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【1ワード社会学第十二回(6)】オースティンの言語行為論:ウィトゲンシュタイン、デイヴィットソンにおける「理由と原因の違い」とは
- 2026/3/11
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Contents
- 1 動画での説明
- 2 はじめに
- 3 オースティンの「言語行為論」
- 3.1 デイヴィットソンにおける「理由と原因の違い」とは
- 3.1.1 一般的な前提
- 3.1.2 ウィトゲンシュタインにおける理由と原因の区別
- 3.1.3 デイヴィッドソン「因果的説明と因果関係は厳密に区別するべきだ」
- 3.1.4 因果関係が帰納以外によって説明できることを認めるなら、理由によって因果的説明が可能
- 3.1.5 デイヴィッドソンにおける「欲求」と「信念」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 3.1.6 デイヴィッドソンによる解釈のルール:「寛容性の原理」、「総体的証拠の要請」、「自制の原理」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 3.1.7 デイヴィッドソンの「非法則的一元論」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 3.1.8 オースティンとデイヴィッドソンの接続
- 3.1.9 社会学における因果関係の扱い
- 3.1.10 目的に沿った結果と、副次的な結果の区別
- 3.1 デイヴィットソンにおける「理由と原因の違い」とは
- 4 参考文献リスト
動画での説明
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はじめに
社会学とはなにか
社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。
なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。
【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか
この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。
できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。
記事の分割
【1ワード社会学第十二回(1)】オースティンの言語行為論:行為と発話の違いとは
【1ワード社会学第十二回(2)】オースティンの言語行為論:事実確認的発話と行為遂行的発話
【1ワード社会学第十二回(3)】オースティンの言語行為論:「顕在的遂行発話」と「原初的遂行発話」の違い
【1ワード社会学第十二回(4)】オースティンの言語行為論:適切性の条件とは
【1ワード社会学第十二回(5)】オースティンの言語行為論:「発語行為」とはなにか
【1ワード社会学第十二回(6)】オースティンの言語行為論:ウィトゲンシュタイン、デイヴィットソンにおける「理由と原因の違い」とは(今回の記事)
【1ワード社会学第十二回(7)】オースティンの言語行為論:オースティンによる暫定的な発語内行為の分類リスト
【1ワード社会学第十二回(8)】オースティンの言語行為論:教訓
オースティンの「言語行為論」
デイヴィットソンにおける「理由と原因の違い」とは
※これを理解しないと他の話を曖昧にしか理解できていないことになると考え、コラム的に扱うことにする。今まで曖昧に「行為」や「理由」、「因果関係」という言葉を用いてきたので、いい整理となる。ウェーバー、シュッツ、マートンなどの理論にも深く関係する話である。
まずは一般的な前提を整理したあとで、デイヴィッドソン以前の立場を検討する(主にウィトゲンシュタイン)。
一般的な前提
もし聞き手Bが、「発話者Aが『その犬は危険だ』と言ったから、私は逃げた」と説明したとする。
この場合、発話者Aの発言が聞き手Bの行為の「理由(reason)」として説明されたことになるのか。それとも行為の「原因(cause)」として説明されたことになるか。
ここでいう行為は、主に「意図的行為」が想定されているといえる。脚を叩かれて反射的に脚を動いた場合は行為とみなされない。無意識的な行為はどうなのか、という問題は保留する(グラデーションがあると考える)。
いずれにせよ行為は(程度の差こそはあれ)主体的なものであり、選択的なものであるという前提があると考えるのが一般的な考え方だろう。
一般に、理由とは「行為をなぜそうしたかと説明するための動機、目的、意図」を意味する。行為がある理由のために遂行されたようなケースを「意図的行為」と呼んだりする。
日常的には、理由を説明することは意図(動機、目的)を説明することでもある。「なぜ、冷蔵庫のケーキを食べたのか」という質問にたいして、行為者は「お腹が空いていたから」や「好きなケーキだから」という意図を説明すれば、理由を説明したことになる。理由を説明するのは、主に「納得や理解、正当化」のためだということになる。「ルビーを盗んだのは、貧しい人達を助けるためだ」などは、行為に理解を求める言明だろう(普通、因果的な言明とはみなさない)。
もし完全に意図的な行為ではないとすれば、理由を説明できないことになる。たとえば、なぜ脚を叩かれて脚が動いたのか、私は「理由」をよく説明できない。すくなくとも、「脚を動かしたいと思った」からではない。脚を触られて脊髄反射的に脚が動くという事柄は「行為(action)」ではなく「出来事(event)」であるとみなされてきた。水が0度以下で凍ることが「出来事」であるようにである。
一般に、原因には「意図」が存在する必要はない。たとえば脊髄反射といったような物理的なシステムによって説明する場合、意図は説明に必要ない。水が氷る原因を、「水が凍りたいと思ったからだ」とは目的論的に説明しない。水が凍る原因は「分子運動が減少したからだ」といったように説明する。
一般に、「理由」ではなく「原因」と「結果」が結びついているような関係を「因果関係」という。
ある出来事(=原因)が生じることで、それに依存して別の出来事(=結果)が生じる関係のことである。<AがBを引き起こしている>といえるような関係である。
ウィトゲンシュタインにおける理由と原因の区別
哲学者のウィトゲンシュタインは、「私が腕を上げるという事実から、私の腕が上がるという事実を引くとなにが残るか」と問いかけている。
もし腕を上げるという事実から腕が上がるという事実を引いても残るものがあるとして、それをxとする。このxをどのように我々は見つけることができるのだろうか。たとえばウィトゲンシュタインは「試みる」といった心的作用、いわゆる「意思作用」のようなものでは問いへの答えに不十分だと考えている。
「心的な意志作用のようなものが引き算の結果として残ることはない」という答えが現代的には標準的な見解だという(オースティンの立場でもある)が、直感的には理解しがたい。
第三者が行為のみを独立的に観察すると仮定して、たしかに「手を挙げた」と「手が挙がった」を区別することが難しい。ここで重要なのは「意志」や「意図」が、行為の内部による部品や、身体動作に先立つ独立した出来事として考えられているわけではないという点である。
たとえば、「腕を上げた」が「意思+身体運動」によって構成され、「腕が上がった」が「身体運動のみ」によって構成されているとする。
「意思+身体運動」で構成されているなら、意思という要素は独立的に存在する必要がある。「意思という出来事」が生じたのはいつなのか、どうやって生じたのか。「意思という出来事」はどのような実体なのか。たんなる物理的な神経作用だとすれば、それは物理的な身体運動とどのように区別されるのか。
もし仮に、心的な実体など存在せず、なんらかの神経作用のみが存在するとすれば、「腕を上げた」と「腕が上がった」に本質的な違いはなくなる。どちらも身体動作であり、それらの動作がより複雑かどうかの違いだろう。
意思が「脳内の物理的実体」でも「心的な実体」でもないとすれば、それはいかなるものなのか。ウィトゲンシュタイン的に言えば、それは「ゲームのルール」が関係していることになる。
たとえば教室で授業をしているという文脈を考えてみる。この場合、我々は「腕が上がった」と「腕を上げた」という行為の違いを日常的に理解することができる。しかもそれは、物理的な神経過程の差でも、独立的な心的要素の有無の差でもない。
それは、「使われ方の差」である。同じようにみえる身体運動であったとしても、文脈やルールによって異なる身体動作として周囲に理解され、また自分でもそのように説明することができる。
意思は目に見えない心的要素を探しにいったり、目に見える脳内部品(電気信号の変化など)に探しにいくのではなく、ある行為が置かれている文脈に探しにいくということになる。その意味で、「腕が上がった」と「腕を挙げた」という事態の内在的な差はないが、外在的な文脈(社会的文脈)によって差(差異)が生じるということになるのだろう。文脈を外部から持ち出さない限り、「腕を挙げた」から「腕が上がった」を引いて残るものはなにもないということになる。
「意思があるから腕を上げるのではない。その運動を『腕を上げた』と呼ぶような言語ゲームを我々がプレイしているから、そこに意思があると説明できるのだ」ということになるわけだ。
もし心的実体や物理的実体に差があるとすれば我々は第三者としてそれを見ることはできないが、社会では我々は「彼には〇〇という意図があった」と見なしている。裁判官が「被告人は明確に相手を傷つける意図があったとみなす」と判断するようにである。裁判官は社会的慣習(ルール)を参照して意図を判断するのであり、脳内の動きを物理的に覗いたり、心的要素を特殊能力で読み取ったりするわけではない。
その根拠には「普通はそういう意図があると考えるからだ」というわけである。言語や行為が用いられる「状況」に焦点が当てられている。
第三者は見ることはできないが、行為をした本人は意図があることを感じているのではないか、としたらどうか。しかしこの場合も、本人は自分の心を覗き込んで意図という心的要素や物質を発見しているわけではない。
ある動作をどのような文脈に置くかという本人の宣言にすぎない。たとえば教室で、「質問があるから手を挙げたのではない、空を飛ぶために手を挙げたのだ」と本人が説明したとする(行為の前にせよ後にせよ)。それが社会的に普通の文脈ではなくとも、ある文脈に行為を置いているという点では変わらない。
ここまでの説明を整理すれば、「出来事と行為」、「原因と理由」は区別されるということになる。
それぞれは厳密に区別されなければならないというわけである。いわゆる「行為の理由は原因ではない」という「反因果説」の立場である(デイヴィッドソン以前の、20世紀英米哲学で支配的だった立場)。
ある出来事(身体動作)を意図的行為(身体動作+x)として特別に記述するためには、ウィトゲンシュタイン的に考えれば外から「文脈」を持ち出す必要がある。
しかし文脈を持ち出したところで可能になるのは意図を理由として位置づけることであり、意図を原因として位置づけることではない。両者はカテゴリーが違うのである(論理階型、抽象度が違う)。メニューの文字(理由)と、実際の料理(原因)を同じ扱いにはできない。
・特に参考にしたページ
吉田廉「行為と解明 アンスコムは 「反因果説」 ではない」(2021),200p
デイヴィッドソン「因果的説明と因果関係は厳密に区別するべきだ」
哲学者のデイヴィッドソン(Donald Davidson)は、「因果的説明と因果関係は厳密に区別するべきだ」という。そして、「理由による説明は因果的説明」になりうる」という。
ここでいう「因果関係」とは出来事cと出来事eの間に実際に存在するとされる結びつきのことである(出来事の間の、どのように記述されても変化しない関係のこと)。この因果関係は記述などの説明に依存しない。だれかが説明しなくとも、水は0度以下で凍るという因果関係には影響しないと想定されている。
因果関係が「事実」であるとすれば、因果的説明は「言明」である。たとえば「一般にAならばBだ。いまAが起きた。ゆえにBが起きた」といった法則的言明が因果的説明の代表格だといえる。伝統的な立場では、説明といえるためには帰納から得られる「法則」が重要だった(普遍性や再現性の重視。例えば、Aは空腹だったからケーキを食べたという事態は特殊的である。次の日には満腹でも食べているかもしれない)。
従来は、「AだからBである」というような理由を表す言明は因果的説明と見なされてこなかった。それゆえに科学的説明とみなされにくかったのである。「質問をしたかったから手を挙げた」という言明は因果的説明とみなされてこなかったのである(いわば理由的説明にすぎない)。
状況を限定して、何度ワイングラスを落としてもワイングラスが割れた場合を想定するとわかりやすい。
これは反証可能性を残す(n回目に割れない場合もありうる)のだが、しかし「継起の法則性、蓋然性が高い傾向」は得られる。このタイプの認識は相関関係(Aが起きるときにBも起きやすい関係)であることを排除できない。
因果関係はこのような継起の規則性以外にも、単称因果として認識されるタイプがある。つまり、「c(出来事)がe(出来事)を引き起こした」というケースであり、規則性や繰り返しを前提としていない(1回限りの出来事でも因果といえる)。※cはcause(原因),eはeffect(結果)の略。
単称因果は20世紀後半にアンスコムやデイヴィッドソンが哲学的な主張として因果的説明として扱いだしたという点がポイントである。それまでは因果は基本的に規則性として、哲学者のヒューム的理解を前提として考えられていた。つまり、継起の規則性による説明が主な因果関係の説明、つまり因果的説明と考えられてきた。
・特に参考にしたページ
太田雅子「因果的説明と因果関係」(1997),39p
吉田廉「行為と解明 アンスコムは 「反因果説」 ではない」(2021),200-201p
因果関係が帰納以外によって説明できることを認めるなら、理由によって因果的説明が可能
デイヴィッドソンは「因果関係は観察という帰納によって知られる。理由は観察によらず知られる」という主張を認めるが、「因果関係は帰納によってのみ知られる」という主張は認めないという。
もし因果関係が観察(帰納)以外の方法で知られるとするならば、理由が行為の原因であるということも認められるはずだという。なかなか小難しくて、わかりにくい。
- 原因とは、観察によって判明する一般法則に従うものである。
- 理由は心のなかにあるもので、一般法則として観察できるものではない。
- それゆえに、理由は原因ではない。
- 原因とは、「観察によって判明する一般法則に従うものである」とは限らない。
- 理由は心のなかにあるもので、一般法則として観察できるものではない。
- 理由が原因であることを「法則性の欠如だけ」を根拠に排除することはできない。
ようするに、理由が帰納的・法則的に観察できないというという点が理由を原因とみなさない点だったが、その前提が崩れるとすれば、理由を原因と見なせる余地がでてくることになる。
では、原因は法則的言明以外にどうやって知ることができるのか。たとえば「CがEを引き起こした」といえる場合である(単称因果)。たとえば反事実条件(「もしAがなかったら、Bは起きなかった」)は単称因果が成立すると判断するためのテスト方法である。しかしそれがどのように「理由を原因」と見なせることにつながるのか。
- 原因を「e(出来事)を引き起こしたc(出来事)」と定義する。この定義を満たすために帰納的法則を持ち出す必要はない(くり返し確認される必要はない)。
- 「ある理由が、ある行為を引き起こした」といえる(単称因果のクリア)。より厳密に言い換えると、「ある行為をその理由によって説明することが正当であるといえる」をクリア。
- 理由は原因でありうる。
・特に参考にしたページ
太田雅子「因果的説明と因果関係」(1997),39p
吉田廉「行為と解明 アンスコムは 「反因果説」 ではない」(2021),200-201p
大庭健 「乖離していく主体: 行為の因果説の帰趨」(2013),85-86p
デイヴィッドソンにおける「欲求」と「信念」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
デイヴィッドソンは理由を「欲求と信念という2つのセット」として考えている。これらはいわゆる「心的なもの」である。
欲求はより広く、「肯定的態度」と言い換えられることもある。欲望、衝動、出来心、多様な道徳的見解、美的な原理原則、貧富による偏見、社会的慣習、公共的あるいは個人的な目標と価値などもこのカテゴリーに位置する。「社会的慣習」がここに入ってくるのはオースティンの文脈では重要になってくる。
欲求(肯定的態度):「そうしたい」、「それを良いと思っている」という態度のこと。
信念:今自分がしている行為が、その肯定的態度を満たす行為だという認識のこと。
この2つを合わせたものをデイヴィッドソンは「基本理由」と呼んでいる。
従来の考え方では、理由は行為を正当化・合理化するための要素に過ぎなかった。行為を引き起こしたものではなく、行為を後からもっともらしく(理解可能な)説明するものにすぎない。
デイヴィッドソンは、理由は行為を正当化するためだけではなく、実際に行為を引き起こす原因である必要があると考えている。
たとえば傘の修理を頼む行為を、「私は老人を助けたいと思っている」という欲望と、「傘の修理を頼んで代金を払えば助けになる」という信念によって合理的に説明することはできる。
しかし、実際には「ただ傘を直したかった」だけかもしれない。つまり、行為を正当化しうる理由は多様にあり(別様にありうる、偶発的)、どれが実際の理由であったか非決定的なのである。それゆえに、正当化するだけでは行為を説明したことにはならない。行為を説明するためには因果的にも説明できる必要がある(両方を同時に満たすことが重要になる)。つまり、正当な理由のなかでも、主たる理由、これが実際の理由だというものを見つけなければならない。
基本理由の中で、特に主要な理由が行為を実際に引き起こした原因だとデイヴィッドソンは考えている。「行為を正当化する(主たる)理由は、行為の原因である」と主張しているわけである。
では、なぜ主たるな理由とわかるのか。「ある理由はある行為を引き起こした」と帰納によらず、どのような方法によって証明することが可能なのか。「老人を助けたい」ではなく、「ただ単に傘を直したかったから」が主たる理由だとどうしてわかるのか。
・特に参考にしたページ
木村正人「動機づけ理由と正当化: 現代行為論とシュッツ現象学」(2025),25p
吉田廉「行為と解明 アンスコムは 「反因果説」 ではない」(2021),201p
デイヴィッドソンによる解釈のルール:「寛容性の原理」、「総体的証拠の要請」、「自制の原理」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
物理的事象に対して扱うような帰納的手法をとることはできない。「同じ川に人間は二度入れない」というヘラクレイトスの言葉を私は思い出す。人間は同じ文脈に二度は入れないので、くり返しの実験はできない(昨日ケーキを食べたときの状況を全て再現することは難しい)。これは物にもいえることだが、物は変数の固定といった近似がより可能なのだろう。周りにいた友人や昨日あった出来事などを再現しなくてもよく、空気抵抗などが近似できればいい。
そこで、「ある行為の主たる理由は〇〇である」と解釈できるルールをいくつかデイヴィッドソンは設定している。寛容性の原理、総体的証拠の要請、自制の原理などである。心理的領域に帰納的法則を打ち立てることは難しいので、これらのルールに基づく「解釈」によって主たる理由を記述(説明)しようというわけだ。
寛容の原理:行為者を「合理的な主体」として解釈せよという規範的要請のこと。
総体的証拠の要請:行為者を「手元の情報をすべて考慮して判断する主体」として解釈せよという規範的要請のこと。
自制の原理:行為者を「自分が最善と思うことを実行する主体」として解釈せよという規範的要請のこと。
冷蔵庫にあるケーキを食べている人がいるとする。この人がケーキを食べた理由はなんだろうか。
もし合理的な行為者だと仮定すれば、「カロリーを失うために食べた」という理由は該当しないだろう(これが合理的だという状況もありうるが)。そもそも、行為者は空腹なのか。ケーキを食べていい文化に属しているのか。周りに誰かいるのか。ダイエットをしたいのか。こうした全体的なデータに合わせて、もっとも有力な理由を探す必要がある。
もしもっとも有力な理由があるのにもかかわらず、それを理由として選択しないという事態は考えにくいと想定する。同じくらい正当な理由が複数あったとしても、状況を限定していけば一つに絞れるのだろう。
このようなルールをもとに検討したうえで提出された「主たる理由」は行為の「原因」とみなしていいということになる。こうした理由が行為を実際に引き起こした因果連鎖の中に入っていると考えられるのである。
もちろん、非合理的な行為はどう説明するのか、意識の弱さ(アクラシア)の場合はどう説明するのか、逸脱因果事例はどう説明するのかといった問題もあるが、ここでは検討しない。
・特に参考にしたページ
大庭健 「乖離していく主体: 行為の因果説の帰趨」(2013),96p
デイヴィッドソンの「非法則的一元論」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
デイヴィッドソンは「行為の理由は行為の原因である」という主張を擁護する枠組みとして「非法則的一元論」を唱えている。
一般的には「理由は心の出来事であり、原因は物の出来事である」といったように二元論的に考えられがちである。実際、心の次元の出来事は物の次元の出来事のように帰納によって法則化できない。しかし、デイヴィッドソンは「同じ出来事(因果関係)を心の次元のルール(合理性)で記述しているか、物の次元のルール(法則性)で記述しているかの違いだ」と考えた(因果的説明のあり方が違うだけ)。それゆえに、「非法則的」であり、(同じ出来事という意味で)一元論なのである。また、「個別的理解」と「予測と制御」といったような説明の目的の違いもあるかもしれない。
・特に参考にしたページ
大庭健 「乖離していく主体: 行為の因果説の帰趨」(2013),89-90p
オースティンとデイヴィッドソンの接続
さて、オースティンの話に戻ろう。
もし仮に、「理由が原因である」と言えるならば、「Aの発話が理由となってBの行為を引き起こした」と言えることになる。つまり、「Aの発話が行為の原因である」と言えることになる。
たとえば誹謗中傷的な発話をされて、「仕事を辞める」という行為が生じた場合、発話が原因であったといえる場合があるということになる。つまり、発語内的拘束効果の原因は発話(発語行為・発話媒介行為・発話媒介行為が一体となったもの)にあるといえることになる。
従来の理解では、「発話」が「仕事を辞める」という結果に繋がったかどうかを因果的に説明することは困難であると考えられていた。仕事を辞めるという行為は意図的行為であり、人間の「意図」は因果的に説明しにくい性質のものであるからだ。
あくまでも、理解、説得力を高める機能をもつ「理由的な説明」にすぎない。それでも我々は日常的に、この理由的な説明も重視してきたと言える(因果的だとも日常的には考えられていたのだろう。)。デイヴィッドソンは理由説明 vs 因果説明という二分法そのものを崩したという点がポイントになる。
もっとも、寛容の原理や総体的証拠の要請のルールをどこまで解釈者が現実的に使いこなせるのかという問題はあるだろう。「手元の情報の全て」をどうやって我々は確認するのだろうか。そもそも合理的な主体とは、どのような主体だろうか。
オースティンは「真面目な発話」を基準に発話行為論を構築しようとした。非合理的な要素が強い冗談や詩を分析から除外しているのである。これは、デイヴィッドソンが「合理的な主体」という前提を置いたことと重なってくる。そうしないと行為を解釈することが難しいからだろう。
整理しよう。
(1)「その犬は危険だ」と話し手が言えば、「警告」という状態(発語内的成果)が慣習Aによって生じる。
なぜなら、それを「警告」だと考えるのがその社会・状況ではもっともだとみなされるからである。
話すことと、遂行された機能(力、警告という状態)は同時的であり、強い結びつきが生じている。しかしその結びつきを担保するのは慣習である。自然科学におけるような法則的な因果説明ではない。
しかし、発話が慣習によって力を生じるとみなすだけの主たる理由があるとみなされるなら、それは原因であるとみなすことができ、因果関係を説明する「因果的説明」であるといえる。いわば制度的因果だといえる。
(2)「警告という状態」が成立し、そのことで聞き手が「逃げる」という行為(発語内的拘束効果)を引き起こしたといえるかどうかは、慣習Aではなく慣習BやCによって生じうる。聞き手の信念や肉体的な強さといった非慣習的な要素も強く関わってくるゆえに、(1)よりも判定が複雑だといえる。
聞き手が「警告」を行為の理由=原因として見なすことができるためには、そういえる「主たる理由だ」だといえる必要がある。しかし、もしいえたなら、(1)と同様に、因果的説明だといえる(制度的因果よりも非制度的な要素がより関わりあっているのでより複雑な因果ではあるが)。
社会学における因果関係の扱い
社会学では因果関係をどのように考えてきたのかを見ていこう。
社会学者のマートンは「機能」を目的ではなく結果として捉えて考えている。発話にどんな意図や目的があるかは問題ではなく、実際にどのような行為がなされたかという結果が重要なのである。
もし「逃げる」という結果が生じたなら、発話には「逃がす」という機能があったこと仮定できる。目的を因果関係の枠組みでは捉えない立場がマートンの立場である(理解や特定の補助としては役立つとみなすが)。
結果によって発話の機能が推定されるとすれば、発話者の責任は結果に基づくということになってしまいかねない。
たとえば「その犬は危険だ」と発話したことで、<犬にわざと噛まれに行った>という結果が生じた場合、その発話には「犬に噛まれに行かせる機能があった」ということになってしまい、責任を問われかねない。もちろん、前提として発話だけにその機能があったのかという、複雑な問題もある。複数の原因があり、また最後の一押しにすぎなかったかもしれない。ある条件だけが原因であるというような差異法などを利用して検証する必要があるのだろう(これが社会科学では難しいのだが)。
【基礎社会学第三十五回】ロバート・K・マートンの実証的機能分析とはなにか
マックス・ウェーバーは動機を「行為者自身や観察者がある行動の当然の理由と考えるような意味連関」と定義し、さらに動機の意味連関を2つのタイプに分けている。
第一に、意味適合的連関である。つまり、思考や習慣の平均的なものからみて、普通は正しいというような動機のことである。
第二に、因果適合的連関である。経験的規則から見て、いつも実際に同じような経過をたどる可能性の度合いが高い動機のことである。「因果的説明」とは因果適合的連関の把握であり、「理由的説明(解明的理解)」とは「意味適合的連関」に相当すると考えることができる。
ウェーバーは理由的説明を因果的説明だとは思っていない。エスノメソドロジーやシンボリック相互作用論では、「平均」ではなく、対象者の仔細な状態を(対象者の気持ちになって)できるだけ実直に、偏見なく記述することがポイントになるといえる。
発話が客観的にどのような動機を内包しているかは、これらのいずれかの連関に依存するのだろう。
たとえば「その犬は危ない」という発話で「逃げる」という行為は、意味適合的に連関しているといえるとして、因果適合的に関連しているといえるか。いわゆる準客観性を高めるためには、どれだけ犬が危険か、聞き手は特殊な訓練を受けていない弱者かといった強い限定が必要になってくるだろう。あるいは同じような状況のケースとの「比較(差異法、比較対照実験)」が必要になる。
また、ウェーバーは目的合理的行為のタイプの理念型をもっとも重視している。
非合理的なタイプはそれらの理念型から索出することを基本戦略としている(非合理的なタイプではない、ということが合理的なタイプとの差異からわかる。理念型とどの程度現実がかけ離れているかという戦略である。合理的な理念型タイプそれ自体は現実に存在しないとされ、あくまでも理想の、抽象的なモデルである。)。
法律の世界ではいわゆる「相当因果関係」を満たしているかどうかがポイントとなり、法則的な因果的説明をする必要がない場合が現実の社会では多い。というより、社会科学では自然科学のような因果的説明をすることは困難である(例外のケースに近い)。それゆえにウェーバーは自然科学におけるような客観性ではなく、「準客観性、客観可能性」と表現したわけである。
相当因果関係とは、ある出来事や行為が、ある結果を生じることについて、社会的・慣習的・目的論的に妥当と考えられる因果関係のことである。「普通はどう捉えられ、どういう行為を促してしまうのか」を加味する必要があるといえる。
【基礎社会学第十四回】マックス・ウェーバーの社会的行為の四類型とはなにか
【基礎社会学第六回】マックス・ウェーバーの「理念型」とはなにか(概略編)
目的に沿った結果と、副次的な結果の区別
「目的に沿った結果(発話に慣習的結びついたもの)」と「副次的な結果(後続事、たまたま生じたもの)」を区別して考えてみよう。
たとえば「その犬は危険だ」という発話に通常の慣習によって込められている目的は<警告という状態の成立>であり、<警告という状態>が成立すれば一応は発話の内在的な目的が達成される。しかし、そこから継起して<逃げる>という結果が生じなかった場合、我々は「警告したが上手くいかなかった」などと表現する。警告は成立したが、全体として成功はしていないというわけだ。
しかし<逃げる>という結果も<逃げない>という結果も、発話本来の目的である警告状態の成立からすれば、副次的な結果であると考えることができる。聞き手の気分によっても逃げるという結果や逃げないという結果は影響を受ける。それに対して、聞き手の気分によらず、警告という状態は成立しうる。
しかし、警告状態の成立と「逃げる」という結果には深い関わりがあり、「逃げない」という結果には深い関わりがないと我々は考えることもできる。なぜそう考えるのかというと、聞き手が合理的な人物であるとすれば、逃げるという結果を選択するのが妥当であり、「警告的な言明を聞いたことが逃げた理由だ」と言明できるからだ。したがって、「警告的発話が逃げるという結果を引き起こした」といえ、「たまたま発話とは強い関係なしに生じた」とはいえないことになる。もちろん、どうやって証明するのかという現実的な問題は存在する。
・特に参考にしたページ
嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020),9-10p
参考文献リスト
今回の主な文献
J. L・オースティン (著), 飯野 勝己 (翻訳) 「言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか (講談社学術文庫 2505)」
J. L・オースティン (著), 飯野 勝己 (翻訳) 「言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか (講談社学術文庫 2505)」
汎用文献
佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」
大澤真幸「社会学史」
新睦人「社会学のあゆみ」
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
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