薄な論評をわたしに投げつけていたが)──についても、なおわたしから知りたいと望むのであれば、これについて良心的にいえば、もとより全体として、われわれはそれを知らない、と答えるほかはない。>─」

    「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩 補訳、岩波文庫、P331の、折原さんの解説の中の、脚注(58)。

    脚注の出典はドイツ語混じりで記載できないのでご了承下さい。詳細は上記脚注を直接見てください。

    「ところで、また、他面で『資本主義精神』(もちろんここで暫定的に使用するような意味で)は宗教改革の一定の影響の結末としてのみ発生しえたとか、また、経済制度としての資本主義は宗教改革の産物だなどというような馬鹿げた教条的テーゼを、決して主張してはならない。資本主義的経営の重要な形態のあるものが宗教改革よりもはるかに古いという[私が批判されるときに使われたので]周知の事実だけからでもそうした空論の成り立たないことが分かるだろう。われわれが確認しようとしているのはそういったことではなくて、ただ,問題の『精神』の質的形成と全世界にわたる量的拡大のうえに宗教の影響がはたして、また、どの程度に与って力があったかということ、および資本主義を基盤とする文化のどのような具体的側面がそうした宗教の影響に帰着するのかということだけなのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、135-136P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には,1904-5年に初版が『社会科学・社会政策アルヒーフ』に発表されてすぐの段階から現在にいたるまで絶えることなく誤解が続いている。その誤解とは,『倫理』はプロテスタンティズムが資本主義の発展をもたらしたことをあきらかにしたというものである。これはしばしばヴェーバー・テーゼと呼ばれる。しかし,このヴェーバー・テーゼをヴェーバーが主張したことはない。これは『倫理』に対してなされたカール・フィッシャーの批判から始まる誤解である。」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(1)─」、17P

    「プロテスタンティズムの倫理は近代資本主義を生んだか一よく知られているように、これはMaxWeberの生涯にわたる探求の、そして現在の社会学の出発点ともなった問いである。この問いに対する彼の答えは、次のようなものだといわれている:〈合理的な生活方法論〉を要求する〈禁欲的プロテスタンティズム)の倫理によって、規律正しい営業態度と得られた利潤の最大限の再投資を特徴とする〈資本主義の『精神』〉が形成され、それが〈近代資本主義〉(2)の成立基盤になった一もちろん、それは〈近代資本主義〉を形成した原因の、あくまでも1つであるが。」

    佐藤俊樹「近代・組織・資本主義──プロテスタンティズムの倫理は近代資本主義を生んだか──」、3P

    プロ倫の位置づけ

    プロ倫以外の論文で、この問いに対して答えようとはしているようである。たとえば「儒教と道教」の論文では、中国と西洋を「比較」することによって、「プロテスタンティズムの倫理」のみが近代資本主義を発展させることができたかどうかについて明らかにしようとしている。これもややこしい。素人の私からすれば、何だ、プロ倫でもこれが問題意識としてあったんだろう、と勝手に思いこんでしまう。しかしプロ倫の段階では問題意識として明確にされず、むしろプロ倫ので批判されることによって、明確に意識したらしい。

    しかし、その試みには失敗している(プロテスタンティズムの倫理以外の条件がほとんど一致してるような比較対象を探すことは難しい)。

    ・ウェーバーは社会科学の方法としては、「解明的理解」と「因果的説明」の2つが重要だと考えていた。

    POINT

    理解社会学・「社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学」。

    POINT

    解明的理解・理にかなっているので明瞭にわかるか、あるいは感情が追体験的に出来るように理解できるかの二種類。合理的な理解と非合理的な理解にわかれる。解明的理解には明証性という基準がある。

    POINT

    因果的説明・行為の経過と過程が「なぜかくなって、かくならなかったか」という因果的で妥当な説明。

    POINT

    意味適合的思考や習慣の平均的なものからみて、普通は正しいというような意味連関。意味連関=直感的に合理性(論理・数学など)や非合理(感情など)を通して理解できるということ。(例:寒いからエアコンをつけるのは普通は正しいから意味適合的。解明的。1+1=2は正しいというのも意味適合的。)

    POINT

    因果適合的・経験的規則から見て、いつも実際に同じような経過をたどる可能性の度合い、蓋然性(がいぜんせい)。ある特定の条件のもとでは特定の結果が生ずる公算が高い規則性があるということ。経験的妥当性。客観的可能性。酸素と水素をまぜたら必ず水になるといったようなほとんど例外のない狭義の意味の「法則」とは異なる法則的知識(規則)。因果連関=仮説。仮説の確かさの度合い(数字で表現できるなら「確率」)。例:もし鎖国がなかったら日本は発展していなかったといえる客観的可能性はどの程度あるか。

    ※各用語の内容は前回の記事の内容に基づくものなので今回は出典を引用しません。詳細は以下を参照。

    【基礎社会学第十六回】マックス・ウェーバーの「理解社会学」とはなにか

    →意味適合的であるからといって因果適合的であるとは限らない。意味適合的であることを証明しても、因果適合的であると証明できない。解明的理解ができたとしても、因果的説明をしたことにはならない。プロ倫、および他の「儒教と道教」等他の論文を通して、ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理」がなければ「資本主義の発達」はしなかった、という因果的説明をすることはできなかった。しかし、解明的理解はできた、というのが結論である。どちらにせよ、ウェーバー・テーゼは論証が成功しておらず、成功しているとウェーバーが主張しているように読解することは誤解である。

    ・たとえば寒いからエアコンをつけるのは意味適合的で理解できるが、寒いからといってそれがエアコンをつけるという行為につながるかどうかはわからない。寒いからエアコンをつけるという論理が因果適合的かどうかは「実験」などによって裏付けされ、経験的妥当性を付与させる必要がある。その実験が失敗しているということ。

    ・ウェーバーは批判を受けて、「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の発達」の「因果的説明」に取り組もうとした。その結果、プロ倫の位置づけが変わった。つまり、プロ倫はあくまでも「解明的理解」の説明(もしくは因果関係を実証する作業の一部)にとどまり、因果的説明は別の論文で行うという位置づけになった。(プロテスタンティズムの倫理が資本主義の発達になくてはならない起動力となったということが理解できたとしても、それは因果関係を証明したことにならない。理解においては優れているからこそ、これでは因果関係の証明になっていないという誤読や誤った批判が生じるのかもしれない。例:気温が高いからアイスを食べたのだろうと理解はできても、実際には気温が低くてもアイスを食べたかもしれないし、気温が高いことは数ある同じような大きさの理由のひとつにすぎないかもしれない。)

    ・プロテスタンティズムの倫理が資本主義の発達を生み出したという「因果的説明」をするためには、比較対象試験(差異法)を用いる必要がある。

    ・重要なのは、プロ倫の当初の研究課題はプロテスタンティズムの倫理と資本主義の発達の解明的理解でも因果的説明でもなかったということである。後になって位置づけが変わったのであり、当初の研究課題は別にあった。こうしたことからも誤読がされやすいのかもしれない。ウェーバーはプロ倫ではそのようなテーゼをかかげなかった、というのが正しい。もっとも別の論文でも結局はテーゼの証明にはならなかったので、どの論文においてもそのようなテーゼを論証できたものとしてかかげられていない

    ・佐藤俊樹さんによれば、原因特定に成功しなかったことは、論証の失敗というより、実験が難しい社会科学の限界であり、全てを解き明かそうとするのではなく、わからない部分はわからないとする「限定された知」をよく示しているという。(「観察の右側打ち切り」も面白いのでよかったら調べてみてください。資本主義が一旦世界中に伝達されると、資本主義の発達の原因を特定することが難しくなり、打ち切られてしまうという問題です)

    「したがって、西洋のプロテスタンティズムが近代資本主義をうんだかどうかは、西洋だけでは検証できない。プロテスタンティズム以外は西洋と同じ変数群をもち、結果として近代資本主義が生じなかった社会をもうひとつ見つけてこなければならない。『宗教社会学論集Ⅰ』はそういう比較実証の研究である。プロテスタンティズム以外は西洋と同じで、結果として近代資本主義が生じなかった事例として、彼は伝統中国社会、特に清王朝期の中国近世社会に注目した。具体的にいえば、論文『儒教と道教』(1920c=1971)で、近代的でない資本主義や人口ー環境的要因をふくめて、中国近世社会には西洋と同じ条件がかなりそろっていたことを示そうとした。それによると、中国近世にも①強烈な営利欲、②個人個人の勤勉さと労働能力、③商業組織の強力さと自律性、④貴金属所有のいちじるしい増加と貨幣経済の進展、⑤人口の爆発的な増加、⑥移住や物資輸送の自由、⑦職業選択の自由度と営利規制の不在、⑧生産方式の自由といった要素はあった(同:1~4章)。西洋古代やインド、イスラム圏と比べても、中国近世は西洋近代の初期状態に近かった。にもかかわらず、結果Xにあたる近代資本主義は生成しなかった。そこに欠けていたのは、(1)形式合理的な法とそれにもとづく計算可能な行政と司法の運用、(2)官吏における租税収入における公/私の非分離、そして(3)倫理である(同:8章)。差異法によれば、この(1)ー(3)こそが近代資本主義を産み出した原因にあたる。つまり、ウェーバーは(3)プロテスタンティズムの倫理だけでなく、(1)形式合理的な法やそれにもとづく行政は司法なども、近代資本主義の原因、もしくは原因に関連する変数としている。」

    佐藤俊樹、「社会学の方法」、ミネルヴァ書房、162P

    「因果的解明の考え方にしたがえば、差異法で特定されたこれらの原因候補のうち、『意味適合的』なもの、つまり『私たちの平均的な思考や感情の習慣』で近代資本主義に関連すると了解できる変数が、近代資本主義を生んだ原因になる……。それが彼の最後の著作になった『宗教社会学論集1』の結論である。」

    佐藤俊樹、「社会学の方法」、ミネルヴァ書房、162-163P

    「一つは、社会学という知の正確を変えることになった。先に述べたように、ウェーバーは、プロテスタンティズムだけが近代資本主義を生んだという原因特定には成功しなかった。それ以外にも伝統中国と西洋には大きなちがいがあった、と認めざるをえなかった。これは論証の失敗というより、むしろ限界である。プロテスタンティズムの有無以外は西洋近代の初期状態と同じである比較単位がなければ、そもそも特定できないからだ。実験ができない社会科学の限界ともいえる。……それは『限定された知』という特性につながる。全てを解き明かそうとするのではなく、わからない部分はわからないとする。」

    佐藤俊樹、「社会学の方法」、ミネルヴァ書房、163P

    「すでに予想されるように、かれは、西洋以外の諸文化圏を「対照群」に見立て、マクロな『文化圏比較』をおこない、この<思考実験>上の問に、できるかぎり<客観的に可能かつ妥当な>判断をもって答えようとした。かれの宗教社会学的労作のうち、<倫理論文>では、プロテスタンティズムと近代的営利追求熱との<因果連関>が、冒頭の節で簡単に例示されたのち、従来残されていた微妙で困難な問題、すなわち、宗教と経済との2領域に跨る両者の<意味ー動機連関>が<明証的>に<解明><理解>されている。ところが、<倫理論文>は、発表後ラファールの批判を浴び、ウェーバー死後にもアロンによって批判されたとおり、<禁欲的プロテスタンティズムの倫理>と<近代資本主義>と<因果連関>の証明としては、必ずしも十分ではなかった。というよりも、著者自身、じつは右記の通り、それを主要課題としてはいなかったのである。」

    「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩 補訳、岩波文庫、247P 折原さんの説明箇所

    3:プロテスタンティズムの倫理(天職思想と確証思想)

    プロテスタンティズムとは

    POINT

    プロテスタンティズムとは、意味・プロテスタントの諸教派の思想の総称のこと。プロテスタントは宗教改革(16世紀はじめ)をきっかけに成立したとされる教派および信徒の総称。宗教改革において、カトリック教会へ抗議(protestant)したことから、プロテスタントという名前がそのまま教派ないし信徒の総称となった。

    宗教改革とは、意味・16世紀のヨーロッパで展開されたキリスト教の改革運動。主にローマ・カトリック教への批判である。たとえばローマ教皇の免罪符の販売などが批判の対象となった。マルティン・ルターやジャン・カルヴァンが中心人物である(プロ倫の文脈ではこの2人が特に重要になる)。

    POINT:宗教革命は規範のしめつけが強すぎたことへの反発ではなく規範のしめつけが弱すぎたことへの反発である。たとえば呪術的要素(聖餐や懺悔など)によって神からの救いが確実となる、あるいは免罪符などで罰が免じられるといった要素への反発である。そうした呪術的要素は「神強制」であり、人間できることは「信仰すること」のみといったような「神奉仕」を重視するという態度へと教義的には変わっていった(こうした移行を脱呪術化という)。神が絶対視されればされるほど、人間が神になにか要求したり、神の考えを知ったりすることはできず、ただ信じることのみが要求されるようになる(宗教が合理的になればなるほど、こうした考えになる)。

    ・中世以前においても、世俗内である程度の規範による締め付けが行われていた。つまり、禁欲的な生活態度がある程度は求められていた。しかし、「免罪符」などで寄付金によって罰が免じられたり、非組織的だったりすることによって、カトリックにおいて世俗の禁欲の程度は小さかったという。ただし、(カトリックにおいて)世俗における禁欲はそれに比べてすでに近世と同じくらいに完成していたという。

    宗教改革の成果は、世俗外における修道士的な禁欲のみが特別に宗教的に重視される傾向や、免罪符によって規範による締め付けが緩められる傾向を排除したということである。後で見るように、こうした世俗内道徳の重視はルターにおいてはじまり、カルヴィニズムにおいて引き継がれていく。重要なのはこうした(かつて世俗外で修道士が実践していたような強度をもった)禁欲的な生活態度が人々の間で広がっていくためにはルターの思想や免罪符の排除だけでは十分ではなく、予定説や確証思想といった「起動力(刺激)」を必要としたことである。

    ※神強制、神奉仕、脱呪術化についての詳細な説明は前回の記事を参照

    【基礎社会学第二十回】マックス・ウェーバーの「職業としての学問と神々の闘争」とはなにか

    「カトリックでは、『方法的』な生活は修道院の小房のなかだけに限られていたなどというのではない。そう考えることは教理の上でもまちがっているし、実践の上でもそうではなかった。むしろ、さきにも強調したように、カトリシズムの信徒に対する道徳的節制の要求は比較的大きいものだったけれども、倫理上の無組織な生活は、カトリシズムが──世俗内的な生活についても──育て上げた最高の理想にやはり到達しえなかったということだ。…….また、カトリック教会のある種の制度の実践、とくに免罪符[贖宥状]の販売は、組織的な世俗内禁欲の萌芽をたえず押さえつけずにはいなかった。そのためにこそ、宗教改革の時代には免罪符の販売は末梢的な乱用でなくして、まさしく根本的な害悪と感じられるようになったのだ。……すでにセバスティアン・フランク(Sebastian Franck)は宗教改革の意義を明らかにしようとして、いまやすべてのキリスト者は生涯を通じて修道士とならねばならなくなった、としているが、これはこうした宗教意識の性質の説明としてまことに核心を衝いたものだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、205-207P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    エーティックとエートスの違いとは

    POINT

    エーティックとは、意味・宗教的規範という意味の倫理。たとえば宗教指導者のかかげる教義や教理などがエーティックに近い。

    POINT

    エートスとは、意味・歴史の流れのなかでいつしか人間の血となり肉となってしまった、いわば社会の倫理的雰囲気、社会倫理がエートスに近い。無条件的、無意識的なもの。

    ・プロ倫で「倫理」という場合は、宗教的規範という意味の倫理(エーティック)という場合と、条件反射的にすぐその命じる方向に向かって行動するような社会倫理(エートス)の二種類がある。

    ・たとえば宗教指導者の「信仰のみが救いの確かさにつながる」という教義は「倫理(エーティック)」に近い。

    ・そうした教義の影響を受けた一般の人々(信徒)が生活の上で、そうするべきだ、そうすることに価値があると思って実践されているような、あるいは無意識的に実践しているような、社会全体に血となり肉となったような雰囲気のようなものは「社会倫理(エートス)」に近い。社会理念という意味にも近い。たとえば私は墓を蹴ってはいけない理由、宗教的規範そのものをよく知らないが、無意識的に蹴ることは倫理的に悪いことだと条件反射的に思っているし、教育されているし、実践している(規範の影響を受けている)。プロ倫の文脈で言えば、なぜ墓を蹴ってはいけないというエートスが生まれたのか、その起源はどこにあるのかという方向になる。

    ・ウェーバーはどちらかといえば、宗教が一般の人々に与える影響を重視している(つまり、エートスを重視していると解釈できる)。もちろんエートスは宗教指導者の倫理からも来ているのでエーティックを理解することも重要になる。

    1:「プロテスタンティズムの倫理」はプロテスタンティズムのエートスである。具体的には天職義務や世俗内禁欲といったエートス

    2:「資本主義の精神」は資本主義のエートスである。具体的には合理的な生活態度といったようなエートス。

    3:「プロテスタンティズムのエートス」と「資本主義のエートス」から生じる外面的な結果はほとんど同じ。しかし内面的には重要な点で異なる。プロテスタンティズムのエートスの場合は、宗教的な要素、とりわけ「確証思想」があった。資本主義のエートスの場合はそうした宗教的な要素が抜け落ち、禁欲的要素や合理的、組織的要素といった行状(人の日々の行い)が残った。なぜ職業労働それ自体を目的にするのか、つまり天職思想をもっているのかと当時のプロテスタントに聞けば「それは神の救いの確証のためである」という返答が明確にあったかもしれないが、現在では「その理由を問わない」ようになっている。「そういうものである」とみなされ、またそのほうが落ちぶれないから、利益になるからといった「適合的」な理由付けがなされるようになっている。

    4:「プロテスタンティズムのエートス」は「伝統主義のエートス」から「資本主義のエートス」へと倫理の転換の際の「起動力」となった。「伝統主義のエートス」とはただそれが過去に行われてきたというだけで、それを将来に向かって思考と行動の倫理的基準とするもの。

    5:ルターの「天職思想」はどちらかとえいばエーティック、カルヴァンの「予定説」はエーティックに近い。予定説から影響を受けて、信徒や牧師が作り出していった確証思想はエートスに近い。そういうイメージ。

    「ウェーバーもこの語をそうシステマティックに定義しているわけではないからですが、用語法から見ていきますと、要するにこういうことではないでしょうか。……『エートス』は単なる規範としての倫理ではない。宗教的倫理であれ、あるいは単なる世俗的な伝統主義の倫理であれ、そうした倫理的綱領とか倫理的徳目とかいう倫理規範ではなくて、そういうものが歴史の流れのなかでいつしか人間の血となり肉となってしまった、いわば社会の倫理的雰囲気とでもいうべきものなのです。そうした場合、その担い手である個々人は、なにかのことがらに出会うと条件反射的にすぐその命じる方向に向かって行動する。つまり、そのようになってしまったいわば社会心理で編もるのです。主観的な倫理とはもちろん無関係ではないけれども、もう客観的な社会心理となっている。そういうものが『エートス』だと考えてもよいのではないかと思います。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、388P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)※大塚さんの解説部分

    「『資本主義の精神』と呼んでいるのは、そういう近代の産業経営的資本主義の歴史的形成──先進国からの輸入ではなくて──を人々の内面から助長し推し進めていった精神、とくにそうした合理的経営体に適合的な経済的人間的な関係を作り出すことができたエートスなのです。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、390P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)※大塚さんの解説部分

    「『伝統主義の精神』というのは、平たくいえば、伝統あるいは伝統的なものごとを、ただそれが過去に行われてきたというだけで、それを将来に向かって思考と行動の倫理的基準とするという、そうしたエートスなのですが……」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、395P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)※大塚さんの解説部分

    「さて、禁欲的プロテスタンティズムの二つの大きな流れは互いに絡み合って、さまざまな中間形態をつくり上げ、また互いに影響をあたえあいながら、そのなかで世俗内的禁欲あるいは天職義務というエートスあるいは行動様式が培われ、それが宗教教育の結果、しだいにひろく民衆のものとなっていったのです。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、403P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)※大塚さんの解説部分

    「このように宗教的倫理の束縛から解放されると、『世俗内禁欲』のエートスは、資本主義の社会的機構の形成という方向に向かっていっそう強力な作用を及ぼしはじめる。そして産業革命を引き起こし、ついには資本主義の鋼鉄のようなメカニズムを作り上げてしまった。そして、いまやこの鋼鉄のメカニズムが自己の法則によって諸個人に一定の禁欲的行動を外側から強制するようになる。『資本主義の精神』は資本主義を作り上げる方向にさようしてきたけれども、いまやその『資本主義の精神』自体さえもしだいに忘れ去られていき、そして精神を失った『天職義務』の行動様式だけが亡霊のように残存するにいたった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、406P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)※大塚さんの解説部分

    「『吝嗇の哲学』に接してその顕著な特徴だと感じるものは、信用のできる立派な人という理想、とりわけ自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想だ。実際この説教の内容は単に処世の技術などではなくて、独自な『倫理』であり、これに違反することは愚鈍ということだけではなく、一種の義務忘却だとされている。しかも、このことが何にもましてことがらの本質をなしている。そこでは『仕事の才覚』といったことが教えられているだけではない。──そうしたものなら他にいくらでも見出されよう。──そこには一つのエートス(Ethos)が表明されているのであって、このエートスこそがわれわれの関心を呼び起こすのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、43-44P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「……資本主義的エートスの発展における両者の位置付けに決定的な意味をもつ諸特徴についてみると、両者は遠くかけ離れたものだった。ユダヤ教は政治あるいは投機を指向する『冒険商人』的資本主義側に立つものであって、そのエートスは、一言にしていえば、賤民(パーリア)的資本主義のそれだったのに対して、ピューリタニズムの担うエートスは、合理的・市民的な経営と、労働の合理的組織のそれだった。ピューリタニズムはユダヤ教の倫理から、そうした枠に適合するものだけを採りいれたのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、320P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    文化意義とは

    POINT

    文化意義とは、意味・当人にとって意義があるとみなされるような現象は「文化意義」があるといえる。ただし文化であるかどうかの基準は価値が高いか低いかといった基準ではなく、価値理念と結びつくようなものすべての現象が意義を持ち、文化意義をもつ。たとえばある人間が売春を価値が低く、知る価値に値しないと考えていたとしても、売春という現象は文化意義を有する事象、つまり「文化」となりうる(売春を価値が低いと思うのは、自分の中の価値理念の基準によってそう評価されたからであり、価値理念と結びついている)。逆に言えば、価値理念と一切結びつかないような現象は文化意義を持たない。さらに、文化とは主観的な価値理念と結びつきと関連しており、客観的に固定されたものでも、客観的に人間とは無関係に存在しているものではない。文化とは、「それ自体としては意味のない無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義とを与えられた有限の一片である」社会科学は生活現象を文化意義において認識しようとする科学であり、具体的な歴史的連関と文化意義の認識に使えることが唯一の目標である。ある現象に意義があるかどうかという基準は、究極的には各々の「価値理念」の判断基準に求められる。

    POINT

    資本主義文化とは、意味・近代資本主義文化の意義、つまり近代資本主義にのみ特徴の内、知るに値すると思われるような要素はどこにあるのかという問題になる。知るに値するかどうかは価値判断の領域になる。しかし、資本主義の理念(精神、エートス)がどのようなものに由来するか、というのは事実認識(解明的理解と因果的説明)に属する領域である。また、資本主義の理念がどのように人々に作用してきたのか、プロテスタンティズムの理念がどのように人々に作用してきたのか、人々がどういうものに意義を感じていたのか、というのも事実認識に属する領域である。たしかに、それが知るに値するかどうか、そうしたものを文化とみなすかどうかは当事者にとっても観察者(社会科学者)にとっても価値判断に属する領域である。しかし、学問はそうした現象を知るに値するということを前提とする(もちろん”客観的”に知るに値するかどうかは証明できない)。ウェーバーも同様に、(客観的に)知るに値するものであると前提している(証明できないことを前提としてなお、客観的に知るに値するという前提、信仰をおく)。医者が患者の命を救うに値すると前提しつつ、客観的に救いに値するかは証明できないのと同じである。

    ・それ自体としては意義のない無限な現象を意味づけ、意義付けされたものが「文化」であり、その際の意義が「文化意義」である。ウェーバーはプロ倫において、なぜ「天職思想」が資本主義文化の構成要素のひとつとなっているのか、資本主義精神の構成要素のひとつとなっているのか、その起源を探ることが問題設定として掲げられており、ここにのみウェーバーの関心がある(資本主義の因果連関を見つけ出すことが目的ではない)。この文化意義という用語の理解は極めて重要であり、誤読しやすいポイントである。この場合の資本主義文化は一人だけが意義があると思うようなものというより、大量現象として、ある社会全体に人々が共通して意義があると思うような意義付けのほうが近い(「一般的文化意義」という言葉に近い。この言葉は『客観性』論文で用いられている)。

    例:ウェーバーは「資本主義文化」の具体例(本質的な要素)として「天職思想」を挙げている。なぜならば、「天職思想」は人々が意義があると考えた理念であり、その理念に基づいて現象が意義付けされていたからである。たとえば酒を飲むというそれ自体としては宗教的、倫理的な意味をもたない行為も、理念(天職思想)という枠組みを通してみると、飲酒は避けるべき行為であるというふうに意義付けされ、それが文化となっていく。

    →資本主義文化の天職思想がなぜ合理的な生活態度へとつながっていったのかがウェーバーの問題設定としてかかげられている。この場合の天職思想はどちらかといえばプロテスタンティズムの倫理の構成要素である天職思想に近い。「職業労働への献身とを生み出すに至った、あの『合理的』な思考と生活の具体的形態」と言っていることから、資本主義の精神の構成要素の「職業義務思想」と「合理的な生活態度」を意味しているのだと私は解釈している。そしてそれらにつなげていく起動力、刺激剤が「キリスト教の禁欲精神」だったというのが結論である。天職思想は多義的な意味を持っているのですこし理解が難しい(ルター前期、ルター後期、ルターとは違うフランクリンにおける思想の三段階に便宜的に分けることができると私は考えている)。

    ・ウェーバーは「ある現象の文化意義」と「ある現象の因果的連関」の両方を明らかにしたいと主張している。理解の対象は「文化意義」と「因果関係」の両方にある。そしてプロ倫では特に「文化意義」が重視され、また限定的な因果的説明をも同時に論証している(禁欲精神が合理的な生活態度を生み出した)。人々は歴史的にどのような現象をどのような理念・世界観・エートスを元に文化として意義づけたのか、またそのような理念はどのような精神的な系譜、歴史を持つのか、ウェーバーはそれらを理解する価値があるという前提に立っていたのである。

    「……われわれの究明すべき点は、過去および現在において資本主義文化のもっとも特徴的な構成要素となっている》Beruf《『天職』思想と──前にもみたとおり純粋に幸福主義的な利己心の立場からすればはなはだ非合理的な──職業労働への献身とを生み出すに至った、あの『合理的』な思考と生活の具体的形態は、いったい、どんな精神的系譜に連なるものだったのか、という問題でなければならない。それも、この場合、とくにわれわれの興味を惹くのは、この》Beruf《『天職』概念のうちに、(すべての》Beruf《『天職』概念の場合と同じように)存在する、この非合理的な要素はどこからきたのか、ということなのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、94P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「実を言えば、今日われわれによく知られてはいるが、本当はその意味が決して自明ではない、職業義務(Berufsflicht)という独自な思想がある。そのかつどうのないようが 何であるかにかかわらず、また捉われない見方からすれば、労働力や物的財産(『資本』としての)を用いた単なる利潤の追求の営みに過ぎないにもかかわらず、各人は自分の『職業』活動の内容を義務と意識すべきだと考え、また事実意識してる、そういう義務の観念がある。──こうしたしそうは、資本主義文化の『社会倫理』に特徴的なもので、ある意味では、それにとってたしかに構成的な意味を持っている。この思想はすでにでき上がった資本主義を土台としてのみ発生しえたというようなものではない。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、50P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「こうして、以下の研究は、まことにささやかながら,『理念』というものが一般に歴史のなかでどういうふうに叩くかを例示するのにも役立つだろう」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、134P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「人間の行為を直接的に支配するものは,利害関心Interessen(物質的ならびに理念的)であって,理念Ideenではない。しかし,「理念Ideen」によってつくりだされた「世界像Weltbilder」は,きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し,その軌道の上で利害の力学が行為を突き動かしたのである。[MWGI/19:101=大塚・生松訳:58]」

    孫引きです。「マックス・ウェーバー全集」というものの中の、『宗教社会学論選』ですかね。三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(6)─」、56P。

    ここでは、この社会科学という言葉を、最広義の「社会政策」が実践的に解決しようとしている諸問題を、同じく対象とし、これと歴史的また理論的に取り組む研究を包括する呼称として用いたい。そのさい、われわれが「社会的」という表現を、現代の具体的諸問題によって規定された意味で用いるのは、正当であろう。

    「人間生活の諸事情を、その文化意義という観点から考察する、こうした諸科学を、「文化科学」と呼ぶとすれば、われわれの意味における社会科学は、この文化科学の範疇[カテゴリー]に属している。」

    「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩 補訳、岩波文庫、63P

    「われわれが推し進めようとする社会科学は、ひとつの現実科学である。われわれは、われわれが編入され、われわれを取り囲んでいる個々の現象の連関と文化意義とを、その特性において──すなわち、一方では、そうした現実をなす個々の現象の連関と文化意義とを、その今日の形態において、他方では、そうした現実が、歴史的にかくなって他とはならなかった根拠に遡って──理解したいと思う。」

    「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩 補訳、岩波文庫、73P

    「『文化』とは、世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義とを与えられた有限の一片である。人間が、ある具体的な文化を仇的と見て対峙し、『自然への回帰』を要求するばあいでも、それは、当の人間にとって、やはり文化であることに変わりはない。けだし、かれがこの立場決定に到達するのも、もっぱら、当の具体的文化を、かれの価値理念に関係づけ、『軽佻浮薄にすぎる』と判断するからである。ここで、すべての歴史的個体が論理必然的に『価値理念』に根ざしている、というばあい、こうした純論理的──形式的事態が考えられているのである。いかなる文化科学の先験的前提も、われわれが特定の、あるいは、およそなんらかの『文化』を価値があると見ることにではなく、われわれが、世界に対して意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意志をそなえた文化人である、ということになる。」

    「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩 補訳、岩波文庫、92-93P

    「われわれがいま、人間の社会生活の社会経済構造がもつ一般的文化意義、ならびにその歴史的組織形態の科学的探究を、われわれの雑誌にもっとも固有の研究領域としてあげるのは……」

    「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩 補訳、岩波文庫、62P

    プロテスタンティズムの倫理とは

    POINT

    プロテスタンティズムの倫理とは、意味・最広義にはプロテスタンティズムにおける教義(エーティック)すべて、またそうした教義の影響を元に生じた社会倫理(エーティック)すべてを含むものとなる。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」においては、プロ倫の本質的要素の中でも、特に「天職思想」と「確証思想」、「禁欲的な生活態度(キリスト教の禁欲精神)」の3つが重要になる。プロ倫においてプロテスタンティズムの倫理という場合、したがって、教義の意味としては、主にこの3つ、特に最終的な結論の段階では「キリスト教の禁欲精神」が重要になる。なぜなら、プロ倫の結論は「キリスト教の禁欲精神」が「(資本主義の精神の本質的要素のひとつである)合理的な生活態度」を生み出したというものだからである。

    ・エートス、本質的要素としては、天職思想、確証思想や世俗内禁欲といったものが挙げられる。本質的要素という言い方は「理念型」としてプロテスタンティズムの倫理が作成されていることに由来する。詳細は理念型の記事を参照。

    【社会学を学ぶ】マックス・ウェーバーの「理念型」とはなにか(概略編)

    ・たとえばマルティン・ルターやジャン・カルヴァン(プロテスタントの宗教指導者の一人)自身は行為によって救いが確証できるとは考えていなかったし、むしろそうした考えに批判的だった。しかし、一般信徒や牧師は行為によって救いを確証できると信じ、そうした雰囲気が社会に広がっていった。たとえばカルヴァン派やカルヴァン派から生まれたピューリタニズムなどのプロテスタントの諸派はそうした傾向があった。

    →プロテスタンティズムの倫理のうち、行為による確証思想に基づいた世俗内禁欲や天職思想は純粋な教義からくる倫理というより、社会にひろがっていったエートス(社会倫理)に近い。ウェーバーの別の言い方で言えば、教義の論理的結果ではなく、心理的結果

    天職思想確証思想世俗内禁欲という3つの要素を順番に確認していく(これらはすべて基本的に近代以降に特有な出来事である)。なぜならこの3つは連続関係があるからである。つまり、ウェーバーの用語で言えば「精神的系譜」であり、この精神的系譜を明らかにすることがプロ倫の目的の一つである。

    世俗外禁欲とは

    POINT

    世俗外禁欲とは、意味・世俗の外、たとえば修道院の中で禁欲を行うこと。命令だけではなく、勧告に従うことに特徴がある(勧告は世俗内の人間には要求されない)。世俗外で禁欲を行うことに特別な倫理的、宗教的、道徳的価値が与えられている。中世以前は世俗外でもっとも合理的、組織的な禁欲が行われていた。世俗内では非組織的で、近代に比べると比較的ゆるい禁欲が行われていたという。

    POINT

    命令とは、意味・すべての信徒を拘束する教会の規則。たとえばモーセの十戒などにみられる。例:人を殺してはいけないなど

    POINT

    勧告とは、意味・「完徳」への道として福音書に示された三つの勧告、清貧・貞潔・従順(この3つはいわゆる「誓願」)を意味し、特に選ばれた者、聖職者として神に召命をうけた者のみを拘束するもの。例えば自由財産の禁止、生涯独身、上司への絶対服従など。

    POINT:世俗外禁欲を強調すればするほど、世俗内的義務を軽視するようになる。なぜなら、世俗内の人間よりも徳をつもうと励んだからである。そうした態度を取り除いていったのはルターだった(宗教革命)。

    ・天職思想の前に、近代以前、特に中世における「世俗外禁欲」をみていきたい。なぜなら、「世俗外禁欲」もまた「天職思想」に重要な連続関係があるからである。もちろんギリシャやユダヤなど古代にまで遡ることもできるが、古代については深く言及されていないので省略する(ヘレニズム等)。

    たとえば修道院は529年にベネディクトゥスが創建したベネディクト会が知られている。戒律として「清貧」、「純潔」、「服従」、さらに「定住」が定められた。もっとも、古代から「童貞性」、「禁欲」、「殉職」などが重視されており、合理的な側面もあった。重要なのは、中世において合理的な禁欲が完成したということである。古代が達人的な苦行だったのに対して、中世以降はそうした側面から脱しているという(例えば殉職などはなくなっていく)。ベネディクト会は「祈り、かつ働け」の精神のもと、広大な領地や財産をもつようになっていく。世俗外で労働をし、それが宗教的な価値を持っていたのはポイントである(1日6~7時間、農耕や建造、書写や園芸などしていた)。

    ・世俗内の一般の人々は、「命令」だけに従い、「勧告」の遵守が義務付けられているわけではない。勧告の遵守は「完徳の」道であり、(神に)選ばれた者のみを拘束するという。つまり、中世以前において、修道士や聖職の地位にある者のみが「神に召された職(聖職)」についていた。

    ・世俗内における職業労働に宗教的・倫理的・道徳的価値があるといった態度はあまりみられなかった(伝統主義のエートス)。世俗内の職業が神の使命である、というようなニュアンスもなかった。世俗内において禁欲を徹底する、という態度も徹底していなかった(悪いことをしても懺悔すればよかったので、それほど禁欲は徹底されない。ゆるい規範の元にあった)。

    POINT:こうした伝統主義の精神(エートス)が資本主義の精神(エートス)へとなぜ転換していったのか、どのような影響が考えられるのかというのが重要。結論から言えば、中世の世俗外禁欲からルターの「世俗内労働」の尊重、そして「予定説」や「確証思想」を通して「世俗内禁欲」が生じ、その「世俗内禁欲」から宗教的な精神が抜け落ち、世俗内の労働それ自体に倫理的な価値がある、という「資本主義の精神(合理的な生活態度)」のみが残ったという精神的系譜になる。そして決定的に伝統主義のエートスから資本主義のエートスへと転換させていったのは「世俗内禁欲」であり、これが「(心理的)起動力」となったということである。すでに思想としては完成されていた(ルターなど)が、背中を押したのが確証思想から生まれた禁欲的な生活態度というイメージである。

    ・イエズス会(1534年~)で合理的、組織的、禁欲な生活態度が完成されていた。

    ・先程のベネディクト会は宗教革命時代(16世紀)に打撃を受け、ほとんど解散させられた。1098年にベネディクト会から派生したシトー会や、宗教革命後にプロテスタントに対抗するためにできた「イエズス会」などが修道生活の要素を受け継ぎ、合理的な生活態度、世俗外禁欲を完成させていった。

    ・こうした合理的な生活態度は資本主義の発展の前に、資本主義の精神の発生前にすでに完成していたというのがポイント。重要なのは、こうした合理的な生活態度にはまだ宗教的な精神が残っていたということであり、世俗外で行われていたということである。

    ・重要なのは、なぜ世俗内で行われるようになったのか、なぜ宗教的な精神が消えていったのかということである。結論から言えば、世俗内への移行がルターの聖書翻訳をきっかけに、宗教的な精神が消えていくのはプロテスタンティズムの世俗内禁欲をきっかけにしている。しかしそれらは孤立したものではなく、連続したものであり、つながっている。このつながり(精神的系譜)を明らかにすることがプロ倫の目的の一つである。

    「キリスト教的禁欲…..しかし、西洋では、すでに中世においてその最高の形態は完全に、またいくつかの現象については早くも古代において、合理的な性格を帯びていた。東洋の禁欲僧生活──総体ではなく、一般的類型として──に対比して、西洋の修道士生活のもつ世界史的意義は、この点にある。……それは、自然の克服し、人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意志の支配に服させ、彼の行為を不断の自己審査と倫理的意義の熱慮のもとにおくことを目的とする、そうした合理的生活態度の組織的に完成された方法として、すでに出来上がっていた。そして、修道士たちを──客観的には──神の国のための労働者として訓育するとともに、それによってさらに──主観的には──彼らの霊魂の救いを確実にするものとなっていったのだった。こうした──能動的な──自己統御は、聖イグナティウスのecercitia(修練)のみでなく、およそ合理的な修道士的徳行の最高形態における目標だったように、ピューリタニズムの実践生活における決定的に重要な理想でもあった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、200-201P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「また、語義の場合と同様に、その思想も新しく、宗教改革の産物だった。──このことはひとまず周知の事実だと言えよう。……それはともかく、次の一事はさしあたって無条件に新しいものだった。すなわち、世俗的職業の内部における義務の遂行を、およそ道徳的実践のもちうる最高の内容として重要視したことがそれだ。これこそが、その必然の結果として、世俗的に地上労働に宗教的意義を認める思想を生み、そうした意味での天職(Beruf)という概念を最初に作り出したのだった。つまり、この『天職』という概念の中にはプロテスタントのあらゆる教派の中心的教義が表出されているのであって、それはほかならぬ、カトリックのようにキリスト教の道徳誡を》praecepta《『命令』と》consilia《『勧告』とに分けることを否認し、また修道士的禁欲を世俗内的道徳よりも高く考えたりするのえはなく、神によろこばれる生活を営むための手段はただ一つ、各人の生活上のちいから生じる世俗内的義務の遂行であって、これこそが神から与えられた『召命』》Beruf《にほからなぬ、と考えるというものだった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、109-110P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「なお,この「命令」と「勧告」は,前掲の折原の解説の他,世良晃志郎訳『支配の社会学』の世良による訳注(同書₅₅₀-₁ページ)に,以下のようなきわめて適切な解説がある。カトリック教会は「掟(「命令」のこと─引用者)」と「福音的勧告」とを区別する。前者は原則としてすべての信徒を拘束する教会の規則であり,後者は「完徳」への道として福音書に示された三つの勧告─清貧・貞潔・従順─を意味し,特に選ばれた者のみを拘束する。特に修道士は,その修道誓願によって,この勧告の遵守を義務づけられており,「福音的勧告」というとき直ちに連想させるのは修道士の生活である。ウェーバーは,プロテスタンティズムにおいてこの「掟」と「福音的勧告」との区別が排除され,「禁欲」が現世内的「職業」に転化したことを随所に強調している」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(4)─」、191-192P

    ルターと天職思想

    整理

    ルターの思考の変遷については別の記事で以前扱ったので、そうした部分は省略します。

    【社会学】マルティン・ルターの天職思想とはなにか

    POINT

    マルティン・ルターとは、意味(Martin Luther、1483-1546)ドイツの神学者、聖職者。ローマ・カトリック教会を批判した。プロテスタントを誕生させるきっかけとなる宗教革命の中心人物。1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に提出する。内容は主に贖宥状(しょくじゅうじょう)の濫用についての批判である。日本では免罪符とも呼ばれている。

    ・ルターの流れを直接的に受け継いでいったのはルター派であり、ルーテル教会を中心としている(現在、世界に8260万人の信徒が存在するとされている)。ルター派もプロテスタントの派閥に分類され、プロテスタンティズム(プロテスタントの思想)に分類されている。ちなみにプロテスタントの信者は5億人ほどいると言われている(キリスト教徒全体では23億人、カトリックは13億人)※データは参考程度で誤差がある

    POINT

    天職思想とは、意味天職概念、天職観念ともいわれる。プロテスタンティズム諸派の中心教義としての天職思想は、「世俗内職業労働は神の使命であり、倫理的に最も善いことであると考える思想」を意味する。修道士的禁欲(世俗外禁欲)を世俗内道徳よりも高いと考えたりせずに、神によろこばれる生活のための手段はただひとつ、世俗内義務の遂行であるというもの。そしてこうした遂行こそが神の召命であるという思想。ルターにおいては教義的には宗教革命以降、10年間の間のみそうした思考がみられたという。そうした思想が。無条件に、条件反射的に社会全体に倫理的雰囲気(エートス)として存在しているような状態を倫理あるいは精神という。天職思想はルターによる倫理(エーティック、教義、教理)であり、人々の間に広がっていった倫理(エートス、社会倫理、精神、社会理念、一般文化意義)でもある。フランクリンにおける職業義務思想(天職義務思想)とは区別して考える(便宜的にフランクリンの場合は天職という言葉を使わず、職業という言葉を使うことにする)。便宜的には、天職思想(1)にあたり、これこそがプロテスタンティズム諸派の中心教義となったものである(ルターにおいては消えていった神の使命という要素が極めて重要になる)。

    POINT

    天職思想(1)とは、意味・ウェーバーの分類ではなく、便宜上に私が分類したもの。「新しい語義」+「新しい思想」がその内容となる。つまり、「世俗内労働は神の使命であり、道徳的・倫理的に善いことである」という思想のこと。ルターは聖書翻訳を通して「新しい語義」と「新しい思想」を生み出した。聖書は『ベン・シラの知恵』[旧約聖書外典中の一書]である。

    POINT

    天職思想(2)とは、意味・ウェーバーの分類ではなく、便宜上に私が分類したもの。「新しい思想」がその内容となる。「世俗内労働に宗教的・道徳的・倫理的な価値を認める」という思想。神の使命という新しい語義が抜け落ちている。したがって、「確証思想」につながるような要素も抜け落ちている。便宜的に言えば、「新しい語義」が狭義には天職観念あるいは天職概念であり、「新しい思想」が狭義には天職思想である。天職思想(1)も天職思想(2)もどちらも「新しい思想」であり、「天職思想」であり、その違いは(合理的な生活態度への影響として)積極的な意義をもつか、消極的な意義をもつかかの違いにわかれる。

    新しい語義】単なる「世俗的な職業」という意味しかなかったBeruf(ベルーフ)という言葉に、「神から与えられた使命」という意味を付け加えた。→召命観がみられる。つまり、神に召されて(呼び出されて)職業労働が命じられているのであり、神によろこばれる行為であるという意味合い。※Berufを天職と和訳すると「ただ一つの職業」というように誤って解釈される傾向があるため(兼業や転職も許されている)、単に「職業」と和訳する場合がある。日本語にベルーフそのままの意味を表現できる単語はない。この動画では「”天職”思想」として扱う(職業義務思想と区別しやすいため)。職業義務思想(天職義務思想)とは区別して考える。なぜなら、職業義務思想には宗教的要素がないからである(職業義務思想は資本主義の精神の項目で扱います)。

    新しい思想職業義務遂行を道徳的最高善と考えた。世俗的日常労働に宗教的意義を認める思想。ルターは世俗外禁欲に価値を認めていないというのもポイント。※道徳的≒倫理的

    ・ルターの天職思想(天職概念、天職観念)を2つに便宜的に分ける(ウェーバー自身はこのように番号をつけていない)

    1. ルターの天職思想(1):新しい語義+新しい思想
    2. ルターの天職思想(2):新しい思想

    ・ルターは天職思想を終始一貫して持っていたわけではなく、ルター自身の中で徐々に変化していった。端的に言えば、新しい語義の要素が消えていった。つまり、世俗内労働は神の使命であり、召命であるという要素がなくなっていった。残ったのは、世俗内労働は宗教的、道徳的、倫理的な価値があるという(消極的な)思想である。しかし、世俗内労働を評価するという思想は新しく、プロ倫においては重要な意義をもっている。

    POINT:中世以前は世俗外労働や世俗外禁欲にのみ積極的な宗教的、道徳的、倫理的価値が認められていた。ルターはこうしたカトリック的な世俗外労働、禁欲による価値を認めず、世俗内労働にこそ宗教的、道徳的、倫理的価値があると主張した。

    POINT:ルター自身の思想は「政府への服従・所与の生活状態への順応」という消極的、伝統主義的なものへと変化していった

    ・多くののロテスタンティズム諸派に共通する、中心的な教義はルターの天職思想(1)である

    ・ルター自身は新しい語義を重視しなくなっていったが、他の多くのプロテスタント諸派はより重視するようになっていった。特に一般信徒の実践においてはさらに重視されていった。

    ・カルヴァン派、ピューリタニズム、敬虔主義、メソジスト、洗礼主義等々に共通して「世俗内労働(職業)は神から与えられた使命」という思想が見られる。

    POINT:ルターの天職思想(1)があったから、禁欲的な生活態度が論理必然的に生じたわけではない。仮にルターが一貫してルターの天職思想(1)を保持したとしても、禁欲的な生活態度が論理必然的に生じたとはいいきれない。ウェーバの言葉で言えば「(天職思想は)世俗内生活態度にたいしてさまざまな形をとりえた」ということになる。

    POINT:禁欲的な生活態度へと直接的に生じさせた要因は「確証思想」である。神からの救いがあるかないかわからない、そういう不安と孤独と緊張感の中で、禁欲的な生活態度が生じていった。もちろん、こうした「確証思想」はルターの天職思想(1)とも関連している。なぜなら、職業労働が神の使命であり、職業労働がうまくいくことで「有効な信仰」を意識することができ、この「有効な信仰」が「救いの確証」へとつながるからである。

    要するに、天職思想をいきなり禁欲的な生活態度へと結びつけることはできず、そのに「確証思想」があるということが重要になってくる。そしてこの「確証思想」はルターやルター派では直接的に生じずに、他のプロテスタント諸派で生じていった。また、この「確証思想」は他のプロテスタント諸派の中心的な教義へとなっていった。ルター派は聖礼典などで後天的に救いを得ることを肯定する傾向があるため、さらに「予定説」を否定している傾向があるため、他の諸派よりも不安や緊張感が小さい(この点はカトリックに近い)。したがって、ルター派は禁欲的な生活態度へと結びつきにくかった。また、予定説を明確に否定しているプロテスタント諸派(たとえば洗礼主義)においても、確証思想は生じたが、しかし禁欲的な生活態度の”程度”は純粋なカルヴァン派に比べると小さく、一貫していなかった(後に見るように、一番一貫していたのがピューリタニズムである)。

    営利を自己目的とすることが「恥ずべきこと」の時代から「称賛されるべきこと」の時代への変化

    1:14,15世紀のフィレンツェは資本主義的発達の世界的中心地だったのにもかかわらず、利潤の追求は道徳上危険であり、寛容されるにすぎないものと考えられていた。→営利を自己目的とする行為は「恥ずべきこと」であり、やむなく「寛容」されているにすぎなかった

    2:18世紀のペンシルヴェニアでは資本主義が発達していなかったにもかかわらず、利潤の追求が義務であり、道徳上称賛に値すると考えられていた。→営利を自己目的とする行為は「称賛されるべきこと」であり、「義務」であると考えられていた

    3:1から2へ変わっていった根源には何があるのか。「職業義務思想」はどこからきて、どこのように変異し、どのようにフランクリンの生活態度(資本主義の精神)へと結びついていったのか

    4:フランクリンの職業義務思想の源泉はルターの職業義務思想に大きく関係している。しかし、一気にルターの職業義務思想がフランクリンの職業義務思想につながったわけではない。どのように伝わっていたのかがポイントである。

    5:「職業義務思想」の根源には「ルターの天職観念」がある。ルターは職業概念の「新しい語義」と「新しい思想」を生み出した。それが回り回ってフランクリンの生活態度(禁欲的態度)へとつながっていったのだが、簡単にむすびつけることはできない。というより、ルターの生み出した職業観念それだけでは資本主義の精神を必ずしも帰結するようなものではない。どのように変遷していったのか、というのがポイントである。先に結論を言えば、カルヴィニズムやその他プロテスタントの「確証説」が禁欲的態度へとつながっていたのである。そしてルターやカルヴァンの宗教改革の時期が16世紀というのもポイントである。

    6:近代資本主義が宗教的な力と結びついて粉砕したのは、「営利を自己目的とするような態度に敵対する道徳感覚」である。ではこの場合の「宗教的な力」とはなにか、というのがポイントになる。それが「確証説」である。この「確証説」が禁欲的態度を最も直接的に生み出し、この禁欲的態度が資本主義の精神のひとつである「合理的態度」へとつながっていったのである。

    「かつて資本主義は、形成期の近代的国家権力と結合することによって、はじめて古い中世的経済統制の諸形態を粉砕し得たように、宗教的権威との関係についても、おそらく──と一応言っておきたい──そうしたことが起こりえたのではなかろうか。それが現実に起こったか否か、また現実に起こったとすればそれはどのような意味をもったのか、それを究明することこそが本書におけるわれれれの仕事となるのだ。なぜなら、貨幣の獲得を人間に義務付けられた自己目的、すなわちBeruf(天職)とみるよううな見解が、他のどの時代の道徳感覚にも背反するものだということは、ほとんど証明を要しないからだ。……また、たとえばフィレンツェのアントニヌス(Antoninus)に見るように、教会の教理がさらに現実に順応するにいたった場合でさえ、営利を自己目的とする行為は根本的にはpudendum(恥ずべきこと)であり、現存の社会秩序がただ止むなくそれを寛容しているにすぎないという感覚は決して消失してはいなかった。……しかし、当時の支配的学説は資本主義的営利の『精神』をturpitiudo(醜いこと)として排斥しており、そうでない場合にも、少なくともそれに倫理上の積極的な評価を与えることはできなかった。ベンジャミン・フランクリンのようにそれを『道徳的』と見るようなことは、およそ考えも及ばぬことだったと思われる。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、82-84P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「ところで、このような道徳的にはせいぜい寛容されるにすぎなかった利潤の追求が、どうして、ベンジャミン・フランクリンの意味における》Beruf《『天職』にまでなっていったのだろうか。一四、五世紀のフィレンツェは当時資本主義的発達の世界的中心地であり、列強のための金融・資本市場だったが、そうした場所でも利潤の追求は道徳上危険と考えられ、あるいは、どこにあっても寛容されるにすぎぬものとされていた。それなのに、辺境の小市民的な十八世紀のペンシルヴェニアで、しかもこの地方では貨幣の不足のためだけでややもすれば物々交換経済に逆転する恐れさえあり、大規模な産業経営はほとんど影さえなく、銀行といえば僅かにその萌芽しか見られなかったのに、利潤の追求が道徳上称賛に値するに止まらず、義務であるような、そうした生活態度の内容と考えられたという事実は、いったいどうすれば歴史的に説明しうるだろうか。──この場合『物質的』関係の『観念的上部構造』への『反映』を云々するのはまったくの無意味だろう。──外面的には利潤の獲得を指向するにすぎない活動が、個々人に義務として意識されるような、そうした》Beruf《『天職』という範疇にまで構成されるにいたったという事実は、どのような思想世界にその源泉をもったのだろうか。けだし、ほかならぬそうした思想こそが『新しいスタイル』の起業家の生活態度に倫理的下部構造と支柱を与えることになったのだからだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、85P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「ルターの「職業」概念は,たしかに新しいものではあったが,だからといってそれが論理必然的に「資本主義の「精神」」を結実するわけではない。このことをひとまず理解するためには,あえて宗教とは別の例を,たとえば,法の条文が定められても,その条文が必然的に一義的・確定的に理解,解釈されるとは限らないことを想起すればいいだろう。わざわざG.イェリネクの「憲法変遷」などという議論を引っ張り出さずとも,法には解釈があり,運用があり,場所,状況,時代によってもその実質的な意味が変わってくることは,われわれが日々目にしていることである。こうした事態が想起できれば,ヴェーバーがここで「「職業Beruf」という思想」が,さまざまな帰結を生じ得たと述べていることは理解しやすいはずである。実際,「職業Beruf」概念は,ルターの活動のなかで起きた思想変遷から,その様相が変わってくる。すなわち,〈新しい語義〉が後景に退いていくという意義変化が起こるのである。」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(5)─」、66P

    「つまり、このプロテスタントのあらゆる教派の中心的教義が表出されているのであって、それはほかならぬ、カトリックのようにキリスト教の道徳律を》pracepta《『命令』と》consilia《『勧告』とに分けることを否認し、また、修道士的な禁欲を」

    ルター本人の「天職概念」の「変遷」について

    1:【新しい語義】ルターは「天職概念(職業Beruf概念)」をはじめて創出した人物である。具体的には聖書の翻訳において、単なる「世俗的な職業」という意味しかなかったBerufという言葉に、「神から与えられた使命」という意味を付け加えた。要するに、「Beruf=世俗の職業を神から与えられた使命」という「新しい語義」をルターは創り出した。これは「宗教改革」でルターが行ったものであり、宗教改革のルターによる第一の産物といえる。

    2:【新しい思想】ルターははじめて職業義務遂行を道徳的最高善と考えた人物である。つまり、世俗的日常労働に宗教的意義を認める思想である。これが宗教改革のルターによる第二の産物といえる。

    3:新しい語義+新しい思想=「ルターの天職概念(1)」と定義する。

    3:ルターの思想を受け継いだ派閥としてはルター派というものがある。プロテスタントの派閥にはルター派以外にもカルヴァン派の改革派や長老派、他にも敬虔主義、メソジスト、パブテスト、ピューリタニズム等々様々な派閥がある。しかし、プロテスタントのあらゆる教派に中心する教義として、「ルターの天職概念(1)」がある。要するに、世俗的な職業は神から与えられた使命であり、職業義務の遂行は道徳的最高善であるという概念である。その他の教義では異なるものがあったとしても、このルターの天職概念(1)はプロテスタントの中心的な教義なのである。

    4:ルターは自分の創り出した「ルターの天職概念(1)」を死ぬまで維持し続けたわけではない。ルターの世俗的な職業に対する姿勢は変化していった。職業労働は神から与えられた使命そのものだという思想は消えて、職業は神の摂理として人間が甘受し、これに順応するべきものであるという思想に変化していった。ようするに新しい語義+新しい思想から、新しい語義が抜け落ちてしまったということである。新しい思想=「ルターの天職概念(2)」と定義することにする。要するに、世俗内日常労働には宗教的意義があり、世俗外禁欲よりも重視されるべきであるというような消極的な倫理性にとどまった。ルターの天職概念(1)のような、世俗内日常労働が神から与えられた使命であるというような積極的な倫理性が消えてしまったのである。

    5:「ルターの天職概念(1)」をまるごと受け継いだのは禁欲的プロテスタンティズムの派閥(カルヴィニズムやメソジスト、敬虔主義、ピューリタニズム、バプテスト、改革派、長老派等)である。「ルターの天職概念(2)」を受け継いだのは主にルター派である。このことからも、プロテスタントのあらゆる教派の中心する教義は「ルターの天職概念(1)」であり、「ルターの天職概念(2)」ではないことが確認できる。

    6:禁欲的プロテスタンティズムの派閥が「ルターの天職概念(1)」を引き受けたから、論理必然的に「合理的な生活態度」がもたらされたわけではない。ウェーバーの問題設定はなぜ「ルターの天職概念(1)」が「合理的な生活態度」へつながったのかである。言い換えれば「プロテスタンティズムの倫理の構成要素の一つ」がなぜ「資本主義の精神の構成要素の一つ」を生み出したのか、である。その答えに対して、禁欲的プロテスタンティズムの派閥が「ルターの天職概念(1)」を引き受け、営利を自己目的とするような天職思想をもち、職業労働に勤しみ、やがてそれが「合理的な生活態度」へつながった、と安直に結びつけることはできない

    7:禁欲的プロテスタンティズムの派閥は「ルターの天職概念(1)」引き受け、それが「確証思想」へと結びつくことにより、禁欲的な生活態度が生まれ、この禁欲的な生活態度が合理的な生活態度へと結びついていった。要するに、「宗教的な要素」と「職業労働・生活態度」をガッチリと結びつけたのは「確証思想」だったということである。確証思想とは自分が神に救われているかどうかを確証できるという思想である。「ルターの天職概念(1)」→「確証思想」→「禁欲的な生活態度」→「合理的な生活態度」という順番として起源を確認することができる。もちろん「予定説」も大事だが、予定説を教義としてもっていないプロテスタントの派閥にも「確証思想」が共通してあることから、重要なのは「確証思想」だということがわかる。

    8:ルターの思想は伝統主義へと傾いていった。世俗的職業は神の使命としてではなく、神の導きとして人々が甘受し、これに順応するべきものとなっていった。

    ルターの聖書翻訳について(「新しい語義」)

    1:ルターの翻訳以前はベルーフという言葉に神の使命という意味はなく、世俗的な職業という意味合いのみだった(古い語義)

    2:ルターの翻訳後にベルーフという言葉に世俗的な職業に加えて神の使命という意味合いが付与された(「新しい語義」となった)

    ☆ベルーフは「天職」と翻訳される場合もあるが、そのままの「職業」という翻訳でもいいのではないか、という声がある。なぜなら、天職という翻訳だと「ただひとつの職業」というように誤解されやすいからである。ルターにおけるベルーフは兼業も職業選択の自由とも両立するし、固定的である必要もない。

    このような高尚な議論で稚拙な例えをするのは申し訳ないが、例えというのは理解で最も重要だと思っている(もちろん誤解を招く危険性もある)。たとえば「やばい」という言葉は昔は「危険」という意味しかなかったとする。それが現代では(とくに若者の間で)「最高に良い」という意味でも使われている。一見相反する言葉の意味合いが両方込められるようになっているのである。これも立派な「新しい語義」と言えるのではないだろうか。

    「さて、[『職業』を意味する]ドイツ語の『ベルーフ』》Beruf《というのうちに、また同じ意味合いをもつ英語の『コーリング』》calling《という語のうちにも一層明瞭に、ある宗教的な──神から与えられた使命(Aufgabe)という──観念がともにこめられており、個々の場合にこの語に力点をおけばおくほど、それが顕著になってくることは見落としえぬ事実だ。しかも、この語を歴史的にかつさまざまな文化国民の原語にわたって追究してみると、まず知りうるのは、カトリック教徒が優勢な諸民族にも、また古典古代の場合にも、われわれが[世俗的な職業、すなわち]生活上の地位、一定の労働領域という意味合いをこめて使っている》Beruf《『天職』という語と類似の語調をもつような表現を見出すことができないのに、プロテスタントの優勢な諸民族の場合にはかならずそれが存在する、ということだ。さらに知りうるのは、その場合何らか国語の民族的特性、たとえば『ゲルマン民族精神』の現れといったものが関与しているのではなくて、むしろこの語とそれがもつ現在の意味合いは聖書の翻訳に由来しており、それも原文の精神ではなく、翻訳者の精神に由来しているということだ。ルッターの聖書翻訳では、まず『ベン・シラの知恵』[旧約聖書外典中の一書]の一個所(十一章二十、二十一節)で現在とまったく同じ意味に用いられているように思われる。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、95-96P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「berruf概念の最重要のポイントは,神によって与えられた「使命Aufgabe」ということであり,それが唯一であったり固定的であったりすることではない。「ピューリタニズムの職業観は,職業選択の自由と両立するのである。」[仲正₂₀₁₄:₅₉]という正しい指摘もあるいっぽう,「一つの職業労働に専念する」[橋本₂₀₁₉:₁₇₈]ことだという誤解も存在している。私が「職業」という訳語のみを使用する理由のひとつはここにある。」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(4)─」、191P

    ルターの「新しい思想」

    使命と召命の違いが正直なところ、よくわからない。使命とは「与えられた重要な任務」というような意味合いである。誰に与えられたかというと、神である。要するに、神からの任務=使命=世俗内労働ということになる。召命とは、神から召されて使命を与えられることである。召される、というのはかみくだけば「呼ばれる」ということである。したがって、使命と召命の違いは、「与えられた」か「召されて与えられた」どうかの違いである。

    宗教に疎いものとしてはこの違いが理解できない。たとえば上司に直接呼ばれて仕事を依頼されるのと、上司に直接呼ばれずに仕事を依頼されるのでは意味合いが変わる、といえばそうかもしれないとは感じる。

    どうやら「神の召し」という言葉が重要なキーになるらしい。世俗外禁欲において、修道士たちも自分たちの職業(聖職)を通して神の使命であると感じ、またそれが内面的には神の救いへつながっていったとウェーバーが述べる部分もある

    「本日は「神の召し」を覚えます。神は選んだ者を救いへと召してくださいます。……

    (v8)その根拠は「神は真実です(v9)」「真実(v9)」とは、神は救われた者たちを完成まで守り導いてくださることを示しています。そしてもう一度救いの出発を覚えさせております。「その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。(v9)」「召されて」とは「呼ぶ」との言葉です。直訳は「主イエス・キリストとの交わりの中に呼ばれた」です。神の召しとは、神が私たちを主イエス・キリストとの交わりと主イエス・キリストをかしらとする教会の交わりの中に呼ばれたことです。私たちが主イエス・キリストの救いに与った背後には、神ご自身が選んだ私たちを神の時に呼んでくださった「神の召し」があったのです。神の召しの方法は、「神の言葉(外的召し)」と「聖霊の働き(内的召し)」です。「キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです(v6)」神は、私たちに福音、イエス・キリストについての証しを説教や人を通し伝えてくださいました。また神は、神も罪も救いも分からず、ひたすら世にあるものを求め続けていた霊的無理解の中にあった私たち(Ⅰコリント2:14)に、聖霊の働きを与え、イエス・キリストの救いへの理解と信頼に導いてくださいました。」

    出典

    聖書の解説のサイトを覗いてみた。「神は選んだものを救いへと召して」という使い方がされている。救いへと召されるということは、要するに救われるということであり、神から選ばれるということである。神の召しとして「キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなった」とあるように、これは「救いの確証思想」とも解釈できます。要するに、神から召されることは救いと関連しているわけです。したがって、単に神から使命を与えられることと、神から召されて使命を与えられることには大きな違いがどうやらありそうだぞ、ということになります。専門用語で言えば「内的召命」を意味するそうです。

    しかしそれではルターの思想が確証思想をもっていたのか、という問題になるとなかなか難しい。初期ルターにおいては確証思想の要素があったが、それは次第になくなっていった、と解釈でいいのではないかと考える。「正しい教会を見極める」とは「神の救いを見極める」ことにつながり、そのもっと表面に現れる「徴候」として「貞節や純潔、不酔」を挙げているからである。そしてこれは「教義の純粋や祈り」よりは確実ではないと述べている。つまり、行為より信仰のほうが確実である、という思想が見える。しかし同時に、そうした禁欲も表面的で確実度は低いが神の救いの確証につながる、という解釈もできる。そうした「確証思想」すら退いていった、という解釈でいいのではないだろうか(なぜなら行為主義として、行為による確証を批判していくようになるからである)。もともと行為を確証思想と結びつけることもあまりなく、確実度は低いとみなされていたのである。

    人々に「天職思想」が解釈されるうちに、確証思想と結び付けられていった、エートスとなっていったという理解のほうが望ましいのだと思う。ルターからは直接的に確証思想のエートスが広がらず、別の何かを媒介する必要があったというわけだ。それが予定説、カルヴィニズムである。

    ルターには確証思想への指向の萌芽はあまりなかったようである。なぜなら、ウェーバーは「これに反して、ドイツ神秘家たちのうちには、純粋に心理的なものだが、少なくとも確証の思想の二、三の萌芽が見られる(125P)」と続けているからである。

    ウェーバーが「キリスト者の救いをその職業労働と日常生活の中で確証するというカルヴィニズムの中心思想は、ルッターの場合ははるかに背景に退いている」と説明している。背景に退いているということは、もともとそうした萌芽があった(が、なくなっていった)とも解釈できる。また、「この『天職』という概念の中にはプロテスタントのあらゆる教派の中心的教義が表出」という文脈で「召命」という言葉が出てきている点でも、やはり「確証思想」の要素が初期ルターにはあったと解釈することができる。なぜならプロテスタントのあらゆる教派に共通しているのは「職業労働に単に宗教的意義を認めること」でも「予定説」でもなく、「確証思想」だからである。つまり、神に召されているかどうかという「”召”命」が重用になってくる。そしてさらに重要なのは、ルターやカルヴァン(カルヴィニズムの始祖)自身はそうした確証思想から離れていったということである。宗教家自身はそうした確証思想から離れていくが、一般信徒は確証思想からなかなか離れていくことができなかったというのはポイントである。ウェーバーが重視するのは宗教が社会や個人に与える作用であり、宗教家自身の教義ではない。

    ルターは初期において、とくに宗教革命の時期においては確証思想の要素を内包した「天職概念」をもっていたが、やがてこの「天職概念」から「神からの使命」という要素が抜け落ち、したがって「召命」という要素も抜け落ちていくことになる。カルヴァンも同様になにか労働などの「行為」によって救いを確証できるとは考えていなかったが、カルヴァン”派”は確証思想を強めていったし、たとえばカルヴァンの派閥の一つであるピューリタニズムでは”特に”確証思想を強めていったと言える。そしてこの「確証思想」が特に「禁欲的な生活態度」へと繋がり、この「禁欲的な生活態度」が「合理的な生活態度」へとつながっていったのである。

    したがって、初期ルターにおける職業概念を「ルターの天職概念(1)」とすれば、「神からの使命ないし召命」要素が抜け落ちた職業概念を「ルターの天職概念(2)」とすることができる。「ルターの天職概念(1)」はカルヴァン派やその他プロテスタント諸派やゼクテでも共通して中心概念となっていったが、「ルターの天職概念(2)」はその中心概念とはなりえなかった、と解釈することができる。そのため、「ルター」からは直接的に「禁欲的な生活態度(プロテスタンティズムの倫理のひとつ)」を導くことができず、したがって「合理的な生活態度(資本主義の精神のひとつ)」へと直接的には導くことができない、といえる。

    「とくに、われわれにとってきわめて重要な、キリスト者の救いをその職業労働と日常生活の中で確証するというカルヴィニズムの中心思想は、ルッターの場合ははるかに背景に退いている。そのことを示すのは……『この(正しい境界を見分ける)七つの信条に加えて、キリストの聖き教会を見極めうる、もっと表面に現れた徴候がある。……それはわれわれが不品行、ルッターによれば、これらの徴候は『上述のもの』(狭義の純粋、祈りなど)ほど確実ではないが、それは『異教徒のうちにもかかる行為の訓練をおこない、往々キリスト教徒よりも聖くみえるものがいるためである』。──後述するように、カルヴァン自身はこれとほとんど異ならなかったが、ピューリタニズムはそうではなかった。ともかく、ルッターにあっては、キリスト者が神に奉仕するのは》in vocatione《『天職において』でけで、》per vocationem《『天職によって』ではなかった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、124P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「説話集……には『誰もがいずれか一つの天職(Beruf)に召されて(berufen)いる』とある。各自はこの天職(Beruf)……に従い、それにおいて神に奉仕せねばならぬ。神の喜びたまうものはその成果ではなく、そのなかに認められる従順なのである。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、127P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「このようにして、ルッターの場合、天職概念は結局伝統主義を脱するにはいたらなかった。世俗的職業なるものは神の導き……として甘受し、これに『順応する』べきものであって、──こうした色調のかげにかくれて、職業労働は[天職として」神から与えられた使命、否むしろ使命そのものだとする彼のいま一つの思想は色あせてしまった。しかも、正統ルッター派の発展はこの傾向にさらに拍車をかけた。こうしてこの派がもたらした唯一の倫理的収穫はさしあたって消極的なもの、すなわち、禁欲的義務を強調すれば世俗内的義務を軽視するようになる、といった[カトリック的]態度を除去したというだけで、それのみかこれに結びついて政府への服従と所与の生活状態への順応が説かれることになったのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、125P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    ルターにおける世俗外禁欲への評価

    ・利己的な愛の欠如の産物であり、神に義とされるためには全く無価値

    →神によろこばれる(義とされるような)行為は「世俗内労働」である。たとえば「分業」は利己的ではなく利他的な行動を人々に命令させるシステムなので、世俗の職業労働こそ隣人愛の外的な現れだと考えた。

    「修道院にみるような生活は、神に義とされるためにはまったく無価値というだけでなかう、現世の義務から逃れようとする利己的な愛の欠如の産物だ、とルッターは考えた」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、110P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    カルヴァンとカルヴィニズムとは

    予定説の詳細は以前記事にしたので、省略します。

    【社会学】カルヴィニズムの予定説とはなにか。天国か地獄か、生まれる前から決定されている。

    POINT

    ジャン・カルヴァンとは、意味・(1509-1564):ジュネーブの宗教改革者。スイス改革派教会の創始者の1人。彼の考えを受け継いでいった派閥がカルヴァン派である。また、カルヴァンの教義には「予定説」があり、(神学においては定かではないが、プロ倫においては)特にこの「予定説」がカルヴァンの中でも重要な要素となる。ルター派とは対立している(ルター派は「予定説」を支持していない)。

    POINT

    カルヴィニズムとは、意味・カルヴァン主義、カルヴァンの思想のこと。プロ倫の文脈ではカルヴァン自身の教義とは一致していないというのが重要。カルヴァン自身の教義が一般信徒や牧師などの実践の場においてどのように伝わっていったか、どのように受け入れられていったかをウェーバーは重視している。ウェーバーは宗教指導者の教義そのものよりも、宗教が人々にどのように作用していったのか、どのような意義(文化意義)をもっていったのかをより重視し、その解明や説明を社会学の目的だとしている。教義の論理的帰結よりも、人々に与えた心理的帰結を重視する。ウェーバーによれば民衆の広い層を捉えた宗教運動は「どうすれば自分の救いに確信を持てるか」から出発するという。

    POINT

    予定説とは、意味・個々の人間が神によって救われるかどうかは人類の誕生の前にすでに予定されていて(救いは不可変)、さらに救われているかどうかやその判断基準を人間は知ることはできない(救いは不可知)する考え。個々人というのがポイントである。人類全てが一気に救われているか呪われているかではなく、個々人それぞれに判定がある。

    POINT

    宿命論とは、意味・宿命論とは一般に、「 人間の境遇・行為・出来事などを含めて、世界のすべての事象は前もって定まっていて、人間の意志では変えることはできないとする説(日本国語辞典より引用)」を意味する。予定説の論理的帰結の可能性としては、こうした宿命論に帰結することもありえたという。要するに、救われているかどうか既に決まっているのだから、禁欲や信仰などやめて、享楽にひたって過ごしてしまおう、という態度もありえたのである。しかし、心理的帰結としてはそうはならなかったのである。ウェーバーによれば、プロテスタントの信徒たちは宿命論的な帰結を拒否することにより、自分が『選びそのものによって心を動かされ職務に忠実ならしめられた者」であることをみずから証しとするのだという。要するに、自分が神に選ばれており、また、選ばれているゆえに、神の使命として職業労働に忠実な人間なのだ、と自分自身に言い聞かせ、またそれを救いの確証とするのである。こうした心理的帰結は当時の人々が予定説によってとてつもない緊張感と孤立感の中で生きていて、その中でもなんとか不安を取り除こうとした結果生じた態度であったともいえる。

    予定説がもたらした人々の不安

    ・人間が現世で善行をしても、懺悔(ざんげ)をしても、聖礼典を行っても、すでに誰が救われるかは決定されているので、人間に自由意志はなく、救済には一切関わりがないとする立場。

    ・カトリックでは現世の善行や懺悔、聖礼典によって後天的に結果を変えることができるという立場であり、正反対である。プロテスタントではそうしたカトリックは「呪術的」であり、「非合理的」であり、「神強制」であると批判の対象になる。人間の分際で神に対して働きかけたり、神の考えを知ることはできず、できるのはただ信仰することのみという「神奉仕」の立場になる。こうした呪術的要素の排除を、ウェーバーは「脱魔術化」と表現した。ウェーバーによればこの宗教改革によって「脱魔術化」は完成したという。この「宗教の合理化」から宗教的要素を抜けば、合理化のみが残る。端的に言えばこれが資本主義の精神(合理的な生活態度)である(ただし、倫理的要素は保持されている)。

    ・「予定説」によって人々は内面的に孤立化し、緊張感と閉塞感が生じた。私は選ばれているのだろうか、選ばれていないかと不安になる。教会も友人も牧師も、そして神さえも救いの結果を変えることはできない。なぜなら、すでに決められているからである。

    ・我々現代の人には想像できないような、おそろしい影響を「予定説」は人々に及ぼしたという。科学もまだ発展していないので、人々は宗教と真摯に向き合っていた時代であり、自分が神に救われているかどうかは他のいかなる利害関心よりも優先されるような事項だったという。「私はいったい選ばれているのか、私はどうしたらこの選びの確信がえられるのか、という疑問がすぐさま生じてきて、他の一切の利害関心を背後に押しやってしまった」という。

    「この悲壮な非人間性をおびる教説が、その壮大な帰結に身をゆだねた世代の心に与えずにはおかなかった結果は、何よりもまず、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった。宗教改革時代の人々にとっては人生の決定的なことがらだった永遠の至福という問題について、人間は永遠の昔から定められている運命に向かって孤独の道を辿らねばならなくなったのだ。誰も彼を助けることはできない。牧師も助け得ない、──選ばれた者のみが神の言を霊によって理解しうるのだからだ。聖礼典も助けえない、──聖礼典は神がその栄光を増すために定め給うたもので、したがって厳守すべきだが、神の恩恵をうるための手段ではなく、主観的にただ信仰の》externa subsidia《『外的な補助』となるにすぎないからだ。また教会も助けえない、──真の教会に属しないものは神から選ばれた者ではないとの意味では》extra ecclesiam nullasalus《『教会の外に救いなし』の命題は妥当するが、しかし(外形上の)教会には神に却けられた者もまた属しており、彼らも、救いをうるためにではなくて──それは不可能だ──教会に属してその懲戒に服し、神の栄光のためにその立法を守らされねばならないからだ。最後に、神さえも助けえない、──キリストが死に給うたのもただ選ばれた者だけのためであり、彼らのために神は永遠の昔からキリストの贖罪の死を定めてい給うたのだからだ。このこと、すなわち教会や聖礼典による救済を完全に廃棄したということ(ルッタートゥムではこれはまだ十分に徹底されていない)こそが、カトリシズムと比較して、無条件に異なる決定的な点だ。世界を呪術から解放するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち、古代ユダヤの預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思考と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの呪術からの解放の過程は、ここに完結を見たのだった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、156-157P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「人間の行為を直接的に支配するものは,利害関心Interessen(物質的ならびに理念的)であって,理念Ideenではない。しかし,「理念Ideen」によってつくりだされた「世界像Weltbilder」は,きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し,その軌道の上で利害の力学が行為を突き動かしたのである。[MWGI/19:101=大塚・生松訳:58]」

    孫引きです。「マックス・ウェーバー全集」というものの中の、『宗教社会学論選』ですかね。三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(6)─」、56P。

    「地上の生活のあらゆる利害関心よりも来世の方が重要であるばかりか、むしろさまざまな点で一層確実とさえ考えられていた時代において、そうした教説を人々はどんなにして堪え忍んでいったのだろうか。かならずや信徒の一人びとりの胸には、私はいったい選ばれているのか、私はどうしたらこの選びの確信がえられるのか、という疑問がすぐさま生じてきて、他の一切の利害関心を背後に押しやってしまったにちがいない。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、172P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    カルヴィニズムとは

    1:純粋なカルヴァンの教義(予定説)では、いかなる方法によっても人間がその結果を変えることはできないし(救いは不可変)、どういう基準で選ばれるかを知ることはできないし、選ばれているかどうかを知ることもできない(救いは不可知)。どういう基準で選ばれているかわからないが、カルヴァン自身は「信仰」によって救いを確証できると考えていたし、本人は自分が救われると確証していた。

    2:「予定説」によって人々は「内面的に孤立化し、緊張感と閉塞感が生じた」→私は選ばれているのだろうか、選ばれていないかと不安になる。

    3:カルヴィニズムは純粋なカルヴァン自身の教説を引き継いでいない。なぜなら、カルヴァン自身に「(行為の)確証思想」はないからである。カルヴァンは行為を神に認められていることの徴しだとすることに強く反対している。ルターも同様に、そうしたものを行為主義として批判している。

    4:純粋なカルヴァンそのままの立場をカルヴィニズムは放棄することになった。この放棄された新しい立場を「カルヴィニズム」と呼ぶことにする。放棄された理由としては「牧会の実践が予定説から生じてくる内心の苦悶を絶えず問題にしなければならなくなったため」だとウェーバーは述べている。おそらく、一般信徒を指導する際に、確証思想が弱いと一般信徒の不安をなだめることができないといった実践的な問題が生じたのだろう。宗教指導者の考えと、一般信徒の考えの違いはとりわけ重要になる(なぜなら、ウェーバーが重要視するのは宗教が人々に与える作用だから)。

    カルヴィニズムにおける確証思想

    POINT

    確証思想とは、意味・「神の救い(簡単にいえば天国に行ける)」を確信できる方法があると考える思想。カルヴァン派などは「予定説」(だれが神に救われるかは人類の誕生前に個々に決まっていて、その基準を知ることも、その結果を知ることもできないという教説)の影響でこうした「確証思想」をつくりだしていった。カルヴァン派では「信仰」による内面的な確信や「職業労働」に励むという行為による確信の2つの方法がある(後者が中心となっていった)。確証思想は予定説を明確に否定している教派や(たとえば洗礼派など)、純粋な予定説の教義を受け継いでいない教派(たとえばピューリタニズムなど)でも共通しているというのがポイント。プロテスタンティズム諸派により共通している考え、中心的教義は予定説ではなく、確証思想である(さらに「天職思想」も同様に共通している)。

    整理

    1:カルヴァン自身は「神の救い」を(信仰によって)確信していた。信徒の「何によって自分自身の選びに確信をもちうるか」という問いに対しては、「真の信仰からキリストへの堅忍な信頼をもって満足しなければいけない」と回答した。

    恩恵が人間に堅忍な信仰を生み出し、その信仰が「救いの確信」を生み出すという回答。さらに、どういう信仰が堅忍な信仰か、有効な信仰かについての基準は「人間が知ることはできない」とした。

    一般信徒はこの回答では満足できなかった。カルヴァン派はこうした(純粋な)カルヴァンの立場を原理上は放棄しなかったが、実践の場では維持されていなかったという。

    2:カルヴィニズムにおいては、「救いの確信」について2つの立場がとられた。純粋なカルヴァンの教義では①のみが重視され、②は行為主義とされ批判の対象となったが、実践の場、多くの信徒の間では②こそ重要になっていった。②は外形的、客観的に分かりやすいからである(たとえば資産の数字が増えるというように)。

    「信仰(気持ち)」が「救いの確信」へとつながるという考え。

    誰もが自分は選ばれているのだとあくまでも考え、宗教上の誘惑(食欲、物欲、性欲等)を却け、自己確信のないことは信仰の不足の結果であり、恩恵の働きの不足だと考える。

    「行為(職業労働)」が「救いの確信」へとつながるという考え。

    自己確信を獲得するために最もすぐれた方法として、「絶え間ない職業労働」という手段がとられた。職業労働によって宗教上の誘惑が却けられ、救われているという確信へとつながると考えられた。

    確証思想と世俗内労働との関連

    ・カルヴィニズムがどうやって予定説の困難に対処したかについて、ウェーバーは2点にまとめている。第一に、「誰もが自分は選ばれているのだとあくまで考えて、すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥け、そうしたことを無条件に義務付けること」である。自分が選ばれていることに確信がもてないことは、信仰の不足の結果と考えられる。自分が選ばれていることに確信が持てれば、それは信仰が足りているのであり、また、恩恵の働きがあるということに結びつきつく。恩恵の働きがあるということは、死んだ後に神によって救われるということである。第二に、「自己確信を獲得するためのもっともすぐれた方法として、絶え間ない職業労働を教え込む」ということである。絶え間ない職業労働をすることによってのみ、宗教上の疑惑は追放され、救われているという確信が与えられると考えられた。以上のような「確証思想(キリスト教徒の救いをその職業労働と生活態度の中で確証するという思想)」はカルヴィニズムの中心思想である、とまでウェーバーは述べている。

    6:カトリックでは聖礼典(洗礼や聖餐)によって神の救済がもたらされるという考えがある。あるいは懺悔によって罰が免じられるようなこともある。こうした態度を批判したのが宗教改革であり、そうしてカトリックから別れた派閥がプロテスタントである。要するに、カトリックでも確証思想というものはあったのだが、その方法が呪術的(神使役的)であり、合理的ではなかったということである。プロテスタントでは基本的に神奉仕であり、人間側から神へと働きかけられるとは考えられていない。だからこそ、神の選びを変更することもできないし、神の選びの基準を知ることもできないという予定説がある。しかし、神の選びを変更することはできないにしても、自分が選ばれていることを確証することはできるのではないか、とプロテスタントは考えていく。どうやって確証するのか、という点についてはプロテスタント内部でも方法論として幾つかわかれている。

    たとえば、カルヴィニズムでは「キリスト教徒の救いをその職業労働と生活態度の中で確証するという思想」がある。職業労働がうまく行けば、自分が救われていると確証できるというわけである。うまくいった結果、救いの結果が変わったというのではない。どうして確証できるというのか、それは不合理ではないか、と率直に私は考えてしまう。しかし懺悔することによって罪が免じられたりするような呪術的な要素、人間が神へ働きかけるという要素よりは、神の救いの結果は変えられない、それを信じることしかできないという態度のほうが相対的には合理的にも思える。

    自分が救われているか否かという問いが全面に現れてきた限り、少なくとも、カルヴァン自身のように、恩恵が人間のうちに生み出す堅忍な信仰がみずからそれを確証するということを指示するだけですますことは、もはや不可能となってきた。もっとも、この点は正統的な教理のうえでは、少なくとも原理上形式には放棄されることはなかったけれども、とりわけ牧会の実践が予定説から生じてくる内心の苦悶を絶えず問題にしなければならなくなったために、カルヴァンそのままの立場を固守することなどできなくなったのだ。こうした困難に対処するため、さまざまな方法がとられた。そのさい、恩恵による選びの解釈を変更し、穏健化し、結局はそれを放棄するというのでない限り、とくに牧会上の、相互に関連しあう二つの類型の勧告が特徴的なものとして現れてきた。その一つは、誰もが自分は選ばれているのだとあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔の疑惑として斥ける、そういしたことを無条件に義務付けることだった。自己確信のないことは信仰の不足の結果であり、したがって恩恵の働きの不足に由来するとみられるからだ。このように、己の召命に『堅く立て』との使徒の勧めが、ここでは、日ごとの闘いによって自己の選びと義認の主観的確信を獲得する義務の意味に解されている。……いま一つは、そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法として、絶え間ない職業労働をきびしく教え込むということだった。つまり、職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる、というのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、178-179P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    神の栄光と確証思想の関係
    POINT

    神の栄光とは、意味・「栄光」とは一般に、キリスト教において神の顕現(けんげん)、臨在(りんざい)を現すときに用いる言葉である。顕現とは神がはっきりした姿で現れることであり、臨在とは見えない神がそこに存在することである。予定説においては、神は自分の栄光をはっきり示すために、ある人を救い、ある人を永遠の死滅に予定したという。そして人間が現世においてできることは神の栄光を高めることだけだという。神に選ばれたものだけではなく、選ばれなかったものも神の栄光を高めなければならないという。信仰や善き行為、ほかのあらゆる行為も救いの手段としてではなく、神の栄光を高めることのみに意味があるという。純粋なカルヴァンの教義においては、神の栄光を高めることは決して救いの結果を変えることではない。プロ倫では「神の自己栄化」と「神の栄光」はほとんど同じ意味合いで扱われている。

    1:現世におけるあらゆる出来事、行為は「神の栄光」を高める手段にすぎない

    2:信仰も労働も「神の栄光」を高める手段にすぎず、それらによって神の救いの結果が変わるわけではない

    3:カルヴァンは「有効な信仰」が神の救いの「確信」につながると考えたが、なにが有効な信仰かについては知ることができないとした。

    4:カルヴァン派(改革派)の一般信徒たちは、「有効な信仰」とは「神の栄光を高めるようなキリスト教徒の生き様であり、それらは聖書に書いてある」と考えた

    5:一般信徒たちは、禁欲や労働によって「有効な信仰」を意識し、それらが「救いの確信」につながると考えた。

    「『第三章(神の永遠の決断について)

    第三項 神はその栄光を顕さんとして、みずからの決断によりある人々……を永遠の生命に予定し(predestinated)、他の人々を永遠の死滅に予定し給うた(foreordained)。

    第五項 神は人類のうち永遠の生命に予定された人々を、世界の礎の据えられぬうちに、この永遠にして不変なる志向と、みずからの意思の見ゆべからざる企図と専断にもとづいて、キリストにあって永遠の栄光に選び給うた。これはすべて神の自由な恩恵と愛によるものであって、決して信仰あるいは善き行為、あるいはそのいずれかにおける堅忍、あるいはその他被造物における如何なることがらであれ、その予見を条件あるいは理由としてこれを為し給うのではなく、かえってすべて彼の栄光にみちた恩恵の賛美たらしめんがためである。

    第七項 神は自らの被造物に対する主権に栄光あらしめたるため、聖意のままに恵みをあたえ、あるいは拒み給う測るべからざる意思に彼の栄光にみちた義の賛美たらしめることを喜び給うた。』」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、146-147P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「あらゆる出来事は……ひたすらいと高き神の自己栄化の手段として意味をもつにすぎない。地上の『正義』という尺度をもって神の至高の導きを推し量ろうとすることは無意味であるとともに、神に至上性を侵すことになる。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、151-152P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「たとえば、神に捨てられた者がその運命の不当を訴えるとしても、それは獣類が人間に生まれなかったことを呟くのと同じだ。けだし、すべての被造物は越べからざる深淵によって神から隔てられており、神がその至上性に栄光あらしめるために別の決定をなし給わないかぎり、神のみ前にあってはただ永遠の死滅に値するだけなのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、153P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「聖礼典も助けえない、──聖礼典は神がその栄光を増すために定め給うたもので、したがって厳守すべきだが、神の恩恵をうるための手段ではなく、主観的にただ信仰の》eeterna subsidia《『外的な補助』となるにすぎないからだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、156P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「しかし(外形上の)教会には神に却けられた者もまた属しており、彼らも、救いをうるためにではなくて──それは不可能だ──教会に属してその懲戒に服し、神の栄光のためにその律法を守らされねばならないからだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、157P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    救いの確信ためになにができるか

    1:聖書に書いてあるような善なる行為は望ましい。悪なる行為は望ましくない。

    2:悪なる行為をしないためにどうすればいいか=禁欲をするためにはどうすればいいか。

    3:禁欲の手段として、職業労働は有効である。職業労働に励むことで、禁欲することができ、善なる行為を重ねることができる。

    4:さらに、職業労働は神の使命であり、神がよろこぶ行為であり、神の栄光を高めるような行為である。なにか具体的な手段としてではなく、神の栄光を増すため、神の救いを確信するための手段である。

    5:【プロテスタンティズムの倫理】(救いの確証の手段として)「天職思想」に基づく行為(職業労働)は神の栄光を増すため、救いの確証を得るための手段としては合理的な行為である。神の救いを信じない者や、行為を救いの手段と考えない者からすると非合理的に見えるが、当事者にとってはきわめて合理的な行為だった。

    ・神の栄光を増すような行為とはなにかの基準について、一般信徒は「聖書に直接啓示されている」と考えた(もちろん一般信徒に影響を与えたのは現場の牧師ではあるが)。つまり、聖書で善行とされているような行為を重ねればいい、聖書で禁じるべきこととされているような行為を避ければいいと考える。ルターの聖書翻訳には職業労働は神の使命であるのだから、従って職業労働も神の栄光を増すような行為となる。また、禁欲をするためにも職業労働は有用な手段となる。禁欲の内容は中世以前のものと重なってくる(ただし世俗外ではなく世俗内で実践されていくというのがきわめて重要、さらに生涯独身や私有財産の禁止といった中世特有の世俗外禁欲は重視されていないというのもポイント※超人的な要素が古代(殉職など)に比べてさらになくなっていく)。

    POINT:神の栄光を増すような行為(職業労働、禁欲的行為)をしても、「救いの結果」が変わるわけではない。しかし、「救いの確信」を得ることはできると考えられていた

    ・これは大きな違いだが、実質的には似ている。自分はあくまでも救われているという(明確な根拠がないから不安になる)前提に立ち、そのうえで確信するために行為し、その行為が救われているという確信を高めるのである(不安を少しでも行為によって取り除き、行為によって(救いの)根拠を生み出す)。

    ・ウェーバーの言葉で言えば、「カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを──正確には救いの確信を、と言わねばなるまい──『造り出す』(185P)」ことになる。

    6:【資本主義の精神】「神の救い(確証思想)」という要素がなくなってしまうと、「単に職業労働それ自体が目的である(職業義務思想)」、というような非合理に見える行為となる(具体的な生活の享楽の手段のために貨幣を増加させるわけでもなく、禁欲的な態度がある)。ただし、資本主義の精神においては職業労働それ自体が倫理的である、と無条件に理由もよくわからずにみなされている。職業義務思想をもっているが、なんのためにもっているかよくわからず、無条件に倫理的だ、善いことだという思想がある。

    7:【鉄の檻(硬い殻)】一度資本主義が発展した後では、競争に生き残るためには合理的な行為としても見えてくる。この段階では宗教的な要素に加えて、倫理的な要素すら失っており、倫理的だから職業労働それ自体、貨幣の増加それ自体を目的とするのではなく、そうした労働や貨幣の増加を目的とする態度が強制される段階である。要するに、プロテスタンティズムの倫理も資本主義の精神も失っているような状態である。職業義務思想をもたざるをえない。さらに倫理的に善いことというような心情(エートス)もない。

    「現世にとって定められたことは、神の自己栄化に役立つということ──しかもただそれだけ──であり、選ばれたキリスト者が生存しているのは、それぞれの持ち場にあって神の誡めを実行し、それによって現世において神の栄光を増すためであり──しかも、ただそのためだけなのだ。ところで、神がキリスト者に欲し給ふのは彼らの社会的な仕事である。それは、神は人間生活の社会的構成が彼の誡めに適い、その目的に合致するように編制されていることを欲し給うからなのだ。カルヴァン信徒が厳正においておこなう社会的な労働は、ひたすら》in majorem glorian Dei《『神の栄光を増すため』のものだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、166P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「が、カルヴァン派の信徒にとっては、この恐るべき緊張のうちに生きることは、とうてい免れがたい。また、何をもってしても緩和されえない運命だった。彼らはあの心地よい人間的な慰めをもたないだけでなく、カトリック信徒やルッター派信徒のように、弱さと軽はずみの中で過ごした時間を他の時間の高められた善き意志によって償うことも許されなかった。カルヴィニズムの神がその信徒に求めたものは、個々の『善き業(わざ)』ではなくて、組織(System)にまで高められた行為主義(Werkheligkei)だった。カトリック信徒たちの罪、悔い改め、懺悔、赦免、そして新たな罪、それらのあいだを往来するまことに人間的な動揺や、また、地上の罰によって償い、聖礼典(秘蹟)という教会の恩恵賦与の手段によって全生涯の帳尻が決済されるようなことは、カルヴァン信徒のばあいには全く問題にならなかった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、196-197P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「改革派教会や信団の内部でしだいに明瞭な形をとっていったこのような施策の過程を、ルッター派がくりかえし『行為主義』》Werkheiligkei《だと非難したことは周知のとおりだ。この非難は──攻撃された側が自己の教理上の立場をカトリックの教説と同一視されるのに抗議したのは正当だとしても──改革派の平均的信徒の日常生活に見られる実践上の帰結について言われるかぎりでは、たしかに正当である。というのは、道徳的行為を宗教的に尊重するにしても、カルヴィニズムがその信徒たちのあいだに作り出したものほど強烈な形は、おそらく他にはなかったからだ。しかし、この種の『行為主義』がもつ実践上の意味に関して決定的に重要なのは、何よりもまず、それに応ずる生活態度を特徴づけ、中世の平均的信徒の日常生活とまったく異なるものたらしめた、そうした独自な性質を識別することであろう。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、191P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「ところが、きわめて当然のことながら、彼の後継者たちは……とりわけ日常生活のうちにある平信徒の広い層のばあいには、それとは違っていた。彼らにとっては、救われていることを知りうるとの意味での》certiundo salutis《『救いの確信』が、どうしてもこの上なく重要なことになるほかなく、こうして、予定説を誇示した地方ではどこまでも》electi《『選ばれた者』に属しているか否かを知ることのできる確かな標識があるかどうかという問題が、無くてはすまされぬことになっていった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、173P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    功利主義的性格の起源、隣人愛

    1:フランクリンには功利主義的な要素が見られる(自己の利益のみを考える人物というより、最大多数の最大幸福に近いイメージ)

    2:こうした功利主義的な要素の起源は、カルヴィニズムにさかのぼるのではないか

    POINT:カルヴィニズムの功利主義的な性格の根源は「人類の実益」に役立つようなことが神の栄光を増すような行為であるということにある。したがって、そうした任務は職業という任務の遂行であり、事象的、非人格的、合理的なものとなる。なぜなら、この社会は神によって人類の実益のために役立つように合理的に出来上がっているのであると直観、あるいは聖書から読み取ることができ、こうした社会的秩序の合理的構成に役立つような労働は神の栄光を増すような行為であるとみなすことができる。

    ・個人的なメモとして、「個人」と「倫理」の”分裂”というのは記憶に残しておきたい。バーマンやベイトソン、レインにおける「ダブルバインド」や「引き裂かれた自己」についてなにか連結するところがあるかもしれない。後でチェックをしたい。できればキルケゴールも学んでおくこと(たしか「知と意味の位相」にウェーバーとニーチェに合わせて説明されていたはず)。

    ・ところで、個人と倫理が分裂するとはどういうことか。この要素についてはキルケゴールのときに学ぶことにする

    ・人生の意味についての疑問がピューリタンにとってはほとんどなかった、という点は個人的にすごく重要であると思う。なぜなら、多くの人間は人生の意味について時折考えることがあるからだ。もしこの意味について現代真剣に向き合おうとすれば、ニヒリズムに帰結してしまうことが多い。宗教はそういった帰結を心理的に回避するが、我々は仕事や趣味に没頭することで忘却しようとしている(ニーチェの熱狂財)。ピューリタンたちは「分裂」することはない。しかし、我々は「分裂」しがちではないだろうか(レインのように)。であるとすれば、その根源とはなにか(バーマンにつながる)。しかし超人になることは難しく(ニーチェ)、定言命法によって生きることも難しい(カント)。ではどうすればいいのか、つまり、ニヒリズムに陥らずに我々は生き生きと過ごすことができるのか。その解決策の方向性としてベイトソンや見田宗介につながっていくのだと思う。その分析の枠組としてはさらにルーマンを参照してみたい(まだ手を出せていない)。

    0:隣人愛はキリスト教における中心概念だといわれている。「なたは人々という子らに仕返しをし、恨みを懐いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」というレビ記19章18節の戒律に由来している。ピューリタンにとって神の栄光を高める行為は救いの確信へとつながり、隣人愛は神の栄光を高める行為のひとつであると考えられている。つまり、「人類の実益に役立つような行為」は隣人愛へつながるというのである。しかし特定の他者へのみ向かうような人格的な行為でも、非合理的な感情に基づいた行為でもなく、非人格的で合理的な行為であるというのがポイントである。なぜなら、特定の他者にのみ向けるような人格的な行為は、被造物への奉仕につながりうるのであり、神の栄光への奉仕につながらないと考えられる場合があるからだ。

    1:ルターによる「隣人愛」は「分業に基づく職業労働」から引き出される。ルターは「世俗内の労働こそ隣人愛の外的な現れであり、その根拠付けとして分業は各人を強制して他人のために労働させるから」だと考えた。つたしかに、分業というシステムは本人が望まなくても、システムとして他人に利するようになっている。野菜農家はコックのために働き、コックは野菜農家に食事を提供するために働いているように、他の人々を助ける行為を命令するようなシステムであるとも解釈できる。一人の人間が野菜農家もコックも肉屋も….というように兼ねていたら自分のためだけに働いていることになってしまう。

    →ウェーバーによればこうした「分業は各人を強制して他人のために労働させるから」というような根拠付は現実離れしていて、スコラ的であるという。スコラ的とはあまりいい意味ではなく、無用な、とか煩わしいといった意味で一般には使われる。要するに、ピューリタンのような倫理体系につながりうる根拠付けがなされていなかった解釈できる。

    →神の栄光につながる、神の使命であるといった要素は抜け落ちていってしまう。世俗内職業はすべて神の前では等しい価値をもつ、とルターは解釈するようになる。

    →世俗内義務の遂行こそが神に喜ばれる唯一の道であるとルッターは考えていくようになる(職業はすべて同じ価値をもち、社会の身分編成は神の意志であることを強調した。)。義務という点がポイント。その義務の範囲というのが、神の定めた編成秩序に沿った範囲で努力すればいいということになる。農家の息子は農家の枠組みの中で神の栄光を高めることが世俗内義務の遂行にあたり、聖職のほうが神の栄光を高めているだとか、もっとお金を稼げるような職業のほうが神の栄光を高めているだとか、もっと人類の実益に役立つような職業が神の栄光を高めるだとかいった思想はない。そしてこの人類の実益に役立つような職業が神の栄光を高める、という思想はピューリタンの功利主義的な側面において、そして天職思想において重要になる。

    2:ピューリタンによる「隣人愛」は「職業という任務の遂行」から引き出される。とりわけ、その遂行が「神の栄光への奉仕」につながるという倫理的な要素がみられる。

    →ピューリタンによれば世俗内職業は神の栄光をどれだけ増すことができるかという点が重要である。なぜなら、その量が救いの確信の大きさにつながるからである。ルターは「最大の業も最小の業も神の前で等しい価値をもつ」と考えたが、ピューリタンにおいては業が大きければ大きいほど、その分だけ神の栄光への奉仕の量も大きくなり、したがって神の救いの確信の大きさも増えていくことになる。

    →もし、1日1時間しか働かないものも10時間しか働かないものも、あるいはアルバイターも企業の社長もそれぞれの地位が神によって定められ、またそれぞれの業の価値は神の前で同じであるといったルターのような解釈するならば、禁欲的に世俗内職業に没頭し、ひたすら神の栄光を増大させていくような態度に発展してかなかったのだろうと解釈できる。つまり、アルバイターは神の定めた秩序だからそこに留まり、その地位の中で世俗内労働に励むというのではなく、もっと神の栄光を増大させることができるような職業を探し、努力し、そのために合理的な思考を重ねるべきだ、とピューリタンなら考えるのだと解釈できる。要するに、どの世俗的労働も神の栄光の増大としてみたら等しいなら、「モチベ上がらない」というわけではないだろうか。

    「それどころか彼は、世俗の職業労働こそ隣人愛の外的な現れだと考えたのだが、しかしその基礎付はおそろしく現実離れしたもので、とくに分業は各人を強制して他人のために労働させるということが指摘されていて……そして、どんな場合にも世俗内的義務の遂行こそが神に喜ばれる唯一の道であって、これが、そしてこれのみが神の意志であり、したがって許容されている世俗的職業はすべて神の前ではまったくひとしい価値をもつ、ということがその後指摘されつづけた。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、110-111P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「『すなわち、(神は)よろずのことに汝の手によって働き給うであろう。汝の手によって牡牛の乳を絞り給うであろうし、最も卑しい農奴にいかなる業をもおこない給うであろう。したがって最大の業も最小の業もともにひとしく神に喜ばれるものとなるであろう』(『創世記講解』)……農民の子ルッターやドイツ神秘家たちはすべての職業を相互に同じ価値をもつものとみて、社会の身分編成が神の意志であることを強調したのであって、そうした段階や評価など彼らの思いも及ばぬものだった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、113-114P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「われわれは、さきにルッターにおいて、分業にもとづく職業労働が『隣人愛』から導き出されるのを見た。しかし、彼のばあいにはまだ不確定で、構成材料にすぎない思想的萌芽に止まっていたものが、カルヴァン派においては、いまや、その倫理体系の特徴的な部分となるにいたったのである。『隣人愛』は──被造物ではなく神の栄光への奉仕でなければならないから──何よりもまず lex naturae(自然法)によってあたえられた職業という任務の遂行のうちに現れるのであり、しかもそのさいに、特有な事象的・非人格的な性格を、つまり、われわれを取り巻く社会的秩序の合理的構成に役立つべきものという性格を帯びるようになる。けだし、この社会的秩序の構成と編成はおどろくほど合目的的であって、聖書の啓示に照らしても、また生得の直観によっても、それが人類の『実益』のために役立つように出来上がっていることは明瞭だから、この非人格的、社会的な実益に役立つ労働こそが神の栄光を増し、聖意に適うものと考えられることになってくる。ピューリタンにとっては──その根源は全然違うにしても──ユダヤ人のばあいと同様、神義論の問題だとか、他の宗教がその解決に身をすりへらしたような人生と現世の『意味』についてのあらゆる疑問は、全く排除してしまうのが当然きわまることだった。……カルヴィニズムでは、宗教的なことがらについては一切が個々人の責任に委せられていたにもかかわらず、『個人』と『倫理』の分裂(ゼーレン・キュルケゴールのいう意味での)は存在しなかった。その理由、またカルヴィニズムの政治的および経済的合理主義にとってこの立場がもつ意味の究明は、ここでは問題としない。が、カルヴィニズムの功利主義的性格の根源はここにあったし、また[世俗的職業を神からあたえられた天職と考える]カルヴィニズムの職業観念の重要な諸性質もここから生まれてきたのだった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、166-167P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    神の容器と神の道具、有効な信仰

    ・ルターの天職思想(1):新しい語義+新しい思想をもう一度確認する。

    新しい語義には「世俗内労働は神の使命」という意味合いがあった。神の使命だということは、神に召命されているということであり、神が喜ぶことであると解釈することもできる。神が命じたような行為をすることは、有効な信仰へとつながると解釈され、有効な信仰は「救いの確証」へとつながると解釈される。

    ルターはこうした行為による「救いの確証」を批判し、また「神の使命」という思想も消えていったが、カルヴィニズム(他のプロテスタンティズムも同様)においてはそうした思想を受け継がれ、特に人々の間では中心的な思想となっていった。

    ルターが自分を「神の容器」であると考えたのに対して、カルヴィニズムは「神の道具」であるという考えが強い。神の使命である職業労働は神の道具として行為することであり、この行為が「救いの確証」につながると考えたのである。ルター派やルターの影響を受けた敬虔主義では「現世において神を感じること、神と一体化することによって救いを確証する」という傾向が強い(「神自身との神秘的合一」であり、宗教的行為(禁欲、労働)よりも宗教的体験が重視される。)。そのため、カルヴァン派のように主体的に禁欲などの行為をするのではなく、受動的に神を感じるという傾向が強い(禁欲の程度が小さくなる)。

    「宗教的達人が自分の救われていることを確信しうるかたちは、自分を神の力の容器と感じるか、あるいはその道具と感じるか、その何れかである。前者のばあいには彼の宗教生活は神秘的な感情の培養に傾き、後者のばあいには禁欲的な行為に傾く。ルッターは第一の類型により近かったし、カルヴィニズムは第二の類型に属していた。改革派の信徒もまた》sola hde《『信仰のみ』によって救われようと欲した。しかし、すでにカルヴァンの意見によっても、すべて単なる感情や気分はどんなに崇高にみえても欺瞞的なものであり、したがって信仰は『救いの確かさ』の確実な基礎として役立ちうるには、客観的な働きによって確証されねばならない。つまり、信仰は》hdes effcax《『有効な信仰』でなければならないし、救いへの召命は》effectual calling《『有効な召命』──サヴォイ宣言の表現──でなければならない。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、183-184P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    カルヴィニズムとピューリタニズムの違い:形式と実質

    ・カルヴァン派は後のピューリタニズムに比べると、形式より実質(内省)が重視される傾向がある(「行為するものはつねに良心をもたない。良心をもつのは観察する者のみだ」)。

    ・たとえばフランクリンは外面(形式)において信頼できると思われればよいという傾向がある。たとえば内面では人に対して悪意しかもっていなくても、外面では善良そうに見え、かつ善い行為をしているように見えればいう思想である(いわゆる「偽善」と思われるような思想)。現代で言えば、寄付活動は企業の信頼のため、信頼は利益につながるという理由が内面であり、外面的には自然を保護したいという「良心」をアピールする(内面は目に見えにくいが、カルヴァン派の場合はその内面こそが重要だった)。

    ・ピューリタニズムにおいても同様に、カルヴァンに比べると外面(形式)が重視される傾向があったという(クエーカー派などはとくにそう)。しかしフランクリンに比べると、あくまでも「神の救い」のためであり、「貨幣の増加」のためではなかった。カルヴァン派→ピューリタニズムの→フランクリンとつながる連続関係がここに見えてくる。

    「洗礼派、とくにクエイカー派のばあいに世俗内禁欲のとった、そして、やがて》Honestry is the best policy《『正直は最良の商略』というふうに定式化されるようになる、あの独自な形態が、すでに十七世紀の人々の目にも、資本主義『倫理』の重要原則の実践的確証だと映じていたことや、さきに引用したフランクリンの小冊子はそれの古典的な文献にほかならぬということが、分かってくるはずだ。これに対して、カルヴァン派の影響は、むしろ私経済的な営利のエネルギーを解放するという方向にあったというふうにわれわれは推論することになるだろう。というのは、『聖徒』たちは形式的にはまったく合法的だったけれども、結果として、『行為する者はつねに良心をもたない。良心をもつものは観察する者のみだ』というゲーテの言葉がカルヴァン派の信徒たちにとっても、きわめてしばしば妥当するのが見られたからだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、282P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「すなわち、ピューリタニズムのhonesty(正直)は形式主義的な合法性にほかならぬし、また同様にピューリタニズムの歴史をもつ民族が好んでみずからの国民的徳性と考える》uprightness《『誠実』は、ドイツ人の》Ehrlichkeit《『誠実』に比べてみると、独自な違いがあり、形式主義敵かつ内省的に変わっている。……ピューリタニズムの倫理の形式主義そのものは、律法への緊縛から生じた当然の結果にほかならない。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、284P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    4:プロテスタンティズムの倫理(禁欲的な生活態度)

    ピューリタニズムとは

    POINT

    ピューリタンとは、意味・16世紀後半にイギリス国教会に反対し、宗教改革を主張したプロテスタント諸派の総称。清教徒ともいう。カルヴァン派から教義を引き継いでいる。

    POINT

    ピューリタニズムとは、意味・ピューリタンの思想。清教主義ともいう。プロ倫におけるピューリタニズムは「禁欲的傾向をもった宗教上の諸運動」を意味し、綱領や教理の差異を問わない。したがって、独立派、組合教会派、バプテスト(洗礼主義)派、メノナイト派、クエーカー派などを含んでいる。

    「『ピューリタニズム』という概念の展開については……この語は本書では、どこで用いるばあいにも、十七世紀の一般の用語法とつねに同じ意味で使用する。すなわち、オランダおよびイギリスにおける禁欲的傾向をもった宗教上の諸運動で、教会制度上の綱領や教理の差違を問わない。したがって、『独立派』、組合教会派、パブティスト派、メノナイト派およびクエーカー派を含む。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、142P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    ピューリタンの歴史概要

    ・ピューリタンの歴史をざっくり学ぶ

    宗教革命(16世紀はじめ)後、イギリス(イングランド)ではカルヴァン派の影響により、エドワード6世によって1552年に宗教改革が行われたが、次のメアリー1世によってプロテスタントは弾圧され、カトリック教会の勢いが復活した。

    こうした改革の不徹底に不満だったプロテスタントのピューリタンたちが、国教会から独立し、さらに宗教革命を推し進めていった(ピューリタン革命、1639~1649年)。独立せずに国教会の内部で改革を行おうとしたプロテスタントの派閥が「長老派」であり、独立せずに分離した派閥が「バプテスト(浸礼派、洗礼派)」、「クエーカー」などである。ピューリタンの一部はアメリカ(マサチューセッツなど)へと渡っていった(1614年,ピルグリム・ファーザーズ)。そのマサチューセッツ(当時はイギリスの植民地)でベンジャミン・フランクリン(1706-1790年)が生まれたというのはポイントではないだろうか(ただし、フランクリンはピューリタンではなく、キリスト教徒でもない、理神論者)。

    王政復古(1660年)の後、ピューリタンは急速に勢いを失っていったという。衰退していたピューリタンの信仰を18世紀に復活させようとした派閥が「メソジスト」である。現在、アメリカで二番目に多い派閥とされている(一番目はバプテスト)。

    禁欲的プロテスタンティズムと古プロテスタンティズム
    POINT

    禁欲的プロテスタンティズムとは、意味・プロ倫においてはピューリタンであるリチャード・バクスターの思想がほとんど禁欲的プロテスタンティズムと重なるという。なお、ウェーバーは「古プロテスタンティズム」という用語を用いているが、この場合は「禁欲」という要素が小さい。

    POINT

    古プロテスタンティズムとは、意味・たとえばルターやルター派、そしてカルヴァンなどは「古プロテスタンティズム」に属し、ピューリタニズムをもつプロテスタント諸派は「禁欲的プロテスタンティズム」に属している。禁欲的プロテスタンティズムとの大きな相違点は、「禁欲」という要素の大小である。ルターやカルヴァンなどの純粋な教義のままでは禁欲という要素を発展させていくということは難しかった。実践の場において人々や牧師が「確証思想」と関連付けていくことで、禁欲という要素が大きくなっていったのであり、そうした意味でピューリタニズムが「禁欲的プロテスタンティズム」が最も代表的な存在となる。

    古プロテスタンティズムの精神における一定の特徴と近代の資本主義文化との間に内面的な親和関係を認めようとするならば、……純粋に宗教的な諸事情のうちに求めるより他はないのだ。」という箇所も極めて重要になる。たとえばルターやカルヴァンからすれば、「貨幣の増加を目的として労働をすることに意義がある、義務である、倫理的である、価値がある」という要素をもつ「資本主義文化」は極めて非倫理的で、当時のキリスト教徒においても敵対的な態度(恥ずべきこと、神の救いを危険にすること)をとられるような行為だったという。

    しかし、そうした資本主義文化と古プロテスタンティズムには親和関係があるというのである。敵対関係であると同時に親和関係でもあるということになる。これは合理的でもあり非合理的でもあるという解釈と似ている。ルターの天職思想(特に神の召命観が抜けた場合)やカルヴァンの予定説および信仰による確証といった「(古プロテスタンティズムの)宗教的な諸事情」はそのままの形では禁欲を生み出さなかったが、ピューリタニズムやカルヴィニズムが引き継ぐ形で「確証思想」と結びつき(天職思想2だけではなく天職思想1をまるごと)、それが「禁欲的な態度」を生み出すことで、つまり、「(禁欲的プロテスタンティズムの)宗教的な諸事情」とつながることで、「資本主義文化」と親和関係を認めることができるようになる、ということではないだろうか。

    もっとも、親和関係といっても、当時のピューリタンたちが貨幣の増加それ自体を目的とするような態度を倫理的に善いことであると思っていて、その意味で「資本主義文化」と親和関係があるということではない。ピューリタンたちが「確証思想」を通して「禁欲的な態度」を取っていった結果、資本主義文化の「合理的な態度」や「職業義務思想」を生み出すことになる、という意味で親和関係があるということではないだろうか。大塚さんの解説では、「選択的親和関係」とはいわば「相性」であるというような説明があった。資本主義の精神と近代資本主義企業の関係の場合は、「適合的」ということばが用いられている。

    ・たとえばダイエットを目的としているわけではなく、純粋に運動が楽しくて、それが倫理的に善いことなのでランニングをするとする。しかしランニングという行為は痩せるという行為と相性がいい。しかし本人はダイエットは悪いものと考えているかもしれないし、ダイエットを目的としているわけではない、というかもしれない。しかし結果として痩せるし、倫理的によいことなのでランニングも合理化され、効率化されていく。外面的には同じようなものである。おそらく、そうしたランニングに相当するものが禁欲的な態度であり、神の使命という要素が抜け落ちていったルターの教義や、行為を促す要素が乏しかったカルヴァンの信仰による確信はそうした「ランニング」をもたらすような起動力、起爆剤にならなかったのではいだろうか。そしてランニングをもたらすような起動力となったものが「確証思想」であるということであり、そうした文化は人々の間(特にピューリタンたち)で広がっていったといえる。稚拙なたとえをご容赦いただきたい。

    「倫理』第1章第1節で登場した「古プロテスタンティズム」という概念には,ルターも含まれていた。しかし,ルター及びルター派は「禁欲」は生み出し得ず,古プロテスタンティズムに含まれる他の教派と「禁欲」という点で区別されるのである。『倫理』第2章では,「古プロテスタンティズム」のなかでも,ルターの「職業」概念をあますところなく引き受けた禁欲的プロテスタンティズムが考察対象となるのだ」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(5)─」、65P

    「ルッター、カルヴァン、ノックス、フートらの古プロテスタンティズムは,現在われわれが『進歩』とよんでいるものなどとはおよそ無縁だった。今日もっとも極端な信仰をもつ人々さえ当然のことと考えている。そうした現代生活の全局面に対して、古プロテスタンティズムはまっこうから敵対的な態度をとったいだの。したがって、もしも、古プロテスタンティズムの精神における一定の特徴と近代の資本主義文化との間に内面的な親和関係を認めようとするならば、われわれはそれを、古プロテスタンティズムが(通常考えられているように)多少とも唯物論的なあるいは反禁欲的な『現世のたのしみ』を含んでいたというようなことにではなくて、むしろ古プロテスタンティズムのもっていた純粋に宗教的な諸事情のうちに求めるより他はないのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、33P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    リチャード・バクスターにおける禁欲的プロテスタンティズム、神によろこばれる職業
    POINT

    リチャード・バクスターとは、意味(1615~1691) イギリスのピューリタンであり、牧師。彼の説教はピューリタンの古典とされている。

    ・リチャード・バックスターの思想を中心にみていく。ウェーバーによればバックスターの思想は「”禁欲的”プロテスタンティズム」の総体として扱うことができるという。

    ・ウェーバーが重視するのは宗教指導者の教義ではなく、そうした教義が人々に与える作用である。エーティック(規範倫理)ではなくエートス(社会倫理)を重視するのと同じ。人々に直接的な影響を与えたのは純粋な神学者というより、実践の場の「牧師」だった。牧師はプロテスタントにおける教職の一つで、一般信徒を指導、伝導する立場にある。人々から「救いに関する不安」を日々相談される牧師が、人々にどのように説教したのか、というのがポイントになる。

    1:バックスターはカルヴィニズムの「予定説」の教義をそのままの形では信じなくなっていた。

    2:信仰のみが「救いの確証」へとつながるのではなく、「行為」によっても可能だとバックスターも考えた。そして「行為」とは「禁欲的行為」であり、その手段として「職業労働」が望ましいとされた。基本的にはカルヴァン派と同じ。

    バックスターには「労働意欲がないことは恩恵の地位を喪失した徴候」、「無精や怠惰は恩恵の地位を破滅させるもの」といったような「恩恵喪失」の考えも見られる(純粋な予定説の形を維持していない)。→さらに人々の不安を強め、禁欲や労働を促したと解釈することもできる。

    →後天的に救いが喪失されるというより、先天的にそもそも救われていないという印しに近い。「破滅」という表現からは、後天的に救いが喪失されるというイメージも感じる。こうしたことからも、純粋な「予定説」からは離れているように思える(純粋な教義では、救われているかどうかそもそも判断基準がわからない)。

    →恩恵を喪失しないように「何をすべきか、どうすればいいのか」と一般信徒は考えるようになる。恩恵を喪失していないとして、「どうやって恩恵が得られていることを確信できるのか」と一般信徒は考えるようになる。

    その具体的な「方法(メソッド)」が「禁欲」であり、禁欲は善なる行為であり、義務であるとみなされている。禁欲は有効な信仰へとつながり、有効な信仰は「救いの確証」へとながり、さらに恩恵を喪失しないことにもつながる。そして禁欲を有効的に行う手段として「労働」が位置付けされている。したがって、労働も(神の救いの確証のための)義務であるとみなされるようになる。

    3:バックスターは「神によろこばれる職業とはなにか」についても説教を行った。つまり、職業の有益さの基準を示したのである。

    道徳的基準、②生産する財の全体に対する重要度という基準、③私経済的収益性という基準

    ③が実践的には一番重要だったという。多額の利益は信仰の深さの結果である、と考えられるようになっていく。さらに、職業は兼業や変更も可能だとみなされている。①や②は他人を貶めたり、不誠実や不法な手段で収益をあげても神はよろこばないということである。この「全体に対する重要度」は功利主義的な側面(最大多数の最大幸福, 最も多くの人々に最大の幸福をもたらす行為を善とみなす立場,ベンサム)が見られる。

    POINT:利益を多くだすことは「目的」ではない。そうした態度(拝金主義)はむしろ神の救いを危うくするものである(こうした態度がフランクリンに見られることが重要)。禁欲のために世俗内労働をそれ自体を目的として励むことによって、結果的に「多額の利益」が生じた場合、それは「神の救いの印し」であると考えられたのである。バックスターは資本(富)は誘惑を生じさせるものであり、ひたすら投資に回すか、他に分け与えることが望ましいとしている。

    「禁欲的プロテスタンティズムの宗教的基礎観念と経済的日常生活の諸原則のあいだに存する関連を明らかにするには、なかんずく、霊的司牧(牧会)の実践から生まれてきたことの確かめられるような神学書を用いることが必要になってくる。なぜなら、来世がすべてであって、聖餐に参加できるかどうかがキリスト教徒の社会的地位を左右し、霊的司牧と教会規律と説教による聖職者の感化が──》consilia《『勧告』集や》casus conscientiae《『良心問題』集など一見しても分かるように──われわれ現代人にはもはや想像もできないほどの影響をおよぼした時代には、そうした霊的司牧の実践のうちに働いていた宗教的諸力こそが『国民性』の決定的な形成者だったからだ。さて、本節での論議のためには、あとで詳論するばあいとは違って、禁欲的プロテスタンティズムを一つの総体として取り扱うことができる。天職理念のもっとも首尾一貫した基礎付けを示しているのは、カルヴァン派から発生したイギリスのピューリタニズムだから、われわれの原則にしたがって、その代表的信徒の一人を考察の中心におこうと思う。リチャード・バックスター(Richard Baxter)は、その態度がすぐれて実際的かつ協調的であることと……」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、289P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「それゆえ、バックスターの主著には、肉体的にせよ精神的にせよ、厳しく絶え間ない労働への教えが繰り返し、時には激情的なまでに、一貫して説かれている。そこには二つの主題が絡み合って現れてくる。まず労働は、昔から試験済みの禁欲の手段である。……それは、とりわけ、ピューリタニズムが》unclean life《『汚れた生活』という観念で一括した一切の誘惑に対する独自な予防手段であり──しかもその役割は決して小さなものではなかった。……宗教上の懐疑や小心な自己責苦に打ち勝つためだけでなく、あらゆる性的誘惑に打ち勝つためにも──節食、菜食、冷水浴とともに──『おまえの[天職である]職業労働にはげめ』との教えが説かれたのだった」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、300-301P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「ところで、労働はそれ以上のものだ。いや端的に、何にもまして、神の定めたまうた生活の自己目的なのだ。『働こうとしないものは食べることもしてはならない』というパウロの命題は無条件に、また、誰にでもあてはまる。労働意欲がないことは恩恵の地位を喪失した徴候なのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、304P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「『不精』》sloth《と『怠惰』》idleness《は、持続的な性格をおびているからして、きわめて重い罪なのだ。バックスターはそれを端的に『恩恵の地位を破滅させるもの』と考えた。……まさしく方法的な生活の反定立なのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、305P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「そればかりではなく、職業の変更さえも決してそれ自身排斥すべきものとは考えられていなかった。ただ、それは軽率にではなしに、神にいっそうよろこばれるような天職を、つまり一般的な原則からすれば、いっそう有益な職業をえらぶものでなければならなかった。そのばあい、何よりも重要なのは、職業の有益さの程度を、つまり神によろこばれる程度を決定するものが、もちろん第一には道徳的基準、つぎには生産する財の『全体』に対する重要度という基準で、すぐに第三の観点として私経済的『収益性』がつづき、しかも、実践的にはこれがもちろんいちばん重要なものだった、ということなのだ。けだし、ピューリタンは人生のあらゆる出来事のうちに神の働きを見るのであって、そうした神が信徒の一人に利得の機会をあたえ給うたとすれば、神みずからが意図し給うたと考えるほかはない。したがって、信仰の深いキリスト者は、この機会を利用することによって、神の[天職への]召命[コーリング]に応じなければならない。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、310P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「バックスターのばあいには……富裕であるとしても、この無条件的な誡命から免れることはできない、という原則をこのうえもなく力説するようになっている。……けだし、神の摂理によってだれにも差別なく天職である一つの職業(calling)がそなえられていて、人々はそれを見分けて、それにおいて働かねばならぬ。かつ、そのばあい、天職はルッター派と異なって、人々が適従し甘受しなければならぬ聖慮ではなく、むしろ、神の栄光のために働けと個々人に対する誡命だったのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、306P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「『二重の決断』による神の予定説という教説をもはや厳密には信じなくなってからのバックスターの神学について……われわれにとって唯一の重要なことがらは、倫理的に見て予定説の決定的な点である個人の選びという教説に、バックスターがなおも固執しつづけているということだけだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、291P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    ピューリタニズムにおける禁欲的な生活態度:「何」を禁欲するのか
    POINT

    禁欲的な生活態度とは、意味:具体的には、「感情」、「激情」、「享楽」、「怠惰」、「快楽」などの「自然のままの人間様式」を禁欲する態度のこと。こうした禁欲的かつ合理的な態度は中世において世俗外でほとんど完成していた(ただし、中世における生涯独身や私有財産の禁止といったような禁欲は取り除かれていった)。ピューリタニズムにおける禁欲的な生活態度の一番の特徴は、それが世俗内で多くの人々によって行われていったということである。世俗内において人々によって積極的に禁欲的な態度がとられるようになったきっかけは「精神的系譜」を参照することになる。何度も繰り返しているが、ルターが世俗内労働を宗教的・倫理的に評価するきっかけをつくりだし、カルヴァンの予定説などを通してピューリタンたちが「(行為による)確証思想」へと発展させたことによって、人々が積極的に禁欲的な態度をとるようになっていったということである。

    禁欲的な生活態度

    先程の基準で考えると、より合理的な職業労働は、より多くの利益や全体に対する貢献をすることにつながる。経理を適当に行ったり、非効率的な労働をしていたら「私経済的収益性」は低くなり、救いの確証度も小さくなります。

    合理性、組織性、計算可能性などの要素は職業労働にとって必要不可欠なものとピューリタニズムでは特に徹底、一貫されていた。しかし究極的には、そうした合理性や組織性、計算可能性は「禁欲」のための手段である(そして禁欲は「神の救いの確信」のための手段となる)。合理性よりも禁欲という点に重点が置かれている(だから禁欲的な生活態度という名称で資本主義の精神における合理的な生活態度と区別する)。

    1:キリスト教的な禁欲的・組織的・合理的な生活態度はすでに「中世」にあった。→プロテスタンティズムが初めてキリスト教的禁欲を生み出したわけではない。この点で、世俗外的な修道士的禁欲と世俗内的な職業禁欲との内面的連続関係が認められている。また、(主観的には)禁欲が救いを確実にするという思想も既にあった。

    2:中世の禁欲的な生活態度は世俗外であるという点、プロテスタンティズムが生み出した近代の禁欲的な生活態度は世俗内であるという点が最も異なる。また、具体的に何を禁欲するかについても異なる。たとえば福音的勧告は特に重視されていなくなった(福音的勧告=結婚の否定・私有財産の否定など)。昔は修道院などの中で禁欲が徹底的に、規律的、合理的に行われていたが、そうした禁欲が日常的な世俗内に移され、さらに手段としては「世俗内労働」が用いられるようになった。こうした世俗内における労働こそ宗教的に価値があるという考えはルターが最初に創り出したものであり、それを引き継いだプロテスタンティズム諸派がさらに発展させ、禁欲的な生活態度を実践していったといえる。つまり、中世カトリックからルターへ、ルターからプロテスタンティズムへといったような連続関係がある。

    3:世俗内における禁欲はピューリタニズムにおいて救いの確信の手段となり、労働は禁欲のための手段となった。そのため、一般信徒は天職それ自体を目的として労働に励んだ。要するに、労働することは禁欲することと等しくなる。したがって、労働の究極的な目的は「救いの確信」ということになる。

    4:ピューリタニズムにおいて禁欲の対象となったのは「自然」である。具体的に禁欲が敵視したものは、「衝動」、「感情」、「激情」、「享楽」、「怠惰」、「快楽」、「幸福」などの人間の生来的な性質を指すものである。衝動的なもの、非合理的なもの、激情的なもの、主観的なものが禁欲の対象となっていった。そうしたものを避けるための手段として「労働」は有用だったのである。

    「キリスト教的禁欲…..しかし、西洋では、すでに中世においてその最高の形態は完全に、またいくつかの現象については早くも古代において、合理的な性格を帯びていた。東洋の禁欲僧生活──総体ではなく、一般的類型として──に対比して、西洋の修道士生活のもつ世界史的意義は、この点にある。……それは、自然の克服し、人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意志の支配に服させ、彼の行為を不断の自己審査と倫理的意義の熱慮のもとにおくことを目的とする、そうした合理的生活態度の組織的に完成された方法として、すでに出来上がっていた。そして、修道士たちを──客観的には──神の国のための労働者として訓育するとともに、それによってさらに──主観的には──彼らの霊魂の救いを確実にするものとなっていったのだった。こうした──能動的な──自己統御は、聖イグナティウスのecercitia(修練)のみでなく、およそ合理的な修道士的徳行の最高形態における目標だったように、ピューリタニズムの実践生活における決定的に重要な理想でもあった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、200-201P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「ところで、いま一度要約して言うならば、われわれの研究にとって決定的な意味をもつ点は、次のとおりである。どの教派においてもつねに、宗教上の『恩恵の地位』をば、被造物の頽廃状態つまり現世から信徒たちを区別する一つの身分(status)と考え、この身分の保持は──その獲得の仕方はそれぞれの教派によって異なるけれども──なんらかの呪術的=聖礼典的な手段でも、懺悔による赦免でも、また個々の敬虔な行為でもなくて、『自然』のままの人間の生活様式とは明白に相違した独自な行状による確証、によってのみ保証されうるとした。このことからして、個々人にとって、恩恵の地位を保持するために生活を方法的統御し、そのなかに禁欲を浸透させようとする起動力がうまれてきた。ところで、この禁欲的な生活スタイルは、すでに見たとおり、神の意志に合わせて全存在を合理的に形成するということを意味した。しかも、この禁欲はもはやopus supererogationis(義務以上の善き行為)ではなくて、救いの確信をえようとする者すべてに要求される行為だった。こうして、宗教的要求にもとづく聖徒たちの、『自然の』ままと異なった特別の生活は──これが決定的な点なのだが──もはや世俗の外の修道院だけではなくて、世俗とその秩序のただなかで行われることになった。このような、来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作りだしたものだったのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、286-287P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    ピューリタンと「資本形成」と「労働の生産性」と「資本主義」

    ピューリタンの禁欲的な生活態度の結果として「資本形成」が生じ、さらに「投資」とつながっていたが、それのみが「資本主義の発展」の原因ではない。また、仮にそうだとしても、プロ倫が明らかにしようとしていることではないし、また明らかにしたことでもない。それは、禁欲的な生活態度が「合理化」や「生産性」をもたらしたと説明しても同様である。あくまでも原因の一つにすぎない。それがなければ資本主義の発展はなかった、あるいは生成はなかったというような重大な原因かどうかは確かではない。そのような意味での重大な原因では「ない」と主張しているのではなく、「ある」とも「ない」とも主張していないのである。なぜならば、資本主義の発展の原因を突き止めることがプロ倫の主要課題でもないからである。ウェーバーいわく、プロ倫が書かれた時点でのそのような批判に対する解答は、「その点は知らない」である。

    ちなみにウェーバーは「(外面的な結果である)資本形成」より「(内面的な)経済的に合理的な生活態度」を重要視している。重要視というのは、人々に与えた影響が大きかった、あるいは資本主義の精神に与えた影響がより大きかったということだろう。また、天職思想は「資本主義の支柱」という表現をしているので、数ある原因のなかでもより重要な原因であることは示唆していると解釈できる(ただし、支柱がなくなった後、つまり宗教的根幹が消え失せたあとでむしろ資本主義が発展してることから、発展に直接的に必要というよりも、その起動力というニュアンスのほうが正しいか)。

    「……富を目的として追求することを邪悪の極地としながらも、[天職である]職業労働の結果として富を獲得することは神の恩恵だと考えられたからだ。そればかりではない。これはもっと重要な点なのだが、たゆみのない不断の組織的な世俗的職業労働を、およそ最高の禁欲的手段として、また同時に、再生者とその信仰の正しさに関するもっとも確実かつ明白な証明として、宗教的に尊重することは、われわれがいままで資本主義の『精神』とよんできたあの人生観の蔓延にとってこの上もなく強力な槓杆(こうかん)──(引用者)梃子と同じ意味──とならずにはいかなかったのだ。そして、先に述べた消費の圧殺とこうした営利の解放とを一つに結びつけてみるならば、その外面的結果はおのずから明らかとなる。すなわち、禁欲的節約強制による資本形成がそれだ。利得したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、その生産的利用を、つまりは投下資本としての使用を促さずにはいなかった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、344-345P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「このような天職として労働義務を遂行し、それを通して神の国を求めるひたむきな努力と、ほかならぬ無産階級に対して教会の規律がおのずから強要する厳格な禁欲とが、資本主義的な意味での労働の『生産性』をいかに強く促進せずにいなかったかはまったく明瞭だろう。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、360P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「ピューリタニズムの人生観は、その力が及びえたかぎりでは、どのようなばあいにも、市民的な、経済的に合理的な生活態度へ向かおうとする傾向──これが単なる資本形成の促進よりもはるかに重要なことはもちろんだ──に対して有利に作用した。そして、そうした生活態度のもっとも重要な、いや唯一の首尾一貫した担い手となった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、351P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「多くの『倫理』の「解説」は,概ねこの資本蓄積-資本投下の線をたどって,『倫理』でヴェーバーは禁欲が資本主義を生成させ発展させた歴史を描いたとする10)。そして,それは誤解どころか,まったく正しい理解であるかのように思い込まれてるようである。しかし,ここで少しだけ立ち止まろう。ピューリタンたちが資本蓄積-資本投下を行ったとして,それだけで資本主義が生成-発展したといえるのだろうか。ここで詳論はできないが,たとえば,ヴェーバーが『宗教社会学論集』の「序言」で,「近代の合理的資本主義的経営組織の二つの重要な発展要因」として挙げるのは,「家計と経営の分離」であり「合理的な簿記」である[MWGI/18:111=大塚・生松訳:16]。あるいはまた,ヴェーバーは,最晩年に行った『経済史』の講義で,近代資本主義が成立する一般的前提について,(1)自律的な私的営利企業による自由財産としての物的獲得手段(土地,装置,機器,道具など)の専有,(2)市場の自由,()合理的技術,(4)合理的法,(5)自由労働,(6)経済の商業化,を挙げている[MWGIII/6:19-20=黒正・青山訳(下):120-2]。近代資本主義が生成-発展するためには,経済主体が資本形成と資本投下を行うこと以外に,諸領域における諸条件の確立が必要なのである。」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(7)─」、70P

    資本形成がピューリタンに与えた影響:ジョンウェズリー
    POINT

    ジョン・ウェズリーとは、意味・1703~1791 メソジスト教会の創設者。プロ倫においてメソジストはピューリタニズムに属する。メソジストは予定説の考え方を受け継いでいない。ただし、確証思想や禁欲的な態度をとるべきという要素は他の多くのプロテスタント諸派と共通している。たとえば利得や節約は(それ自体を目的としていない限り)、神の恩恵を増大させると主張している。要するに、救いの確信の増大である。

    ・ウェズリーは確証のため、神の栄光のために禁欲的・合理的な態度を通して人々が世俗内労働や生活を送ると、結果として「富」が蓄積し、その富が増えるごとに、宗教の実質が減少することを投げている。

    ・富(財産、資本)が増大すると、宗教の形はのこるが精神は消えていくと主張してる。これはプロ倫ではきわめて重要な要素である。なぜなら、この宗教の精神が消えた結果、残った生活態度が資本主義の精神の合理的な生活態度だからである。

    ・ウェズリーはそうした宗教の精神を絶えさせないため、資本(財産)は「できるかぎり他に与えよ」と勧告している。ただし、ウェーバーによれば「富の『誘惑』のあまりにも強大な試煉に対して全く無力だった」らしい。つまり、宗教の精神を絶えさせないことと、資本が絶えず増加していくことを両立させることは難しかったということである。

    ・宗教の精神が抜け落ちた後は、フランクリンにみるように、禁欲的・合理的生活が倫理的によいだとか、職業はそれ自体を目的としているだとか、資産の増加それ自体が目的である、というようなそういった形(外面)だけが残る。そしてピューリタニズムにあった功利主義的性格(たとえば、できるだけ人類の実益に役立つような行為が神の救いのためには望ましい)は、神の救いという部分が抜け落ち、「できるかぎり人類の実益に役立つような行為は倫理的によい」というようにすり替わっていく。

    ・さらにそこから倫理的なものが抜け落ちていけば、それは「精神のない専門人、心情のない享楽人、無のもの」になっていくのではないか。

    ・現代では合理的・組織的な経営は利益を増大させることを目的としているし、そうしない経営は落ちぶれるのであり、そうせざるをえない(能動的ではなく、強制的、受動的である)。

    当時のピューリタンは合理的・組織的・規律的・禁欲的な経営を能動的に行っていった。自らそうしたいから、すすんで合理的な生活態度を送ったのである。しかし現代人はそうせざるをえない。これは大きな違いであり、その最も大きな違いが「宗教的な要素」であり、「救いの確証」である。フランクリンの場合は現代人に比べると(理念型的には資本主義のシステムとは無関係なので)自らすすんで合理的な生活態度を送っているが、なぜそれをしているのか、宗教を明確に意識することなく、無条件的に倫理的だと考えている。

    フランクリンのケースにおいて、形の上では、子孫のために貨幣の増加を目的としている(自分の個人的な消費の手段ではない)と答えるかもしれないが、それだけでは(徹底した禁欲的・合理的生活態度の)説明がつかない。そうした子孫のためという究極的目的の手段としての貨幣の増加は中世以前からすでに存在していた(中世以前は世俗内禁欲が徹底されていない)。妥当な説明となるのは、やはり「宗教的な要素(確証思想)」になる。そしてその系譜の根源には「天職思想」がある。これが精神的系譜。

    「ピューリタニズムの生活理想が、ピューリタン自身も熟知していたように、富の『誘惑』のあまりにも強大な試煉に対して全く無力だったことは確実である。……これはまさしく、世俗内的禁欲の先駆者、すなわち中世修道院の禁欲が繰り返し陥ったのと全く同じ運命だった。修道院のばあいにも、厳格な生活の規制と消費の抑制がおこなわれて、合理的な経済の運営がその作用を完全に発揮するようになると、獲得された財産は──教会分裂前にはそうだったように──直接貴族化の方向に堕していくか、でなければ修道院の規律が崩潰の危機に直面して、いくたびも『改革』の手が加えられねばならなかった。修道会の会則の全歴史は、ある意味の居て、まさしく所有の世俗化作用という問題とのたえまに格闘にほかならなかった。ピューリタニズムの世俗内禁欲のばあいにも、それと同じことが壮大な規模で起こったのだ。十八世紀末葉におけるイギリス産業の興隆にきわだって見られた、あのメソジスト派の『信仰復興(リヴァイヴァル)』は、まさしくそうした修道院の改革に対比することができる。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、351-352P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「ウェズリーは次のように記している。『私は懸念しているのだが、富の増加したところでは、それに比例して宗教の実質が減少してくるようだ。それゆえ、どうすればまことの宗教の信仰復興を、事物の本性にしたがって、永続させることができるか、それが私には分からないのだ。なぜかといえば、宗教はどうしても勤労(industry)と節約(fugality)を生み出すことになるし、また、この二つは富をもたらすほかはない。しかし、富が増すとともに、高ぶりや怒り、また、あらゆる形で現世への愛着も増してくる。だとすれば、心の宗教であるメソジストの信仰は、いまは青々とした樹のように栄えているが、どうしたらこの状態を久しく持ちつづけることができるだろうか。どこででも、メソジスト派の信徒は勤勉になり、質素になる。そのため彼らの財産は増加する。すると、それに応じて、彼らの高ぶりや怒り、また肉につける現世の欲望や生活の見栄も増加する。こうして宗教の形は残るけれども、精神は次第に消えていく。純粋な宗教のこうした絶え間ない腐敗を防ぐ途はないのだろうか。人々が勤勉であり、質素であるのを妨げてはいけない。われわれはすべてのキリスト者に、できるかぎり利得するとともに、できるかぎり節約することを勧めねばならないが、これは結果において、富裕になることを意味する』(これにつづいて『できるかぎり利得するとともに、できるかぎり節約する』者は、また恩恵を増し加えられて天国に宝を積むために、『できるかぎり他に与え』ねばならぬ、という勧告が記されている。)──これは、見られる通り、どの一つをとってみても、すべて我々が解明してきたことがらにほかならない。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、352-353P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「こうした強力な宗教運動が経済的発展に対してもった意義は、何よりもまず、その禁欲的な教育作用にあったのだが、ウェズリーがここで言っているとおり、それが経済への影響力を全面的に現すにいたったのは、通例は純粋に宗教的な熱狂がすでに頂上をとおりすぎ、神の国を求める激情がしだいに醒めた職業道徳へと解体しはじめ、宗教的根幹が徐々に生命を失って功利的現世主義がこれに代わるようになったとき……」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、355P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    5:資本主義の精神

    資本主義と近代資本主義

    POINT

    資本主義とは、意味・ある程度組織的に行われる金儲け、暴力を伴わない経済的な営み。こうした広義の資本主義は古代にも、どの地方にも存在した。

    POINT

    近代資本主義とは、意味・近代になって西ヨーロッパにはじめて生じた資本主義の形態。その特徴には、簿記を土台として営まれる合理的な産業経営など、「合理性」が重要な要素となる。ここまで徹底した合理的な利潤追求の営み(職業義務思想+合理的な生活態度)は近代になってはじめて大量現象として現れたという(特定の誰か一人の個人の文化意義ではなく、大量現象としての一般文化意義、社会理念として現れた。多くの人がそうするべきだと、そうすることが倫理的だと考えた)。

    ・プロ倫における資本主義は、近代資本主義を意味する。→資本主義の精神とは、近代資本主義の精神を意味する

    ・近代資本主義はフランクリにみられるような倫理的な色彩をもつような資本主義を意味する。

    ・イメージとしては、近代資本主義が完成するというよりも、完成にむかって突き進めて行き始めたときの精神のほうが近い。なぜなら、近代資本主義が完成(硬い殻が完成)すると、倫理的な色彩は必ずしも不可欠な要素とはならないからである。たとえばアメリカでは現代において、宗教的だけではなく、倫理的な色彩も抜け落ちたスポーツ感覚に近い側面があるという。もっとも、資本主義はウェーバーの時代においても発展途中であり、完成はしていない。”近代”資本主義としては完成し、さらに違う”現代”資本主義が発展していっているというようなイメージとして私は解釈している。そして我々が現在生きているのは近代資本主義の枠組みではなく、現代資本主義の枠組みであるということである。

    ・要するに、資本主義秩序が完成する起動力として宗教的が残しっていった形式だけの醒めた職業道徳というエートス(資本主義の精神)が必要不可欠だったということである。そしてこの資本主義の精神(もちろん構成要素の一つ、合理的な生活態度)を生み出したのが宗教的な要素であり、プロテスタンティズムの倫理(もちろん構成要素の一つ、キリスト教の禁欲精神)だったというわけである。

    「およそ金儲けの営み、あるいはある程度組織的におこなわれる金儲け、商業であろうと金貸しであろうとその他何であろうと、暴力を伴わない経済的な営みであれば、彼はそういうものすべてを広い意味で『資本主義』と呼びます。そして、こういう広義の資本主義ならば、世界史の曙からどの国どの地方にもみな存在した、と言うのです。じっさい商業や高利貸しについては、『旧約聖書』をはじめ内外の古い文献のなかにも、容易にさまざまな記述を見つけることができるでしょう。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、389P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版) ※大塚さんの解説部分

    「フッガーの場合には商人的冒険心と、道徳とは無関係の個人的な気質の表明であるのに対して、フランクリンの場合には倫理的な色彩をもつ生活の原則という性格をおびている。本書では『資本主義の精神』という概念を、このような独自の意味合いで使うことにしようと思う。また、その場合、資本主義が近代資本主義であることは言うまでもない。なぜなら、本書で論じようとしているものがもっぱらこの西ヨーロッパおよびアメリカの資本主義だということは、問題の立て方に照らしても自明なことだからだ。『資本主義』は中国にも、インドにも、バビロンにも、また古代にも中世にも存在した。しかし、後に見るように、そうした『資本主義』にはいま述べたような独自のエートスが欠けていたのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、45P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    資本主義の精神と理念型

    POINT

    理念型(歴史的個体としての)とは、意味・ある特定の時代のある歴史的事実のなかから、本質と考えられる要素が選り抜かれ、極度に単純化された概念として構成されたもの

    POINT

    (暫定的な)資本主義の精神・資本主義の精神の個体的特性が成り立つために有意義であるような構成要素として、主に「職業義務思想や「合理的な生活態度」が挙げられている。ウェーバーの暫定的な定義によれば、「正当な利潤を天職として組織的かつ合理的に追求するという心情」である。結末から振り返れば、「プロテスタンティズムにあったような宗教の精神が抜け落ち、世俗内職業労働や禁欲が無条件的に倫理的に善いものであると考えられ、かつそれが義務であるとみなされ、かつそれらが組織的、禁欲的、合理的な生活態度を通して追求されているという精神」である。端的に言えばプロテスタンティズムの倫理から宗教の精神が抜け落ちていったものである(もちろん資本主義の精神の構成要素には他のものもたくさんあるが、プロ倫の文脈としてはこれらの要素が重要になる。)。

    POINT:「資本主義の精神」も「プロテスタンティズムの倫理」も理念型であり、単純に定義することは難しい。ウェーバーは暫定的に定義しておくだとか、他の観点からも定式化することができる、といったような説明をしている。

    つまり、違った価値理念から理念型が作られる場合もありうるのである。たとえば倫理的な要素ではなく、単純に経済的要素のみにしぼって資本主義の精神がつくられたり、フランクリの要素が選び出されたりすることもありうる。同じような価値理念、同じような目的のために作られた理念型であっても、もっと適切に個体的特性を構成できるような方法というもの別にありうる。どれが正解かというものはなく、どれが矛盾なく構成されているか、どれだけ有用なのかといったような論理的なレベルでしか正誤を判定することは難しい。また、すべての要素、全ての相互作用を加味した上で、その平均化を行って一般化として定義することもまた困難である(有限な人間には無理)。

    ある時代の、ある地域にのみ適応しうるような個体化概念、歴史的個体、特殊概念であるからこそ有用度が高いのである。もちろん、別の地域とその差異、偏差を索出することは有用な場合もある(たとえば、西洋では~だが、日本では~だ、その違いを生んだのは~か?と索出していく。しかし、日本においてもプロテスタンティズム倫理に該当するような倫理があるはずである、と無理やり理念型を用いることは不適切である)。

    パーソンズで学んだ「個体化概念としての理念型」ですね。要するに、ある特定の時代のある歴史的事実のなかから、本質と考えられる要素が選り抜かれ、極度に単純化された概念として構成されたものです。端的に言えば「フィクション(虚構)」です。そもそも選り抜かれている時点で捨象されるものがあるということであり、実在そのものの反映ではありません。たとえばリンゴという概念も、リンゴそのものは実在していないので理念型と同じです。しかし理念型はリンゴのような概念(類概念といいます)とは違い、平均や共通項、一般化ではなく、概念を構成するものの価値理念(ようするに知る価値があるとみなされるケース)によって選り抜かれ、矛盾なく構成されたものです。類概念に対して、類型概念といいます。

    たとえば禁欲的なプロテスタントは当時の多数派でもなく、むしろ少数派だったそうです。しかし、ウェーバーの関心は「宗教がどのように人間に作用したのか」という点であり、その関係で、プロテスタントの特異的な部分、本質的な部分を一面的に「誇張(こちょう)」、要するに「大げさに」概念化したというわけです。重要ではない部分も全部取り出して概念化すると、かえってわかりにくいわけです。というより、全部取り出すことは難しい(カオスになりがち)。キリスト教とはなにかを定義するということがいかに難しいいかでわかります。結局、キリスト教の教義やらなんやらとった特徴的、本質的、一面的な要素を選り抜いて理念型として構成する必要が出てくるわけです。

    問題はどうやって選り抜くか、ですよね。なにが本質なのかは選り抜く本人の価値理念(知るに値する事実を選択する究極の基準)によって決まります。たとえば経済に価値があると考えた人は経済と関連した要素が選り抜かれていくでしょうし、宗教に価値があると考えた人は宗教と関連した要素が選り抜かれていくでしょう。ウェーバーいわく、理念型には正解というものがなく、何通りも考えられるそうです。正解がないとはいっても、選り抜かれた要素が価値理念と矛盾がないように、また選り抜かれ要素同士が矛盾なく関係づけられている必要があります。

    詳細は理念型についての記事で説明しています。

    【社会学を学ぶ】マックス・ウェーバーの「理念型」とはなにか(概略編)

    たとえば次の項目で「ベンジャミン・フランクリン」が具体的な例示としてあげられています。ここから、本質と考えられる要素が選り抜かれていくわけです。もちろん、ベンジャミン・フランクリンの例示からすべての本質が選り抜かれていくわけではなく、他の具体的な例示から選り抜かれていくこともあります。

    (以下、動画の説明も記載しておきます)

    ・資本主義の精神を定義することは難しい。なぜなら、資本主義は「理念型」だからである。「プロテスタンティズムの倫理」も同様に「理念型」である。ただし、「交換」などの概念は単なる共通の要素を選り抜かれた「類概念」であり、理念型(類型概念)ではない。

    ・(歴史的個体としての)理念型:ある特定の時代のある歴史的事実のなかから、本質と考えられる要素が選り抜かれ、極度に単純化された概念として構成されたもの。端的に言えば「フィクション(虚構)」。そもそも選り抜かれている時点で捨象されるものがあるということであり、実在そのものの反映ではない。かといって、平均や共通項、一般化ではなく、概念を構成するものの価値理念(知る価値があるとみなされる基準)によって選り抜かれ、矛盾なく構成されたもの。ウェーバーは近代における合理的な生活態度の精神的系譜を知る価値があると考えた(価値判断)。その上で、その系譜の因果関係を明らかにしようとした(事実判断)。※もっとも、プロ倫における因果的な説明は差異法というより共変法(文化の比較というより、同じ文化における変化の違い)に近く、この時期ではまだ因果的な説明の方法(差異法、比較対照試験)が徹底されていない。

    ・人間の内心がそのまま模写できるように客観的に理解できるわけではなく、あくまでも「客観的可能性判断」を高める作業にとどまる。佐藤俊樹さんの言葉でいうと、「準客観性」である。要するに、観察者の側から妥当な推測によって理解を高める作業である。ウェーバーは社会学を、解明的に理解しつつ、因果的に説明するものと定義している(理解社会学といわれる)。

    そして、事実判断と価値判断を峻別するべきであるというウェーバーの考え方を、「価値自由」という。価値理念を前提としてることから、社会学者は価値判断を避けることはできないが、この価値理念を明確に意識しつつ(あるいは明確に表明し)、事実判断と混同しないようにして責任を持つことをウェーバーは重視した。価値判断をするな、という話ではない。

    ・理念型はあくまでも事実判断のための道具(フィクション、価値判断に基づくもの、限定性をもつもの)であり、これを客観的事実そのものだと「実体化」することも、そうするべきだと「理想化」することも、すべての現象に応用可能だと「一般化」することも望ましくない(それに対して一般概念のみを社会学者は作成するべきだと主張したのはタルコット・パーソンズ)。

    ・たとえば名探偵コナンの理念型を「眼鏡と蝶ネクタイ」という2つの要素で選りすぐることができるとする。しかし眼鏡と蝶ネクタイで全てのコナンの要素が反映されているわけではない。しかし、分析の手段においては有用になりうる。このケースの場合「見た目」が知るに値するという価値理念が前提におかれていることになるとする。他の人からすれば、「見た目は子供、中身は云々」という内面的な要素から構成されるかもしれない。

    ・理念型に正解などなく、人間ごと、時代ごとに変遷する価値理念によって、その概念形成も遷移する。ただし、理念型が矛盾なく構成されているか、各々が選んだ価値理念と一貫性があるかはある程度客観的な正解がある。先代の理念型の矛盾を指摘したり、新しい時代においては有用性が低いと指摘して新しい具体例を元に理念型を作り出していくこと、乗り越えていくとことも学問の目的のひとつである。ただし、価値理念そのものが正しいかどうかには触れることができない(一切証明できず、信仰の問題になる)。たとえば命は維持されるべきだと考え、自殺の理念型を作り出していく場合、そもそも命は維持されるべきという価値理念は学問によって論証することはできない。資本主義の精神は明らかにされるべき、というのも価値理念からくるものであり、価値判断である。社会学者の多くは社会の現象を「知るに値する」と信仰している(ウェーバーも)。

    ・ウェーバーは具体的な事例を暫定的に示して、理念型としての「資本主義の精神」を説明するという方法をとる。その事例として選ばれたのが「ベンジャミン・フランクリン」。

    要するに、ベンジャミン・フランクリンの事例は資本主義の精神という理念型を構成する要素のひとつにすぎない。しかし、この要素のひとつがプロ倫にとって決定的に重要。

    ・ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理の要素のひとつ(禁欲精神)が資本主義の精神のひとつ(合理的な生活態度)を生んだことを説明したかった。そのために全てのプロテスタンティズムの倫理や全ての資本主義の精神を明らかにする必要はない。特に宗教が経済に与えた限定的な要素の関係さえ明らかになれば十分なのである。

    ・「(すべての)資本主義の精神」は「(すべての)プロテスタンティズムの倫理」が生み出したものだとか、「(すべての)資本主義の精神」は「(ひとつの)プロテスタンティズムの倫理」が生み出したものだとかいうことを証明したいわけではないのである。むしろそうした理解はバカげたものであるとウェーバーは批判している(宗教革命の前に資本主義の精神の他の要素はあった)。

    「この研究の表題には、『資本主義の精神』というやや意味深げな概念が使われている。この言葉はいったい、どういう意味に解すべきなのか。『定義』というべきものをあたえようとすると、われわれはただちに、研究目的の本質に根ざすある種の困惑に直面することになる。およそ、このような名称の使用が何らかの意味をもちうるような、そうした対象が見出されうるとすれば、それは必ず一つの『歴史的個体』》historisches Individum《でなければならない。すなわち、歴史的現実のなかの諸関連をそれの文化意義という観点から概念的に組み合わせて作り上げられた一つの全体というか、そのような歴史的現実における諸関連の一つの複合体、つまり『歴史的個体』でなければならない。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、38P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「ところで、このような歴史的概念は内容的に見て、その個体的特性が成り立つために有意義であるようなそうした現象にかかわるものだから、……歴史的現実のなかから得られる個々の構成書要素を用いて漸次に組み立てていくという道をとらなければならない。……定式化は、究明の過程を経てはじめて、しかもその主要な成果として提示することができるのだ。……われわれが今とろうとしている観点……が、ここで問題としている歴史的現象を分析するために唯一可能な観点だというのでも決してない。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、38-39P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「監視社会の問題を考察するために,G.オーウェルの小説『1984』から理念型を構成してみせることは,それが小説という「空想」に過ぎないから「何の意味も無い」と断じていいだろうか。ある種の力を物体や記号が保持,象徴することを端的に理解させるために,テレビ番組『水戸黄門』で使われる「水戸黄門の印籠」を理念型として提示することは,実証研究のあきらかにする「実際」の水戸光圀とかけ離れた「空想」にすぎないから「何の意味も無い」といえるのだろうか。「資本主義の「精神」」の説明のための有益な手がかりとして,キュルンベルガーの小説『アメリカにうんざりした男』に登場するフランクリンを理念型として提示することは,専門研究があきらかにした「実際」のフランクリンとかけ離れた「空想」にすぎないから「何の意味も無い」のだろうか。」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(3)─」、38P

    「さきにベンジャミン・フランクリンの例に見たような、正当な利潤を》Beruf《『天職』として組織的かつ合理的に追求するという心情を、われわれがここで暫定的に『(近代)資本主義の精神』と名付けるのは、近代資本主義的企業がこの心情のもっとも適合的な形態として現れ、また逆にこの心情が資本主義的企業のもっとも適合的推進力となったという歴史的理由によるものだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、72P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    ベンジャミン・フランクリンと資本主義の精神

    ベンジャミン・フランクリンとは
    POINT

    ベンジャミン・フランクリンとは、意味(1706~1790年)アメリカの政治家であり、物理学者。「フランクリン自伝」によって知られており、アメリカ合衆国建国の父ともいわれている。「フランクリン自伝」が出版されたのは彼の死後である。彼自身はどの宗派にも属さず、理神論者(神は認めるが、聖書などに伝わっている神を認めない立場)だったという。また、カルヴィニズムにも否定的だったらしい(予定説などは理解不能とまで言っている)。

    意図的な孫引き:『アメリカにうんざりした男』

    POINT:ウェーバーはフランクリンのことばを原典から引用したのではなく、意図的に孫引きしている。どこから引用したかというと、フェルディナンド・キュルンベルガーの小説である『アメリカにうんざりした男』(1855)。

    『アメリカにうんざりした男』という小説内の引用は、キュルンベルガーがフランクリンの言葉を「再構成(要約)」したものらしい。つまり、ある要素が選り抜かれ、ある要素は捨象されている。

    →プロ倫の文脈においては理解に最も適しているというわけである。したがって先程述べた「資本主義の精神の要素のひとつ」の理解には最も適しているということになる。

    →「フランクリンの精神」を明らかにすることを目的としているなら、原典から引用する必要がある。しかしウェーバーの目的は「資本主義の精神」を明らかにすることなので、意図的に選りすぐられた孫引きを引用する必要があった。フランクリンはもっと善いことも言っているし信仰深い、そんな人じゃない、意図的に誇張されているという批判は的外れとなる。コナンは「メガネと蝶ネクタイが特徴的である」という言明に対して、名探偵という要素もあるじゃないか、と言っているのと同じ。外見という特定の関心からすれば、名探偵という要素は重要ではなくなる。全ての性質を取り入れる必要はない。

    POINT:ウェーバーが引用したフランクリンには直接的な「宗教的要素」も「資本主義経済」とも関係がない、純粋な資本主義の精神の事例であり、本質のひとつにすぎない。この点は誤読に繋がりやすいので注意する必要がある(フランクリンの事例に宗教的な要素や資本主義経済の要素を勝手に読み込みがちな傾向がある)。

    ・勝手にフランクリンに宗教的要素や資本主義経済を読み込んではいけない。もっとも、資本主義の発達前に、資本主義の精神はフランクリンのの生地(マサチューセッツ)で存在していることからもそうした読み込みは誤りだとわかる。

    ・既に資本主義経済が発達した地点から読み込むことも、かつて宗教的精神があった地点から読み込むことも、予断につながり、したがって資本主義の精神の理解の誤読につながる。事実がどうというより、概念(フィクション、理念型)としてはそれらと無関係なもの、捨象されたものとして扱う。事実(現実)として(宗教的要素や発展後の経済制度と)関係が仮にあったとしても、それは概念との「差異」として明らかになり、概念は事実認識のための有用な道具となる。

    「それゆえ、このような事情にもかかわらず、本書において分析しかつ歴史的に解明すべき対象をやはりあらかじめ確定しておくべきであるのならば、その場合、問題となりうるのは、ここで資本主義の『精神』とよんでいるものの概念的な定義などではなくて、さしあたってかたかだか暫定的な例示に止まるだろう。そのような例示はじっさい、研究対象についての理解を得るためになくてはならないのだ。そうした目的からわれわれは、問題の『精神』をものがたっている一史料をとり、説明の手がかりにしようと思う。この史料は、さしあたってそのような資本主義の『精神』を、ほとんど古典的と言いうるほど純粋に包含しており、しかも同時に宗教的なものとの直接の関係をまったく失っているために──われわれの主題にとっては──『予断が入らない』という長所をもっている。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、40P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「『アメリカにうんざりした男』は,『倫理』のまず最初の読者と想定されるドイツ人には,たとえカトリックであろうがプロテスタントであろうが,みずからの「内的生活Innenleben」と「ピューリタン的-資本主義的行動力」なるものとの違いがきわめてはっきりとわかる小説である。ヴェーバーは,フランクリンは実際どんな人物だったかを示そうとしているのではなく,「資本主義の「精神」」の説明の手がかりとして有用な小説に出てくるフランクリンを利用しているのである。そうであれば,ここで必要なことフランクリンの実像に迫ることではなく,キュルンベルガーがフランクリンをどう描いているのかをしっかり把握することになろう。」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(3)─」、29P

    「なるほど,「厳格なカルヴィニストの父」をもつフランクリンであり,その父から教え込まれた聖書の句をフランクリン自身が使うとなれば,彼にカルヴィニズムの影響を見たくなるのはわからないわけではない。しかし,ヴェーバーがしっかり彼は理神論者だったと書いているし,少なくともカルヴィニズムと断絶していることは,『自伝』の以下のところにもはっきり現れている。私は長老派教会会員として宗教的な環境のなかで育った。この派の教義の中には,「神の永遠の意志」「神の選び」「永罰」など,私には理解不能なものや信じられないものもあったが,……宗教上の主義をまったく持たないわけではなかった。例えば,神の存在,神が世界を創造したこと,神の摂理によってこれを治めること,そして,神のもっとも受け入れるべきわざserviceは,神は人に善を行うということ,人間の魂は不滅であること,さらに,この世でそして来世で,すべての罪は罰せられ,善徳は報われることなどについては,私は決して疑ったことはない。これらはすべての宗教の本質であると考え,そしてわが国のすべての宗教に見出せることであって,私はそれらすべてを尊重したのである……[Franklin1:324-5=松本・西川訳:133-4]」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(3)─」、24P

    「ヴェーバーが「暫定的」な例としたフランクリンは,「宗教的なものへのあらゆる直接的な関係から切り離されてい」て,かつ,「資本主義経済なしの「資本主義の精神」„kapitalistischer Geist“ohne kapitalistische Wirtschaft」[MWGI/9:602]の理念型なのであった。宗教とも資本主義経済ともかかわらないからこそ,ヴェーバーはフランクリンによって「資本主義の「精神」」を古典的と呼びうるほど純毅粋に毅毅示すことができると考えたのである。ところが,こうした位置づけを理解しないまま,自分の知って毅毅毅毅毅毅いる毅毅フランクリンで「資本主義の「精神」」を理解し,解説が書かれることが多々ある。」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(3)─」、23P

    フランクリンの(意図的に選択された)具体的な事例だけをみれば拝金主義者、功利主義者、偽善者に見える

    ・ウェーバーのフランクリン引用のいくつかの要点をピックアップ

    1. 時間は貨幣である(怠けてる時間は貨幣を捨てているのと同じ)
    2. 信用は貨幣になる(信用される人間は利息の支払いを延期してもらえることがある)
    3. 時間の正確さ、勤勉さ、節約(禁欲)を大事にしなさい(大事にできない人間は人に失望され、信用を失う)

    ・具体的に例示したベンジャミン・フランクリンの引用から、本質的な構成要素をピックアップしていく作業に移っていく。事例そのもので理念型を構成するというより、事例から本質的な構成要素をさらに選り抜く。

    ・ポイントは、ウェーバーのフランクリン引用には「宗教的なものとの直接的な関係が全くない」ということであり、端的に言えば「貨幣を欲するケチな拝金主義者」である。(引用外ではフランクリンは「神が自分に善なる行為をさせようと考えている人物(宗教的要素)」であり、「稀に見る誠実な性格(単なるケチな利益第一の人間ではない)」といったことを述べている。しかし、資本主義の精神で重要なポイントはこの引用外ではなく、引用内であり、宗教的要素がないという点にある。この点は誤読を生じさせやすいそうなので注意する必要があるそうだ。理念型で言えば、直接的な宗教的要素や人格的な要素は意図的に捨象されているわけである。現実はこういう面もある、といったところで、これはフィクション(理念型)だからそれでいい、という反論で済む)

    1. 信用のできる誠実な人という理想」(信用は利益につながるから倫理的によい手段である)
    2. 自分の資本を増加させることを自己目的とすることが各人の義務だという理想」(営利の追求は人生の目的であり、善いことである

    信用は貨幣の増加につながるから倫理的によいことである。また、貨幣の増加はそれ自体が目的であり、義務であり、倫理的に善いことである。

    →これだけをみれば貨幣を欲するケチな拝金主義者に見える。このエピソードのみから直接的に宗教的要素を感じることはできない。倫理的に善いかどうかも利益になるかどうかが判断基準となり、内面的にどう思っていたとしても見た目(形式)が信用できるならそれでいいという功利主義的(利益第一)な姿勢が見える。

    ・キュルンベルガーがアメリカに失望したエピソードとしてフランクリンを紹介し、「牛からは脂をつくり、人からは貨幣をつくる」と要約している。

    ・エピソードだけを見るとフランクリンは単なる功利主義者、偽善者にみえる。しかしそう単純ではないとウェーバーはいう。ただ強欲な拝金主義者というだけなら、中世以前にもいた。

    POINT:フランクリンが「なぜ貨幣をひたすら増加させることを目的としているか」である。貨幣の増加は義務であり、倫理的に善いことであるという思想が見える。具体的に享楽のために手段として使うのではなく、あくまでも貨幣の増加自体、世俗内職業労働自体が義務とされているのである。

    したがって、この理念型のフランクリンは単なる自己中心的で強欲な幸福主義や快楽主義に基づいているものではない。自分の贅沢や享楽のために貨幣が手段としておかれているわけではない。

    伝統主義の精神においては、貨幣の増加が目的とされているようなケースは「商人的冒険心」と考えられ、また「恥ずべきこと」と考えられていた(倫理的だとは考えられていなかった)。→なぜ倫理的によいことみなされたのかその起源はなにか、という精神的系譜が重要になる。

    フランクリンの事例は単なる功利主義への転化ではない

    単なる功利主義、と言われてもイメージしにくいですよね。そもそも「功利主義」という言葉がよくわかりにくい。ウェーバーが「幸福主義や快楽主義」という言葉を使っているように、「快楽や利益を第一と考える打算的な人間」のイメージで考えたほうがいいと思います。

    例えば、ウソをついてはいけないという道徳があったとします。ある商人が、嘘はついてはいけないと考えて、客に嘘偽りなく、商品の品質をごまかさないで商売したとします。もし品質をごまかせば自分の利益になり、利益を第一にするなら品質をごまかしたほうがいいにもかかわらずです。この場合、この商品の行為は功利主義とは別物であり、倫理的な行為であるといえます。

    しかし、嘘を客についたら悪い評判となり、結果的に自分の利益にならないと商人が考え、その利益のためだけに嘘偽りなく商売をしたとします。外形は先程と全く同じです。違うのは「動機」だけです。自分の利益になってもならなくても、そういう条件とは無関係に、カントでいうところの定言命法として道徳的な行為をするわけです。しかし、利益になるから嘘を使わない、というのは利益になるから、という条件法的な行為です。これは大きく違います。

    ウェーバーのいうところのフランクリンの理念型においては、「各人にとって実際に有益である限りにおいて善徳であるにすぎず、単なる外観が同一の効果を生むとすれば、その外観を代用するだけで十分だ」という話になるわけです。ある行為が道徳的かどうかというよりも、利益になるかどうかが重要だということです。

    さてフランクリンの理念型においては「単なる功利主義の転化」という帰結に至ります。元々、フランクリンの功利主義的、いわゆるケチでお金儲けのことばかり考えているエピソードばかり意図的に集めているわけですから、そうなりますよね。しかしこのケチでお金儲けのことばかり考えている、というのは「資本主義の精神」の事例にとって有用なエピソードなわけです。

    次は、具体的に例示したベンジャミン・フランクリンの引用から、本質的な構成要素をピックアップしていく作業に移っていきます。事例そのもので理念型を構成するというより、事例から本質的な構成要素をさらに選り抜くわけです。それが何か、というのが重要になります。

    1. 信用のできる誠実な人という理想(倫理的)
    2. 自分の資本を増加させることを自己目的とすることが各人の義務だという理想」→貨幣の獲得は欲望のための手段ではなく、それ自体が目的。しかもそれを道徳的だと考えている。

    たしかにこの2点は引用箇所に散りばめられていましたね。たとえば「時間を守る」人間は「信用のできる人間」であり、信用のできる人間になりなさい、というようにも読めます。「時は金なり」というのは怠けてる間は時間を捨てているのであり、そうしたことをしないで時間を有効に使い、貨幣を捨てずに増加させていきなさい、というようにも読めます。

    この2点だけを単純に解釈すれば、「功利主義」へ帰結します。なぜなら、信用のできる人間になりなさい、という基準が「利益」に結びついているからです。しかしウェーバーは「そう単純ではない」と否定します。フランクリンは単なるケチな拝金主義者、功利主義者ではなく、倫理的であり、善徳そのものを求めているような人間だからです。

    貨幣をひたすら増加させようとする理想と、ひたすら信用のできる倫理的であろうとする理想はどのような関係にあるのでしょうか。

    ポイント「はなぜフランクリンが貨幣をひたすら増加させることを目的としているのか」、ということです。それに対してフランクリンは聖書を引用して、「あなたはそのわざ(Beruf)に巧みな人を見るか、そのような人は王の前に立つ」といったそうです。要するに、天職といえるほどに素晴らしい仕事をしている人は素晴らしい人物だ、という感じですね。

    フランクリンは理神論者であり、宗教とは直接的な関わりをもっていない人物です。しかし聖書を引用しているわけです。ここがポイントなのですが、なかなかしっくりとこない。聖書を引用しているわけですが、これは聖書を信じ切っている信仰に篤い人物像というより、ほとんど無条件的に、社会の倫理的雰囲気がフランクリンに帯びているといったイメージです。たとえば私はどの宗教にも属していませんが、墓は蹴ってはいけない、働くものは食うべからず、時間を無駄にしてはいけない、といったようなことが倫理的であるということをなんとなく身につけています。おそらくそういった、宗教的な熱が醒めた後も、その影響が社会全体に残っているような、そういうニュアンスです。ウェーバーの用語で言えば「エートス」です。仏教徒の親に墓は蹴ってはいけないよ、と教わったからといって自分が仏教徒になるとは限りませんよね。宗教的なものを信じていなくても、宗教的な影響は受けているわけです。

    「フランクリンによれば、そうした善徳やその他あらゆる善徳は、ただ各人にとって実際に有益である限りにおいて善徳であるにすぎず、単なる外観が同一の効果を生むとすれば、その外観を代用するだけで十分だ、ということになる。──これは厳密な意味での功利主義にとってはどうしても避けがたい帰結だろう。ドイツ人がアメリカニズムの善徳に『偽善』を感じるのはまさにこの点だと、ずばり指摘できそうにも思われる。──がしかし、真実のところ、事実は決してそう単純ではない。自伝に現れているベンジャミン・フランクリン自身の世にも稀なる誠実な性格だとか、さらには善徳が『有益』だということが分かったのは神の啓示によるので、それによって、神は自分に善をなさしめようとしておられるのだと考えていることに照らしても、そこに示されているものがひたすらな自己中心的原理の粉飾などでないことは明瞭だ。そればかりか、この『倫理』の『最高善』(summum bonum)ともいうべき、一切の自然な享楽を厳しく斥けてひたむきに貨幣を獲得しようとする努力は、幸福主義や快楽主義などの観点を全く帯びていず、純粋に自己目的と考えられているために、個々人の『幸福』や『利益』といったものに対立して、ともかく、まったく超越的なまたおよそ非合理的なものとして立ち現れている。営利は人生の目的と考えられ、人間が物質的生活の要求を充たすための手段とは考えられていない。これは、とらわれない立場から見れば、『自然の』事態を倒錯したおよそ無意味なことと言えようが、また資本主義にとっては明白に無条件の基調であって、その空気に触れない者にはちょっと理解しえないものだ。がまた、同時に、それがたたえている雰囲気は一定の宗教的観念と密接な関連を示している。つまり、なぜ『人から貨幣をつくら』ねばならないのかと問われれば、ベンジャミン・フランクリンは自伝で、彼自身どの教派にも属さない理神論者であったにもかかわらず、聖書の句(この句は、彼のいうところによると厳格なカルヴィニズムの父が青年時代に繰り返し教えたものだ)を引用しながらこう答えている、『あなたはそのわざ(Beruf)に巧みな人を見るか、そのような人は王の前に立つ』と。貨幣の獲得は──それが合法的に行われるかぎり──近代の経済組織の中では、職業(Beruf)[後段で詳しい説明があるように、この原語は職業という意味と神から与えられた使命という意味とを含んでいる]における有能さの結果であり、現れなのであって、こうした有能さこそが、彼の道徳の正しくアルファでありオメガとなっているのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、47-48P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「(一)小売商人が掛け値なく正直に商売することは彼の義務である。だが、もし彼が結局そのほうが長い目で見て得だと判断してそうしているのであれば、その商人の行為は、なるほど義務にはかなっているけれども、義務から出た行為、つまり義務自身のためになされた行為とはいえない。そのばあいに商人の石の規定根拠となっているものは功利への打算である」

    雀部幸隆『知と意味の位相』,75P

    ※ドイツ語を省略しました

    「なお,この「聖書の句」である『箴言』第22章第29節の訳は,大塚訳によった。新共同訳では,「技に熟練している人を観察せよ。彼は王侯に仕え怪しげな者に仕えることはない。」となっている。また,いわゆる岩波委員会訳では「仕事のすばやい人を,お前は見たか。彼は王たちの前に進み出る。」[並木・藤村訳:266-7]としたうえで,「すばやい」について,ここでは「器用な仕事をする職人に関して用いられている」[並木・藤村訳:267]と解説している」

    三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(3)─」、35P

    合理的かつ非合理的
    ポイント3:フランクリンの合理性と非合理性
    1. 営利は本来人間が生きていくための「手段」であり、「目的」ではない。そういう意味では、営利それ自体を「目的」とすることは「非合理的」に思える。資本主義秩序が成立する前において、なんらかの消費の手段ではなく、貨幣の増加、労働自体が目的というのは現代の我々の観点においても、また当時のフランクリンの観点からしても非合理に見える。こうした非合理性はいったいどこで生じたのか、というのがポイントになっていく。
    2. 資本主義という文脈では、「営利自体を目的とすること」は合理的に思える。→現在の我々(資本主義秩序が成立した後の)からみると、1が合理的に見える(適合的な行為なので)。しかし、フランクリンの時代はまだ資本主義秩序が完成していない過渡期の時代なので、非合理に見える。要するに、営利を目的とする態度をとらなくても社会で落ちぶれることはないのにもかかわらず、営利を目的とすることが義務とされていて、かつ倫理的だとされているのは非合理だという話。

    1はなんとなくわかりますが、2は正直、よくわかりませんよね。おそらくはマルクスの資本の無限増殖運動的なことを意味しているのだと思います。貨幣を商品に投資し、その結果貨幣は増えます。さらにその貨幣をまた商品に投資していき、貨幣を増やします。この繰り返しが資本主義というわけです。たとえば会社の営利活動が、これでもう終りだ、これだけ稼いだのだからもう十分だ、ということは通常ないわけです増えた利益はどんどん投資されていきます。新しい機械を買ったり、有能な人間を雇ったりしていきます。資本主義のシステムが一旦成立している時代に生きる我々には、それが当たり前となっているわけです。具体的にどの商品か、というのは関係がなく、生活に具体的にどう充足的であるか、というのも関係がないわけです。純粋な目的は貨幣の増殖だからです。そして、そういうシステム、秩序が完成された後は、そういう貨幣の増殖を目的とせざるをえない、強い言葉で言えば強制されていくわけです。

    このへんの感覚がなかなか難しい。「営利は人生の目的と考えられ、人間が物質的生活の要求を充たすための手段とは考えられていない。これは、とらわれない立場から見れば、『自然の』事態を倒錯したおよそ無意味なことと言えようが、また資本主義にとっては明白に無条件の基調であって、その空気に触れない者にはちょっと理解しえないものだ」とウェーバーが言っているとおりです。

    すこしウェーバーの話とはズレるかもしれませんが、たとえをだします。たとえばサラリーマンは自分の家族の生活を養うために労働するとします。このサラリーマンの目的は具体的であり、その手段として資本の獲得(労働)があります。しかし会社としては、具体的な生活が目的ではなく、ひたすら利益の増大が目的となります。いわゆる法人格のようなものです。会社の目的と社員のそれぞれの目的は一致していないというのがポイントです。資本主義は基本的に合理的な”組織的”な経営であり、個人ひとりだけの経営ではありません。法人格としての会社は人間ではないので、もうこれで十分だ、というような具体的な目的がないわけです。食べるためだけに、あるいは欲しいものと交換するためだけに稲作や狩猟をしていた人々とは違うのです。彼らからすれば我々の資本主義的な経営を奇妙だと思うのかもしれません。しかし資本主義的な枠組みができあがっている現代の我々からすれば、それは合理的であり、良いシステムじゃないか、というよりそうしないと淘汰されていくぞ、となるわけです。

    そういうわけで、資本主義という文脈では、「営利自体を目的とすること」は合理的に思えるわけです。それと同時に、営利自体を目的とすることは資本主義という文脈を外せば、不合理的に思えるわけです。わかったような、わからないような気がしますよね。資本主義というシステムができる前は、ひたすら合理的に利益を目的として働く人間は少数であり、当時の他の多数派(伝統主義の精神)からすると違和感だらけだったというわけです。多数派は生活に十分な貨幣を獲得できれば十分で、貨幣の獲得は生活のための手段に過ぎなかったわけです。しかし少数派の人は「貨幣の獲得自体が目的」のような生活を送っているわけです。給料が上がれば、逆に労働量を減らすような人々です。余計な貨幣や労働は必要ないというわけです。

    そこからやがて資本主義が発達していき、システムが出来上がり、貨幣の獲得自体を目的とみなさないような組織経営では他のライバルに勝てなくなっていくわけですね。 そうして「貨幣の獲得自体が目的」のような生活が多数派に変わっていくわけです。この態度に適合できないような人間はどんどん落ちぶれていくわけです。

    「とはいえ物象化された『時間』と貨幣とこのような本質関係は、市民社会の日常的な実践感覚のうちに直観されざるをえない。ウェーバーがこれを『典型的に資本主義の精神』とみなしたベンジャミン・フランクリンの『ときは金なり』という生活信条をまつまでもなく、時間を費やす、時間をかせぐ、時間をむだにする、時間を浪費する、時間を節約する等々といった時間の動詞自体が、市民社会の<功利的実践>(コシーク)の日常感覚における時間と貨幣とのこのような同致をすでに物語っている。カント風の近代理性があらたまって問題にすると、時間と貨幣のこの同致はいかにも奇妙なカテゴリーの混淆のようにみえるので、近代の理論理性はたぶんこのような動詞の用法をたんなる『比喩』として片付けてしまう。けれどもそこには、『時間』こそが貨幣の本質であるということの、より正確には、物象化されたかぎりの時間こそが貨幣的価値の本質をなすというところの、日常実践的な直観があるのだ。かせいだり、たくわえたり、節約したりすることの可能な『時間』、──そこではたとえば、夜明けの時と午後の時、恋愛の時と別れの時、わたしの時とあのひとの時、そのような時それぞれの固有性、絶対性は捨象され、たとえば夜明けの三十分を『浪費する』ことをやめたり恋愛の三時間を『節約』したりすることの可能な対象へと還元される。時間が他の時間のうちにたがいに等価をもちうるという実践的な還元のうえに、一般化された商品交換のシステムとしての市民社会の総体は存立している。」

    「時間の比較社会学」、真木悠介、岩波現代文庫、300P

    一般化された等価形態としての貨幣の出現の決定的な帰結のひとつは、それが人間の関心と欲望を無限化するということだ。経済学が伝統的にそうやるようにいま商品をWで、貨幣をGで表すことにしよう。貨幣以前のプリミティブな商品交換[WーW”]においては、たとえば牛の代わりに小麦を手に入れるように、具体的で有限な生活欲求の充足が目的となる。それは王たちの女奴隷や宝石にたいする欲望のように途方もなく拡大することはあるが、それでも貨幣欲求のように抽象的に無限化するということはない。貨幣が出現したばあいにもそれが単なる交換手段として機能しているかぎりは[WーGーW”]、事態の本質はこれと変わらない。けれども貨幣がそれ自体として追求され、商品の購入──販売が逆にそのための手段となると[G-W”ーG]、事の本質は変化する。[WーGーW”]における初項と終項の差異は、価値量の等しく有用性の質を異にする二つの商品である。これとはまったく対照的に、[GーWーG”]における初項と終項の差異は、質の変化を伴わない価値量の増大である。すあんわち、商品(W”)の獲得を目的とする交換の関心はその質にあるが、貨幣(G)の増大を目的とする交換の関心はただにある。そして関心が質的な具体性を捨象された量へと向けられるかぎり、欲望はもはや完結して充足しうる構造を失う。[GーWーG”]とは資本の定式に他ならないが、資本の本質はまさしくこのような、際限を失った無窮動にある。」

    「時間の比較社会学」、真木悠介、岩波現代文庫、301-302P

    整理

    1:営利は本来、人間が生きていくための「手段」であり、「目的」ではない。そういう意味では、営利それ自体を「目的」とすることは「非合理的」に思える。資本主義の発展という文脈もないので、そうした態度は適合的でもなく、単に非合理的である(宝くじで10億円当たろうが、労働自体が倫理的に善いことであり義務であるので、働き続けるイメージ)。

    2:(現代の我々の)資本主義の発展後という文脈では、営利自体を目的とすることは「適合的」であり、それゆえに「合理的」に思える。そうしないと競争に勝てないからである。(現代の我々から見れば)利益の追求それ自体が倫理的である、とは多くの人間が思っていない(宝くじで10億円あたったら労働をやめる、という人のほうが多いようなイメージ)。生きるためにそういう姿勢(営利自体を目的とする)をしかたなくとる)。

    ※フランクリンの事例自体には資本主義の発展という文脈がないことに注意。あくまで現代の我々の観点からみたら合理的に見えるという話。そして(理念型としての)フランクリン自体も、当然の前提としているので、なぜ非合理的な目的を掲げているかを説明することは難しくなっている(明確なエーティックからくるものではなく、雰囲気としてのエートスからきている)。資本主義の精神の人々は「子孫のため」という合理的に思える説明をするかもしれないが、それだけでは説明しきれない。

    POINT:ある現象がある観点から見れば非合理的に見え、他の観点から見れば合理的に見える。そしてこの合理・非合理を導く基準が「理念(世界観、エートス)」である。資本主義の精神においては、理由もよく問われずに「職業労働それ自体、貨幣の増加それ自体」が倫理的に善いことだとされている。そういう雰囲気、エートスが存在している。しかし明確にそのエートスがなにかは問われなくなっている。ピューリタンのひとたちでいえば、元々の教義(エーティック)の内容は問われずに、とにかく職業労働は宗教的に善いことであり、神の救いの確信へとつながるという雰囲気(エートス)が広がっていくことだと解釈できます。

    ・この不確かなエートスの元々の正体はなにか、というのがポイント。大元をたどればルターの天職思想(エーティック)に始まるのではないか、という話。そして直接的には「予定説(エーティック)」などが生み出した「(神の救いの確証を目的とした)禁欲的な生活態度(エートス)」がその宗教的精神を失い、上っ面だけ(職業義務労働は倫理的に善いことである、利益は大きければ大きいほどよい)が残ったものが資本主義のエートスではないか、という話。本来「オマケ」にすぎないものが「本質」へと転倒していくようなもの。ウェーバーはこうした転倒を「意図せざる結果」とよくいう。ピューリタンやルターがこうした上っ面の態度を作ろうとは夢にも思っていなかったのであり、むしろそうした態度をとるまいと正反対の方向に努力していたのに、結果的にはつくりだしてしまったのである。

    ・宗教的精神に基づけば貨幣の増加は目的ではなく、結果にすぎない。しかし宗教的精神が消えれば、その結果にすぎない貨幣の増加が目的とみなされていく。外形的にはどちらも禁欲的な生活態度によって貨幣を増やしていくのは同じ。しかし内面が違う。前者は神の救いのためであり、後者は何のためだかよくわからず、とりあえず倫理的なものだと考えている。

    例えれば、親が木を大事にしていたから子にも木を大事にしていくことは善いことだという雰囲気は伝わっているが、自然保護のためという根本的な理由が忘れ去られているようなイメージ。木を大事にしていればそれを売って儲けることができるから、木を大事にすることは善いことだ、と根本的な部分が変わっていくイメージ。根本的な理由が忘れ去られ、逆に自然破壊へもつながってしまう。フランクリンにおいて貨幣の増加が目的とされることは、ピューリタンからすれば逆に神の救いを危うくするものだった。

    職業義務思想

    職業義務思想とは、意味
    POINT

    職業義務思想とは、意味・貨幣の増加自体、職業労働それ自体を究極的な目的とし、そうした行為を倫理的に善いものであり、各人の義務だと考える思想。

    ここで重要なのは、資本主義の経済秩序が成立する前と後の違いです。

    職業義務思想というのは、職業労働は具体的な生活の享楽のための単なる手段ではなく、それ自体が目的であるという思想です。働くことそれ自体が、営利それ自体が目的であるような態度です。先程見たフランクリンの「自分の資本を増加させることを自己目的とすることが各人の義務だという理想」ですね。これは資本主義という文脈で見れば合理的であり、資本主義という文脈で見なければ不合理的だということを確認してきました。

    要するに、フランクリンの職業思想は合理的でかつ非合理的だというわけです。

    1:資本主義が発達した後(鉄の檻が出来上がった後)では、職業義務思想は経済競争で勝ち残っていくために適合的な思想であり、合理的な思想。例:会社の経営者が、会社の社員が食べていけるぎりぎりのラインの利益を追求していくような会社は生き残っていけない。ひたすら利益を追求するような、利益追求それ自体が目的のような態度が必要とされる(強い言葉で言えば、強制される)。

    2:資本主義が発達した後に、それに適合するように「資本主義の精神」が生まれたわけではない。→発展した資本主義が職業義務思想を強制するのは事実だが、発展した資本主義が職業義務を生み出したわけではない。

    3:資本主義が発達する前に、すでに資本主義の精神はあった。→どこにあったのか、起源はどこか?→ルターの聖書翻訳からカルヴィニズム、その他プロテスタントの検討

    我々は「職業義務思想」を引き受けざるをえなくなっているのであり、何のために利益追求自体を目的としているのかと言われてもうまく答えることができない。結論から言えばそうした職業義務思想は宗教的なものが起源としてある。しかしそうした宗教的なものがすっぽり抜け落ちてしまい、その行状だけが残ってしまっているからである。

    ケースは違うのはわかっていますが、自分的にわかりやすいのでたとえます。たとえば主人のために戦争をしていたある兵士を考えてみる。そして戦場で主人が死んだと聞かされる。しかし戦場では敵が襲ってくるので、戦わざるをえない。戦争の目的を失っているのに、戦争はすでにはじまっているので戦わざるをえないのである。目的を失って手段だけが残り、この手段が目的化していく。なぜ戦うのか?それは戦わざるをえないから、という回答になる。同じように、すでに宗教的な要素を失っているのにもかかわらず、利益を追求せざるをえないような資本主義の秩序があるために、利益それ自体を目的として働かざるをえないというわけである。なぜそんなに貨幣を追求するのか?それは追求していないと他の企業に負けるから、となる。貨幣をどんどん追求する企業は新しい機械を導入し、新しい仕組みを開発し、有能な社員をどんどん採用していく。一方、貨幣それ自体を目的として追求していないような、生活に足りるだけの貨幣を手段として追求するような企業はどんどん落ちぶれていく。競争力が低下し、まるで相手にならない。

    こう考えると、フランクリンはちょうどピューリタンと我々の過渡期に位置しており、我々ほど職業義務思想を強制されてはいないし、ピューリタンほど宗教の精神があるわけでもない。しかし、宗教の精神の残骸である倫理的な要素はまだ維持されている。我々の場合は、そうした倫理的な要素さえ失いはじめている。禁欲や合理性はあくまでも適合するためであり、適合するために必要でないのなら、そうした労働や禁欲はする必要がない、とまで我々は考えるだろう。しかしピューリタンたちはそうした適合するため、というようななにかの手段ではなく、ひたすら神の使命だから、神の栄光を増すことが我々の義務であり役割だから、また、神の救いを確信することが他の利害関係よりも重要だから、となる。

    整理

    職業義務思想:貨幣の増加自体、職業労働それ自体を究極的な目的とし、そうした行為を倫理的に善いものであり、各人の義務だと考える思想。

    ・これはルターの「天職思想(1)」とも「天職思想(2)」とも異なる。天職思想(2)は職業労働自体が宗教的、倫理的、道徳的に善いものであるという考えである。一見似ているが、フランクリンは「貨幣の増加それ自体を目的とする」というニュアンスがあり、ルターの場合はそうした目的はない。また、宗教的要素もない。当然、(1)である神の使命という意識もない。貨幣の増加は職業労働の「結果」であり、「目的」ではないのである。ルターからすれば貨幣の増加それ自体が目的であり、倫理的であるというような考えはむしろ倫理的に悪いことである。ピューリタンも同様に、そのようなことは「神の救い」を危険にする避けるべき考えだと思っていた。

    伝統主義のエートス

    伝統文化のエートスとは
    POINT

    伝統文化のエートスとは、意味・古代や中世における社会の無条件な倫理的雰囲気。①伝統的・習慣的な必要を充たすという具体的な目的のための手段として労働が位置づけられていた。②貨幣の増殖を目的とする人々も中世以前にはいたが、それらの行為が倫理的に善いことだとは考えられておらず、むしろ多くの人に「恥ずべきこと」だと考えられていた。「商人の冒険心」とでもいう心情であり、倫理性とは異なるもの。※伝統文化のエートスも資本主義の精神と同じように暫定的な実例をいくつか示され、そこから暫定的に構成されている。

    POINT1:伝統的(習慣的)な必要を充たすにはどれだけの労働をしなければならないか、という基準を元に労働が行われた。時間あたりの出来高が上がれば、より長く働こうとするのではなく、むしろ労働時間を減らす傾向があったという。→人々にとって貨幣は具体的な生活の欲求を充たす手段にすぎず、貨幣の獲得自体が倫理的に善いとは思われていなかった

    POINT2:人間は生まれながらにして貨幣の増加を熱心に願うものではない→(長年の)教育の結果として生まれるもの。

    POINT3:古代や中世の人に「貪欲さ」が欠けているという単純な話ではない。昔の人も具体的な手段として貨幣を貪欲に追求することはあった。しかし貨幣の追求自体が倫理的によいことだとは思っておらず、むしろ貨幣の貪欲な追求は「恥ずべきこと」であると考えられていた。

    POINT4:貨幣や金貨自体を追求する人々もいたが、それが倫理的によいこと、道徳的なものとは考えられていなかった。あくまでも非倫理的な「商人的冒険心」だという。

    POINT5:貨幣のあくなき追求を自分の享楽のための消費のためではなく、「子孫のため」という姿勢は中世以前にもあった。この姿勢があったにもかかわらず、(世俗における)合理的・禁欲的な生活態度に乏しかったのである。したがって、フランクリンの合理的な生活態度を「子孫のため」という究極的な目的のための貨幣の増加への執着として位置付けして説明することはできない。もっと別の大きな「起動力」が過去にあったはずである。

    「『倫理』の衣服をまとい、規範の拘束に服する特定のスタイル、そうした意味での資本主義の『精神』が、何はさておき遭遇しなければならかった闘争の敵は、ほかならぬ伝統主義とも名づくべき感覚と行動の様式であった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、63P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「彼が考慮にいれたのは、できるだけ多く労働すれば一日にどれだけの労働をしなければならないか、ではなくて、これまでと同じ報酬──二・五マルクを得て伝統的な必要を充たすには、どれだけの労働をしなければいけないか、ということだった。まさしくこれは『伝統主義』とよばれるべき生活態度の一例だ。人は『生まれながらに』できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなくて、むしろ簡素に生活する、つまり習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものを手に入れることだけを願うにすぎない。近代資本主義が、人間労働の集約度を高めることによってその『生産性』を引き上げるという仕事を始めたとき、到る所でこのうえもなく頑強に妨害し続けたのは、資本主義以前の経済労働のこうした基調だった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、65P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「なぜなら、こうした場合には端的に高度の責任感が必要であるばかりか、少なくとも勤務時間の間は、どうすればできるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃金がとれるか、などということを絶えず考えたりするのではなくて、あたかも労働が絶対的に自己目的──》Beruf《『天職』──であるかのように励むという心情が一般に必要とされる体。しかし、こうした心情は、決して、人間が生まれつきもっているものではない。また、高賃金や低賃金という操作で直接作り出すことができるものでもなくて、むしろ、長年月の教育の結果としてはじめて生まれてくるものなのだ。今日では資本主義は堅固な基礎がすでにできあがっているから、どの工業高でも、またそれらの国々の工業地帯でも、労働者の調達は比較的安易だ。しかし、昔は、いつでも極めて困難な問題だった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、67P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    起動力とキリスト教の禁欲精神

    POINT

    起動力とは、意味・起動力(キリスト教の禁欲精神)を例えるなら、スペースシャトルに備え付けられているブースターのようなもの。積極的な刺激剤。

    最初の発射の支えとはなるが、切り離されて、その支えをもはや必要としなくなる。ブースターの名残のエネルギー(資本主義の精神)もやがてなくなってくるし、ブースターは忘れ去られていく。地球に帰るような強烈なエネルギーをもはや内部にもたず、ひたすら宙にさまよっている。何が善いことなのか、人生の意義付け、方向付けの確証を失っていくのが我々です。

    POINT:伝統主義のエートスは資本主義の精神の発生の際の障害となるものであり、資本主義の精神が発生するためには「起動力」を必要としたこと。※しつこいかもしれないが、ここでいう資本主義の精神とは資本主義の精神の一要素にすぎない。

    ・そしてその「起動力」こそ「キリスト教の禁欲精神」。別の言い方をすれば、宗教的な精神をもった禁欲的な生活態度である。そしてこの宗教的な精神とは、「神の救いの確証のため」という「確証思想」やルターの「天職思想」に基づいている。

    ・「個々人にとって、恩恵の地位を保持するために生活を方法的に統御し、そのなかに禁欲を浸透させようとする起動力がうまれてきた。」というのが決定的に重要になる。つまり、キリスト教的禁欲精神を世俗外へと徹底的にもたらした起動力は「確証思想」であり、その意味で、この確証思想も「起動力」なのである。

    資本主義の精神(職業義務思想、合理的な生活態度)の発生前:神の救いのために禁欲的・合理的な生活態度を送っていて、さらに世俗内労働は神の使命であり、それゆえに道徳的・倫理的なものだと思われていた。②や③のひとたちにはもはや理解することは難しい。

    資本主義の精神の段階:いつのまにか神の救いという宗教的要素が抜け落ちて、合理的な生活態度のみが残っていく。この過渡期(資本主義の発展前)においては、そうした合理的な生活態度が道徳的・倫理的であるという要素(醒めた職業道徳)は残っている。しかしこの倫理的であると考えるそもそもの起源が忘れ去られており、無条件的に、貨幣の増加は倫理的に善いことであるという空気がまだ社会全体に残っている段階(①の人々からすれば宗教的な精神を離れて貨幣の増加を目的とすることは、非道徳的・倫理的・不合理な人たち。③の人々からすれば。資本主義のシステムが確立していないのに、具体的な手段としてではなく、貨幣の増加を目的としている不合理な人たち)。

    資本主義の精神が抜け落ちていく段階:宗教的な精神や倫理的な精神すら抜け落ち、ただ適合的に合理的な生活態度や職業義務思想をもたらざるをえない段階。そうした態度が倫理的に善いというより、そうしないと落ちぶれるからそうするべきだ、という段階。①の人々からすれば宗教的な精神を失った不敬虔な人たちであり、②の人々からすれば倫理的な精神を失った不道徳な人たち。

    「ところで、いま一度要約して言うならば、われわれの研究にとって決定的な意味をもつ点は、次のとおりである。どの教派においてもつねに、宗教上の『恩恵の地位』をば、被造物の頽廃状態つまり現世から信徒たちを区別する一つの身分(status)と考え、この身分の保持は──その獲得の仕方はそれぞれの教派によって異なるけれども──なんらかの呪術的=聖礼典的な手段でも、懺悔による赦免でも、また個々の敬虔な行為でもなくて、『自然』のままの人間の生活様式とは明白に相違した独自な行状による確証、によってのみ保証されうるとした。このことからして、個々人にとって、恩恵の地位を保持するために生活を方法的統御し、そのなかに禁欲を浸透させようとする起動力がうまれてきた。ところで、この禁欲的な生活スタイルは、すでに見たとおり、神の意志に合わせて全存在を合理的に形成するということを意味した。しかも、この禁欲はもはやopus supererogationis(義務以上の善き行為)ではなくて、救いの確信をえようとする者すべてに要求される行為だった。こうして、宗教的要求にもとづく聖徒たちの、『自然の』ままと異なった特別の生活は──これが決定的な点なのだが──もはや世俗の外の修道院だけではなくて、世俗とその秩序のただなかで行われることになった。このような、来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作りだしたものだったのだ。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、286-287P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「もちろん、生活上ほかに好機をあたえられぬ人々の、低賃金にもめげない忠実な労働を神は深く悦び給うとする見地は、[キリスト教の]ほとんどすべての流派の禁欲文献全体に浸みわたっていた。この点では、プロテスタンティズムの禁欲それ自体はなんらの新しいものももたらさなかった。けれども、この見地をこの上もなく強力に掘り下げたばかりでなく、そうした規範のために、結局それがあってのみ規範が影響力を発揮しうるようなものを、すなわち、そうした労働を天職(Beruf)と見、また、救いを確信するための最良の──ついにはしばしば唯一の──手段と考えることから生じる、あの心理的起動力を創造したのだった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、360P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    合理的な生活態度とは

    POINT

    合理的な生活態度・合理的な生活態度は貨幣の増加につながるので倫理的に善いことだと思われているような生活態度。職業義務思想が土台になっている。具体的にはどのような生活態度が合理的なのか、と一言で説明することが難しいので具体例をもって提示することにする。たとえば「勘定を計算する」というのも合理的な貨幣の追求のひとつである。あるいは「組織的な運営」もそうである。薄利多売のほうが利益になる、職人をクビにして代わりに良い機械を導入したほうが貨幣の獲得につながると考えればそうする。貨幣の獲得にとって非合理的な要素が徹底的に排除されていく。たとえば無駄遣いといった非禁欲的な要素は貨幣の獲得のためには非合理的な行為となるし、罰が当たるから神聖な木々を切らないというような非合理的な態度も排斥されていくのだろう。ウェーバーによればこの合理化は経済的なものだけではなく、市民的なもの、つまり労働外の生活においても浸透していたという。ある事業や労働が利益になるかどうかを徹底的に計算する態度だけではなく、人付き合いにおいても自分に不利益になるような人とは付き合わない、という態度も一種の合理化だと言える。こうした合理化や禁欲、組織性など自体は中世の頃に世俗外にあったが、近代においてはじめて大量現象として世俗内で生じたということがポイント。

    ・禁欲や誠実さ、組織的な生活態度なども貨幣の増加につながるので倫理的に善いことだと思われている(宗教的に善いとはもはや思われていないことが重要)。具体的にどういった生活態度が合理的なのか。たとえば神聖な木を切る呪われるから、伐採しない、という行為は非合理的だとみなされる。したがって、そうしたことを信じず、合理的に考え、木を伐採する。組織的な運営のほうが貨幣の獲得のために合理的だとみなされれば、組織的な運営がされていく。無駄遣いが貨幣の獲得にとって非合理的なら、そうしたものは禁欲されていく。貨幣の獲得が目的とされ、かつ倫理的とされているならば、その貨幣の獲得の手段が不合理である場合、貨幣の獲得を困難にする。勘定を計算できない者、計算可能性を頭にいれておかないものは、貨幣の獲得を困難にする。したがって、その貨幣の獲得は徹底的に(経済的にも生活の上でも)合理化されていく。睡眠時間に10時間もとるのは非合理的であり、7時間で十分だ、ということになるかもしれない。労働者に甘い顔をしていたら貨幣の獲得が減るので、厳しく、低賃金で多く、できるだけ質もよく働かせるほうが合理的だ、という考えになるかもしれない。労働者の場合も同様に、非合理的な生活をしていたら貨幣の獲得が困難になるので、自分の労働や生活を徹底的に合理化させていく

    ・この合理的な生活態度は資本主義の発達前にすでに存在していたということも更に重要になる(資本主義の経済秩序のみが合理的な生活態度をつくりだしたわけではない)。

    ・資本主義の精神を構成する意味での「合理的な生活態度」は資本主義の発達とは無関係に構成されている。

    メモ:経済合理主義や経済合理性について調べておく。合理的な生活態度をもう一度見直す。禁欲に合理的な性格が帯びることと、合理化に禁欲的な性格が帯びることはほとんど同じではないか。重要なのは、そうした外形ではなく、内面的な相違である。すなわち、究極的な目的として「神の救い」を意識しているかどうか、あるいは「宗教的な要素」があるかどうかである。「禁欲的な生活態度」も「合理的な生活態度」も定義においては外形的にはほとんど同じであり、内面的には大きな違いがあるというわけである。

    「キリスト教的禁欲…..しかし、西洋では、すでに中世においてその最高の形態は完全に、またいくつかの現象については早くも古代において、合理的な性格を帯びていた。東洋の禁欲僧生活──総体ではなく、一般的類型として──に対比して、西洋の修道士生活のもつ世界史的意義は、この点にある。……それは、自然の克服し、人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意志の支配に服させ、彼の行為を不断の自己審査と倫理的意義の熱慮のもとにおくことを目的とする、そうした合理的生活態度の組織的に完成された方法として、すでに出来上がっていた。そして、修道士たちを──客観的には──神の国のための労働者として訓育するとともに、それによってさらに──主観的には──彼らの霊魂の救いを確実にするものとなっていったのだった。こうした──能動的な──自己統御は、聖イグナティウスのecercitia(修練)のみでなく、およそ合理的な修道士的徳行の最高形態における目標だったように、ピューリタニズムの実践生活における決定的に重要な理想でもあった。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、200-201P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「とくに宗教教育を受けた少女、わけても敬虔派の信仰をもつ地方で育てられた少女だ。この種の少女たちの場合、経済教育が効果を上げる可能性が格段に大きいことはしばしば聞かれてきた。また、時折の数字的な調査もそれを裏書きしている。思考の集中能力と、『労働を義務とする』この上なくひたむきな態度、しかも、これに結びついてこの場合とくにいちじるしい向上をもたらす冷静な克己心と節制だ。労働を自己目的、すなわち》Beruf《『天職』と考えるべきだという、あの資本主義の要求にまさしく合致するところの考えは……」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、68P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    フランクリンとピューリタンの生活態度の比較、エートス

    ピューリタン(プロテスタンティズムの倫理の事例、理念型)フランクリン(資本主義の精神の事例、理念型)

    ・時間の浪費はもっとも重い罪である。

    【宗教的要素】人間の時間は「救いの確証」のために限りなく短く貴重なものだから、時間の浪費は倫理的に悪い。

    ・時は金なり(時間を無駄に浪費してはいけない、それは貨幣を捨てることと同じだから)

    【功利主義的要素】時間の浪費は功利(利得)が減るから倫理的によくない。時間を大事にすることは功利(貨幣)が増えるから、倫理的によい。

    ・善行(禁欲)に励むべき

    【宗教的要素】善行は「神の栄光」を増し、それは「救いの確証へ」とつながる大事な行為であり、倫理的に善い。

    ・信用のできる誠実な人という理想

    【功利主義的要素】誠実さ(勤勉や節約など)は信用を生み、信用は功利(利益)を増大させるから倫理的によい

    ・フランクリンには禁欲的な態度が見られる

    ・職業労働それ自体が目的であるという「天職思想」

    【確証思想から捉えることができる】職業労働は禁欲のための「手段」であり、禁欲は「有効な信仰」へとつながり、「有効な信仰」は「救いの確証」へとつながると考えられていた。職業労働は神がよろこぶような行為であり、現世においてなにか自然な手段、たとえば享楽のための手段としてあるものではない。職業労働それ自体が神がよろこぶものであり、それ自体が目的となる。

    →享楽のために浪費せず、ひたすら職業労働に励むことによって結果として資本が形成されていく(利益が増大する)。利益の増大を目的とすることは倫理的に悪いことされていたが、結果として資本が形成されることは善いことだとされていた。しかし、「資本の形成」は人々を「腐敗」へと導き、宗教的な精神をが失われていった。そうして残ったのが、宗教的な要素を失った禁欲的な生活態度であり、したがって経済合理的な生活態度である。

    神の救いを確かにするために、職業労働をなにか世俗的なものを目的としてではなく、それ自体のために行うというのは「合理的」である。しかし宗教的要素が抜け落ちてしまうと、職業労働それ自体を目的とすることは、根本的な目的(救いの確証)を失ってしまっているので、「非合理的」に見えてしまう。一方で、職業労働それ自体を目的としないと資本主義の秩序の中で生きてはいけないから、という理由では「合理的」にも見える。

    ・自分の資本を増加させることを自己目的とすることが各人の義務だという理想(職業労働それ自体を目的とすることが各人の義務であるという思想)→「職業義務思想」

    【単なる功利主義の観点からは捉えられない要素】利益の増大は無条件に倫理的によいことだとされている。なにか具体的な手段として利益を増大するのではなく、利益の増大自体が目的とされている。職業労働は「神の救い」へとつながるだとか、「救いの確証につながる」といった召命観、宗教的要素が抜け落ちている

    現代(資本主義が発展した後)の我々においては、利益の増大それ自体を目的とすることはほとんど強制されている(別の言い方をすれば鉄の檻に住んでいる)。そうしたことを目的としないようでは、落ちぶれていく(そういう意味では適合的行為)。そういう秩序の中に我々はいる。なぜ利益の増大それ自体を、あるいは職業労働それ自体を目的としなくてはいけないのか、といったことを考えなくなっている。その根幹は、由来は、精神的系譜はどこにあるのかというのがウェーバーの関心。その系譜が中世の禁欲的な生活態度からルターへ、ルターからプロテスタンティズムに受け継がれていったという精神的系譜であり、連続関係である。

    資本主義が出来上がったあとで、資本主義の文脈からすれば職業義務という思想は合理的だが、なにかの手段としてではなく、職業労働それ自体を目的とするのは「非合理的」である。資本主義の精神はある観点からみれば合理的であり、べつの観点からみれば非合理的である。そしてその非合理性を生み出したのは、元をたどれば「宗教的要素(この精神的系譜をたどってきた)」だったという話。

    「実を言えば、今日われわれによく知られてはいるが、本当はその意味が決して自明ではない、職業義務(Berufsflicht)という独自な思想がある。その活動の内容が何であるかにかかわらず、また捉われない見方からすれば、労働力や物的財産(『資本』としての)を用いた単なる利潤の追求の営みに過ぎないにもかかわらず、各人は自分の『職業』活動の内容を義務と意識すべきだと考え、また事実意識してる、そういう義務の観念がある。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、50P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「その生活態度はしばしば、さきに引用したフランクリンの『説教』に明らかに現れているような一定の禁欲的特徴を具えている。」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、80P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    6:鉄の檻(堅い殻)

    鉄の檻(堅い殻)

    鉄の檻は誤訳?

    元々タルコット・パーソンズが「ein stahlhartes Gehäuse」を「iron cage」と訳したことから、邦訳でも大塚久雄さんなどが「鉄の檻」と邦訳するようになったと言われている(最初の翻訳者である梶山力さんは「外枠」と訳している)。鉄の檻はペシミズム(悲観的なもの)を連想させる要因となっている。

    ・荒川敏彦さんによればGehäuse(ゲホイゼ)には「ケース」「外装」「貝殻」などの意味があり、無理やり閉じ込めるといった意味合いはなく、むしろ中のものが傷つかないようにする意味合いが正しいらしい。stahlhartesは「堅い」といったような意味合いがある。端的に言えば「鉄の檻」という翻訳は誤訳であるという主張である。

    ・正しい訳は鉄の檻ではなく、堅い外枠や堅い殻、堅い箱のほうが近い。今回の動画では鉄の檻ではなく、「堅い殻」を採用することにする。

    硬い殻とは
    POINT

    硬い殻、意味・確立してしまった資本主義のシステムの中に人間は守られて生きていくしかなく、そこから外に出ていくことは難しいという二つの意味合いがある。

    ※荒川敏彦さんの論文(「殻の中に住むものは誰か 『鉄の檻』的ヴェーバー像からの解放」)を参照。WEB上にはない。こちらも参照。

    硬い殻の中で生きていく人間の将来の3つの可能性

    硬い殻の中で生きていく人間の将来の3つの可能性:①新たな預言者が現れる、②かつての思想や理想が復活する、③変革が起きること無く、自己陶酔で粉飾された機械的硬直化が起こる。

    ウェーバーはプロ倫では可能性を示すだけであり、またこうした運命にたいして「どうするべきか」という処方箋(価値判断)を出していない。①や②は硬い殻から外へ出ていく可能性であり、③は硬い殻の中に留まったままの可能。

    ①については、「職業としての学問」という論文で、「(新しい預言者や救世主)を待ち焦がれているだけでは何事もなされず、こうした態度を改めて『日々の要求』に従おう」と結論付けている。こちらも否定的である。

    ②については同じ論文で、「神々の闘争という宿命を男らしく受け入れる」という表現にあるように、昔の一つの神(たとえばキリスト教の神)を集団で信仰するという復活は難しいという態度だと私は解釈している(現代は知を犠牲にすることは難しい時代である)。ただし、選択としては③や①よりは肯定的な評価をウェーバーは行っている。実際に、「職業としての学問」では「時代の宿命に男らしく堪えることのできないもの(文化人となれないもの)は、ただ素直に、むかしからの教会へ戻るといい」と助言している。

    ③についてはウェーバーの有名な「末人」という表現が意味しているように、否定的なニュアンスを感じられる。末人とは、「精神のない専門人」、「心情のない享楽人」、「この無のもの」といったよう者を意味する(ニーチェが意識されている)。

    要するに、①も②も③もどれも否定的な態度をとっている(こうしたことから悲観的なイメージにつながりやすくなる)。では人間はこれからどうすればいいか、という価値判断的な内容にウェーバーはどの論文でも積極的には踏み込まない。それぞれが自分で考え、内心に秘めておく、あるいはそういった個人的な価値判断は言葉よりも行為によって証明されるものだ、という姿勢がある。言うは易く行うは難し。この姿勢はカルヴァン派の形式ではなく内容を重視する姿勢とも似ている。

    ・待ち焦がれず、男らしく耐え、「日々の要求に従え」という消極的なアドバイス(価値判断)を我々に送っているようにはみえる(『職業としての学問』で)。

    日々の要求に従えとは、日常の具体的な問題に責任を持って対処することである。例:学問の場合は知的廉直な態度、例えば教壇の上では生徒に価値を強いない、コックの場合は安全な食べ物、おいしい食べ物を提供する等。

    実弟アルフレートへの手紙のなかで、ウェーバーは「世界に対してどういう態度をとるべきかは、自分の『良心』と『知性』と『心』が責任を負うべき事柄であり、各人が一生かけて色々と経験を積みながら解決してゆくべき問題」だと主張している。

    これは、『客観性』論文で「われわれが、世界に対して意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意志をそなえた文化人である」と主張したことと通底しているように思える。

    神々の闘争の時代、神なく預言者なき時代、資本主義のシステムが確立した堅い殻の中に住まざるをえない我々は、自分の『良心』と『知性』と『心』で態度をどうとるべきか考え、またそれに責任を持ち、それ自体としては意味のない現象に意味を与えていく文化人になるべきだとウェーバーは考えていたのだと私は解釈している。そうした文化人の態度を真摯にとれば、必ずしも悲観的な帰結には陥らず、機械的硬直化もしないのではないか。つまり末人にならずに済むのではないだろうか。

    新しい預言者を求める神秘主義の影響を受けたドイツの若者に対して、「国民が疲労困憊しているこの時に、自分一人の魂を救って何になる?」と吐き捨てるようにつぶいやいたウェーバーから見るように、自分の良心、知性、心をからみれば国民の疲労困憊を何とかするほうがウェーバーにとっては「意味」があったのだろう。客観的な正解や心理を探すのではなく、自分で考えて、責任を持って意味を与えていける人間になりたい。

    職業としての学問についての説明は前回の記事を参照。

    【基礎社会学第二十回】マックス・ウェーバーの「職業としての学問と神々の闘争」とはなにか

    客観性論文についても前回の記事を参照。

    【社会学を学ぶ】マックス・ウェーバーの価値判断や価値自由とははなにか?

    「ピューリタンは天職人たらんと欲した──われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結び付けられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作りあげるのに力を貸すことになったのだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入り込んでくる一切の諸個人──直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく──の生活のスタイルを決定してるし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう。バックスターの見解によると、外物についての配慮は、ただ『いつでも脱ぐことのできる薄い外衣』のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。それなのに、運命は不幸にもこの外衣を鋼鉄のように堅い檻としてしまった。禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。今日では、禁欲の精神は──最終的にか否か、誰が知ろう──この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。禁欲をはからずも後継した啓蒙主義のバラ色の雰囲気でさえ、今日ではまったく失せ果てたらしく、『天職義務』の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している。そして、『世俗的職業を天職として遂行する』という、そうした行為を直接最高の精神的文化価値に関連させることができないばあいにも──あるいは逆の言い方をすれば、主観的にも単に経済的強制としてしか感じられないばあいにも──今日では誰もおよそその意味を詮索しないのが普通だ。営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることすら稀ではない。」

    「将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも──そのどちらでもなくて──一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化すことになるのか、まだ誰にもわからない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現れる『未来人たち』にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と。──」

    (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、365-366P、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳、岩波文庫、1989初版、2006年第39版)

    「見よ!わたしは諸君に『最後の人間種族』なるものをお目にかけよう。『なに、愛だって?創造だって?憧憬だって?えっ、星?そりゃあ、一体何のことですか?』……誰もが同じことを望み、誰もが同じである。違った感じ方をする人間はみずからすすんで精神病院入りをする。『いやなに、昔は世の中すべてが狂っとったのですよ』─このお上品な連中はそう言ってまばたきする。 」

    ニーチェ『ツァラトゥストラ』

    参考文献

    参照論文

    1:佐藤俊樹「近代・組織・資本主義──プロテスタンティズムの倫理は近代資本主義を生んだか──」(URL)

    3:三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(1)─」(URL)

    2:三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(2)─」(URL)

    4:三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(3)─」(URL)

    5:三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(4)─」(URL)

    6:三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(5)─」(URL)

    7:三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(6)─」(URL)

    8:三笘利幸「マックス・ヴェーバーと「近代文化」─『倫理』論文は何を問うのか(7)─」(URL)

    今回の主な文献

    マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

    マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

    マックス・ウェーバー「職業としての学問」

    マックス・ウェーバー「職業としての学問」

    マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」

    「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」

    汎用文献

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    大澤真幸「社会学史」

    大澤真幸「社会学史」

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

    アンソニー・ギデンズ「社会学」

    社会学 第五版

    社会学

    社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

    クロニクル社会学

    クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

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