【1ワード社会学第十三回(41)】家族、マスメディア、異議申し立て

ユルゲン・ハーバーマス

動画での説明

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はじめに

社会学とはなにか

社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。

なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。

【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか

この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。

できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。

記事の分割

(準備中)

(8) [F]治療法関連

[8-3]【治療法】家族、マスメディア、異議申し立て

生活世界の植民地化から抜け出すための3つの対処法

1981年の『コミュニケーション的行為の理論』において、ハーバーマスは「生活世界の植民地化」におけるネガティブな側面をどのように解決するか、その展望を3つの側面にわけて説明している。

※ちなみに討議倫理は1983年や1991年、法の役割については1992年であり、ここでは扱われていない(このあと少しとりあげる)。

3つの側面とは、「家族における社会化」、「マスメディア」、「異議申し立ての潜在力」だという。

これらはコミュニケーション的合理性を高める可能性として考えられているが、同時に、非合理性に傾く可能性をもっているということに注意する必要があるという。なにごとにも両義性があると考えるセンスが必要になる。また、ルーマン的にいえばいずれかの具体的な方法に固執するのではなく、常にほかであり得るという偶発性(コンティンジェンシー)のセンスを考慮する必要があるといえるだろう。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,179p

【1】ハーバーマスの「家族における社会化」とは

まず、「家族における社会化」とはどういうことか。

ハーバーマスによると、批判理論の第一世代では、家族における社会化はネガティブに捉えられていたという。「家族は労働の外にあり、愛や安心の場所だ、防波堤だ」という見方そのものが実は資本主義社会を支える考え方の一部にすぎないと彼らは批判する。

癒やしの場があることで外の社会の過酷さが問題視されにくくなったり、労働力を再生産する場所としての機能が進んでいくことが問題視されにくくなる。

いわゆる「虚偽意識」だということになる。社会的支配関係を正当化するような認識を、自然で正しいものだと信じ込んでしまう状態のことである。

ハーバーマスも、こうした虚偽意識があることは否定していない。しかし、経済システム的な侵食から家族の成員を守るという機能が家族にないわけではないという。

また、近代化が進むにつれて、家族のあり方も変化してきたという。たとえば父親の権威が絶対ではなくなり、より対等になってきている。家族単位ではなく個人単位の交流が増え、家庭教育もリベラルになってきたという(上から価値観を押しつけるのではなく、子どもの自律、尊重を重んじる)。

こうした新しい家族のあり方は、他者との意思疎通をより円滑にするような自我形成の機能をもつという。つまり、コミュニケーション的理性を育む場所としても機能するというわけである。

実際、家族の民主化が進むにつれて、ヒステリーや強迫神経症は減っていったとハーバーマスはいう。しかし、ナルシズムや神経過敏、思春期問題の先鋭化などの別の問題が生じてきているともいう。こうした新たな問題は、親の態度が一貫していないことにある可能性をハーバーマスは指摘する。たとえば「勉強するかどうか自由にしなさい」と口では言いながら、勉強しないと不機嫌な態度をとるといったイメージだろう。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,179-180p

【2】ハーバーマスの「マスメディア」とは

2つ目の側面である「マスメディア」とは、どういうことか。

まず、第一世代の批判理論家はマスメディアの発達に関して否定的だったという。昔のような真剣な公共的議論は、現代の画一的で中身の薄いマスメディアによって失われたと考えられている。

実際、ハーバーマスも『公共性の構造転換』(1962)において、市民はサロンやカフェ、新聞・雑誌などを通じて公開の場で批判的な討論を行い、社会的合意を形成していたが、現代社会ではそうしたあり方が忘れ去られていると指摘していた。

ハーバーマスは「メディア」という概念を2つの意味で使い分けている。

まずは、システムにおける「制御メディア」である。たとえば経済システムにおいては「貨幣」、政治システムにおいては「権力」が制御メディアとなる。生活世界のコミュニケーションにおいて、対話(言語)ではなく貨幣というメディアを通した売買が行為調整の代わりとなることを「生活世界の技術化」と表現することは先程学んだ。

一方で、「マスメディア」はシステムの制御メディアではない。ハーバーマスによればマスメディアとは「コミュニケーションの一般化された形態」だという。

言語による特定の意思疎通を「不要」にする、取って代わってしまう制御メディアではなく、「集約」しているという。それゆえに生活世界の文脈から離れていないという。日常生活におけるコミュニケーションの一般化されたものというニュアンスが強いというわけだ。

とはいえ、マスメディアは単に生活世界におけるコミュニケーションを集約する存在ではない。社会心理学で前回(1ワード社会心理学第十三回の動画)学んだように、意図せずとも情報が偏ってしまうこと、中立的ではなくなってしまうことがありうる。

スポンサーに配慮したり、特定の利益団体、権力団体に配慮して意図的に偏りをもたせる場合もありうる。

ハーバーマスはそれでも、「責任能力のある行為者が断固たる態度で介入し、抗議すればマスメディアの方もそれを回避し続けることはできない」と主張する。

たしかに、「オールドメディアは偏向報道をしている」と客観的な事実に伴う証拠をつきつけられ続ければ、メディア側も視聴者が減っていては維持できず、できるだけ中立的な報道、要約的な報道へと指向せざるをえないかもしれない。

とはいえ、偏向報道かどうかを判断できる情報源へのアクセス能力や、その判断能力が備わったものがどれだけいるかという問題もあるだろう。

事実かどうかはわからないが、「インフルエンサーが批判しているから正しい」といったような非合理的な根拠に基づく批判や合意が加速することをハーバーマスならよしとはしないといえる。とはいえ、インターネットにおけるニューメディアが、新たな生活世界の要約的なメディア、公共圏として機能しうる両義性を指摘するかもしれない。

そもそも、マスメディアは生活世界においてどのような機能をもっているのだろうか。

ハーバーマスにおいて、メディア(コミュニケーション・メディア)の最も基本的な機能は「コミュニケーション行為の負担軽減」だという。行為調整(社会統合)のなかでも、とくに「負担の軽減」に重点が置かれているということになる。

われわれは「普通はこういう意図だ」、「普通はこうする」という日常知を無意識的に、身体知のレベルで学習していることが多い。

例えば「電車では目線を合わせない」というマナーを私は誰かに直接的に教わったことはない。しかし誰もがやっているから、そうするものなのだろうと自然とやっているのである。あるいは「じっとみられて嫌だった」という他者の体験を対話で聞いたりして知っていくものであるともいえる。

そしてそうした日常知は生活世界に蓄積されているものであり、間主観的に自明なものとして共有されてきたものが多い。

その場その場で我々がどうすべきか逐一考えたり、対話によって合意しているわけではない。こうした事態を「コンセンサス(了解)の前貸し」という。我々がそういうものだと合意して決めたのではなく、「そういうことにどうやら昔からなっている」というタイプのものである。

しかし近代化が進むにつれて、価値観は多様になっていく。「あたりまえ」があたりまえではなくなっていく事態が増えていくのである。

たとえば「結婚して当たり前、異性のカップルが当たり前、終身雇用が当たり前、出社することが当たり前、男は外で働くことが当たり前、正月は神社が当たり前、テレビで情報を得ることが当たり前、和食が当たり前」といったような価値観は古くなりつつある。

「コンセンサスの前貸し」は素朴な前提であり、行為者自身が自分で内省したり、批判的に考えるといった機会は少ない。

近代化によって真善美が分離し、価値観が多様化したことでコンセンサスの不成立のリスクが増加していくが、しかし「自分で考える能力」、すなわちコミュニケーション的理性も発展していくことをハーバーマスはポジティブに捉えている。伝統だから、権威ある人がいうから、オピニオンリーダーがいうから、友だちがいうから、みんながしているからで単に前提としない時代であり、対話によって決めていこうというわけだ。

とはいえ、細かいことまでいちいち対話で決めていては日常生活がままならない。そこで、過剰な負担を軽減するためにコミュニケーション・メディアが機能するというわけである。いわば最低限のマナーなどの範囲を我々はそこで知ることができる。もちろんその範囲にたいして批判し、新たな合意を要約させるといったことも可能になるのだろう。

電車のマナーを特集したり、人々の声を取材したりすることで、人々の価値観を我々は知ることができる。一般書籍、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットにおけるニュースサイトなどもマスメディアである。

ときには「こうあるべきだ」とマスメディアの専門家が要約以上のことを述べることもある。あるいは偏向報道の可能性もある。

しかし、潜在的にはマスメディアに対して批判可能だとハーバーマスはいう。一方で、「制御メディア」を通した作動はなかなか批判しにくい。

たとえば「なぜこんなにある製品の市場価格が下がったのか、上がったのか」と、我々は何にむけて批判すればいいのだろうか。ある会社の社長だろうか、社員だろうか、原材料を生産する会社だろうか、あるいは戦争だろうか、あるいは自分たちの日々の営みだろうか、あるいはそれら全てだろうか。

システム全体を批判するにしても、システムが「わかった、ちゃんとする」と返事をするわけではない。システムにおける作動は、戦略的行為よりもより一層批判しにくい性質をもっているといえる。意図せざる創発的な結果として生じていることが多く、責任も分散せざるをえないのだろう(責任をとる中心が存在しない。政治は批判の受け皿にすぎない。)。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,183p

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993),52-54p

【3】ハーバーマスの「異議申し立て」とは

そして第三に、「異議申し立て」である。

異議申し立てとはようするに、不健全な生活世界の植民地化のあり方に対して批判する行動のことである。

生活世界からシステム世界への越境に対する抵抗、変革ということになる。

ハーバーマスは異議申し立ての種類について、伝統的なものをただ守ろうとしているだけの「退却的な要素」と、コミュニケーション的理性の領域を守ろうとしている「解放的な要素」に区別している。

退却的な要素とは、たとえば合理的な根拠、熟慮無しに、ただ昔からそうだという理由で従来の家族観、学校観、経済観、宗教観を保守したり、戻ろうと異議申し立てする立場である。単に自分が損をするからと税制に不満をいう場合もこのケースだろう。

解放的な異議申し立てとして、ハーバーマスは「環境運動や平和運動」をテーマとする青少年運動やオルタナティブ(対案提出)の運動の例をあげている。

1997年のアメリカのSF映画で『ガタガ』という作品があった。人類は人工授精と遺伝子操作によって、優れた能力をもった「適正者」とそうではない「不適正者」に区別されるというストーリーである。遺伝子だけで就職の成否が決まるような世界である。

たとえば技術の発展によって遺伝子が資本を稼ぐ能力に特化して類別されるとすれば、生殖という生活世界の領域にシステム領域が過度に侵食しているということになる。

こんな話ありえないだろうと思う人もいるだろうが、技術的にそういう世界もありうる世界に私たちはすでに住んでいるのかもしれない。人びとがコミュニケーション的合理性を失い、道具的合理性ばかりが発達した世界において、そうした技術を批判する人が少なくなる可能性がありうる。

たとえばAIが仮に生活世界にとって悪いものだとしても、それを使わない国は周りの国に置いていかれる。資本主義を採用しない国が置いていかれるようにである。

遺伝子操作を強行的に使う国が出てこないといいきれないのである。そして一度使われれば周りの国も使うようになり始める。核兵器すら使うような世界において、「そんな非道徳的なことはしないだろう」と素朴に我々は信頼することができなくなってしまっている。もはやわれわれの良心や意識といったもので「制御」できるような世界ではないのかもしれない。あるいは良心や愛すらもシステムに予想され、柔軟に利用されるのかもしれない(自分の国民を愛するゆえに核兵器を使うように)。

我々は自由に意識によって選択しているようにみえて、実は外堀を埋められ、主体的に選択せざるをえないようにされている可能性がある。我々は資本主義も、核も、AIも、そして原発も簡単には放棄できない。どんなに遠い危険が未来に待っていたとしても、近い未来に具体的な危険を回避するほうが先なのである。

我々は環境運動家に対してやかましいと感じ、アフリカの飢餓の募金に対して知ったことかと構えがちである。そんなことより自分の未来の確保であり、大事な人への援助であり、そして自分の国民への援助だというわけである。短期的な弧をとらえることを倫理的に責めることは難しい。

選挙において我々は自発的、主体的、熟慮的に選択しているつもりになっている。しかしあらかじめ用意された乏しい選択肢の中から選ぶ作業はほんとうに熟慮的だといえるだろうか。また、選ぶ情報はほんとうに全て公開されているのだろうか。

何が獲得すべき情報かについて我々はそもそも理解できているのか。選挙における選択が合理的な根拠に基づくものではなく、システム的な処理、単に権力側が用意した形式的な支持システムとなっていないといいきれるだろうか。我々は趣味や恋人、進学先をほんとうに主体的に選んでいるのだろうか。

フーコーは支配のあり方を、自ら主体的に支配を受けるようにするタイプとして語った。支配するものが見ていなくても、自ら服従し、それを自由だとすら感じさせるような支配である。

リオタールが、システムへの反抗もシステムにすでに予想されており、また柔軟に利用、対応されていると悲観したこととも関連している。

きっと誰かが、どこかで反抗しているのだから、世界のシステムは暴走しないだろうと我々は安心してはいないだろうか。そして反抗している人がどんな意図をもっているかについて、我々は理解しているだろうか。

たとえば芸能人の不祥事ばかりがフォーカスされることがある。ある領域への過剰な批判が意図的にフォーカスされ、他の批判が隠されている可能性がないといいきれるだろうか。

ある具体的な反抗が過剰に可視化されることによって、別の本質的に反抗するべきもの、反抗されたくない核心が隠蔽化される可能性はないだろうか。

あるいはそうした核心すらない、ルーマン的にいえばシステムの中心という、誰かを破壊すれば、システムのどこかを破壊すれば全てが崩壊するというような「敵」はいないという可能性はないだろうか。それぞれがそれぞれのルールで利己的に動いているだけで、全体を制御する支配者などいないのではないだろうか。

たとえば大統領を倒しても、別の大統領が代わるだけである。ある会社を倒しても、別の会社が役割を引き継ぐだけである。倒すべき相手がもしシステムだとすれば、それは一種の自己破壊なのかもしれない(システムの外に立てると思い込みがちである)。

しかし修正する方法が一切ないとは思いたくない。ハーバーマスのような希望はもっていたい。そしてその希望はできるだけ理論的な根拠に基づき、独断ではなく、合意形成的なものでもありたい。決断主義的だったり、単に非合理的であったりするだけでは危険であるという直観は理解できる。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,184p

参考文献リスト

今回の主な文献

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

汎用文献

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

大澤真幸「社会学史」

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新睦人「社会学のあゆみ」

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本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学 第五版

社会学

社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

クロニクル社会学

クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

参考論文

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]

嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)

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