【1ワード社会学第十四回(1)】アンダーソンのナショナリズム論概略

ベネディクト・アンダーソン

動画での説明

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はじめに

社会学とはなにか

社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。

なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。

【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか

この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。

できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。

動画の分割

今回は試験的に動画内容を細かく分割する(全体が長過ぎるため)。

この動画は第1回目であり、全15回を予定している。

(1)概要、整理
(2)想像の共同体とは
(3)出版資本主義とは
(4)無名戦士の墓とは
(5)メシア的時間
(6)均質で空虚な時間
(7)複製技術の時代
(8)ナショナリズムの起源
(9)ナショナリズムの変化(海賊版)
(10)人種主義とナショナリズムの違い
(11)アンダーソンの分析手法の整理
(12)ベンヤミンにおける「歴史の天使」とは
(13)ナショナリズムを維持する装置
(14)ナショナリズムの倫理性
(15)教訓

概要(要約)

基礎用語の説明

POINT

想像の共同体(英:imagined community):成員同士が直接知り合っていなくても、自分たちが同じ共同体に属していると想像することで成立する共同体のこと。

想像の共同体自体は昔からあり、宗教的共同体、王国的共同体などさまざまな想像のスタイルが存在している。原始共同体ですら、そうした側面があるという。

ベネディクト・アンダーソンによる『想像の共同体』(1983)という著作で念頭に置かれているのは、近代以降に特有の想像のスタイルによる共同体である、「想像の政治共同体」である。

POINT

想像の政治共同体「有限性」、「主権性」、「共同性」という3つの近代特有の仕方で、心のなかに想像された共同体のこと。「ネーション(国民)」とほぼ同義。

ナショナリズムは「ネーション(想像の政治共同体)に対して愛着をもつ(価値づけを行う)言論や実践の集合」であると定義することができる。

POINT

有限性としての想像共同体は「境界をもつ限定された集団」とみなされる想像のスタイルのこと。

POINT

主権性としての想像共同体は「集団のひとりひとりが主権的な存在(最高の意思決定主体)」とみなされる想像のスタイルのこと。

POINT

共同性としての想像共同体は現実には不平等があっても、心の中では「深い愛によって結ばれた対等な仲間同士」だとみなされる想像のスタイルのこと。

POINT

出版資本主義(英:print capitalism):印刷技術と資本主義が結びつき、印刷物が大量生産・販売されるようになった社会的システムのこと。

特に、中世においてラテン語(ごく一部のエリートが用いる各国の共通語)から俗語(地域ごとにしか伝わらない母語、方言)へと出版語が拡大されてきた点が重要である。さらに行政語もラテン語から俗語へと切り替えられていった。このようにして大量の人間が俗語による出版物を同時的に読むという体験が可能になっていったのである。

POINT

人間の言語的多様性(英:human linguistic diversity):人類が単一の共通言語ではなく、多数の異なる言語に分かれて存在している状態のこと。

アンダーソンはこれを「宿命(容易に変えられない社会の性質)」であり、資本主義でさえも克服できなかったと考えている。

POINT

複製可能性同一の形式を大量に反復できること。

モジュール、引用、海賊版、模倣などは「(印刷のような)単なる反復」ではなく、変容が含まれている。他の空間や時間、文脈において部分的に取り入れられること、模倣できることも「複製可能性」と広義に解釈する。

一方で、模倣/真正、起源/派生といった主体性に基づくナショナリズムの二分法をアンダーソンは避けている。

アメリカの独立運動もフランス革命も、特定の誰かが意図的・主体的・計画的に創り出したモデルではないからである。それゆえに、特許権や著作権といった「真正性や起源性」が強く帯びることはない。

諸個人の大量の経験や条件の偶然の重なりにおいてナショナリズムは創発的に生じ、事後的に「あれはナショナリズムであった」と言語化、対象化され、構築される。

さらに時間がたち、「あれはこういうものだ」と部分的に理念化(モデル化)されて「出版物」を通して流通し、模倣されていくという理解なのである。たとえば独立運動者(クレオール)たちが現地民の反抗に恐怖心をもっていたといった要素、アメリカにおいて奴隷制が実質的に続いていた要素は捨象されていく。

POINT

クレオール・ナショナリズム(英:Creole nationalism):ヨーロッパの宗主国ではなく、アメリカ大陸の植民地で生まれた白人エリート層(クレオール)を中心に形成された初期ナショナリズムのこと。

POINT

クレオール(英:Creole,仏:Créole,西:Criollo):ヨーロッパ系の人々の子孫で、宗主国ではなく植民地(特にアメリカ大陸)で生まれた人々を指す歴史用語のこと。宗主国で生まれた人びとは「ペニンスラール」と呼ばれる。

POINT

クレオール的巡礼植民地生まれの官僚が縦方向にも横方向にも出世を制限された範囲内で勤務と移動を繰り返す儀礼的上昇移動のこと。

ペニンスラールとは違い、基本的に宗主国へと移動して出世する道は閉ざされており、かつ植民地内でも上昇には一定の壁がある(トップになりにくい)。

クレオール的巡礼はクレオールナショナリズムの発生において重要な前提のひとつであるといえる。しかし、それ単体ではナショナリズムを生じさせたわけではなく、出版資本主義との交差が決定的に重要である。

POINT

俗語ナショナリズム(英:vernacular nationalism):ラテン語のような超地域的言語ではなく、各地域の俗語を基盤として形成されたナショナリズムのこと。

「第二世代の民族言語的ナショナリズム」とも表現されることがある(第一世代としてクレオールナショナリズムが位置づけられている)。辞書編纂、歴史の編纂、王朝の行政俗語の採用などを通して民衆を中心に広がる、半ば無自覚的なナショナリズムであったという点がポイントである。

POINT

公定ナショナリズム(英:official nationalism):王朝帝国が既存の支配を維持するために、ネーションと王朝帝国を意図的に結びつける形で形成されたナショナリズムのこと。

俗語ナショナリズムへの応戦として発展したという時系列が重要である。俗語ナショナリズムにおいて、「主権は人民にある」とか、「共和制が望ましい」といった思想が広がりつつあり、王朝側は危機に直面していた。たとえばロマノフ王朝は自分たちが「ロシア人」であることを強調し、「ロシア語」を教育において採用することを義務化していく「帝制ロシア化」が代表例である。

POINT

植民地ナショナリズム(英:colonial nationalism):新世界(アメリカ大陸)でも旧世界でもなく、主に「第三世界(アジア・アフリカなど)の植民地」における固有の仕方で形成されたナショナリズムのこと。

新世界の植民地におけるナショナリズムとの違いとして、「交通、通信技術の発達」、「現地の知識人層による独立運動の主導」、「旧来の多様なナショナリズムのモデルの利用」、「公定ナショナリズムの実施」などが挙げられている。特に、「人口調査・地図・博物館」という3つの統治技術が特徴的である。

2つの問いと回答

2つの問い

『想像の共同体』(1983)によってアンダーソンが明らかにしようとしている点は以下の2つの問いに整理できる。

(1) ナショナリズムは歴史的にいつ、どのように「文化的人造物」として成立し、展開していったのか。

つまり、「ナショナリズムの起源と流行を明らかにしようとしている。

特に、どのような「社会的条件」のもとでナショナリズムが可能になったのかについてアンダーソンは中心的に取り組んでいる。こうした立場は「社会構築主義的アプローチ」と呼ばれることがあり、本質主義とは対照的である。

(2) ネーションは人々が想像力によって発明(構築)した「文化的人造物」にすぎないものであるにもかかわらず、なぜ死を伴うような心からの自己犠牲的な愛着を呼び起こすのか。

出版資本主義の発展などの社会的条件によって、社会の変化や意識の変化が生じ、ネーションが人々の間で生じたことは説明できる。しかし、人びとがネーションに対してこれほど深い愛着を感じることについて、これらの説明だけでは理解できない(奥行きまでは説明できない)。構築主義とは異なる説明が必要になる。

第一の回答

まず第一の問いの回答について端的にまとめる。

ネーションという新しい想像のスタイルを可能にした条件は、「出版技術」、「資本主義」、「人間の言語的多様性という宿命性」のなかば偶然の、爆発的な相互作用である。

資本主義だけ、出版技術だけ、人間の言語多様性だけでもネーションは生じなかったわけである。3つの組み合わせにおいてはじめてネーションを成立させる十分条件となるとおおまかに理解することができる。

ただし、この組み合わせは十分条件であって必要条件ではない。たとえば「資本主義、通信技術、人間の言語多様性」の組み合わせでもネーションは生じたかもしれない。資本主義ではなく、別の経済システムでもネーションは生じたかもしれない。アンダーソンは本質主義的、進歩主義的な視点で現象を捉えていない。

なぜ18世紀末のアメリカ大陸で最初にナショナリズムが生じたのか。

言語も文化も違う「原住民とクレオール」たちがなぜ「我々国民」として定義され、なぜ言語も文化も同じ「クレオールとペニンスラール」たちが対立し、「我々ではなく彼ら」という意識が生じていったのか。

たとえば南アメリカ独立運動の中心人物であり、クレオールであるサンマルティンは1821年に「今後、原住民を、インディオ、土民などと呼んではならない。かれらはペルーの子にしてかつ市民であり、ペルー人として知られるべきである」と宣言している。

身分、人種、歴史や言語すら超えて、「我々国民」という意識、「ペルー国民」という政治共同体が抽象的に想像されている。南アメリカではこの時期の前後において18もの別々の国家が独立していった。国家がどの範囲で独立するのかという問題は、植民地行政区画や政治的巡礼の範囲と深く関連していた。 

たとえば印刷業者がジャーナリストを兼ねているのは北アメリカ特有の現象であったという。

多数の地方新聞が発行され、初期の新聞では植民地国のニュースと宗主国のニュースの両方が掲載されていた。ただし、宗主国では植民地国の新聞はほとんど読まれない。一方で、クレオールたちは宗主国の新聞を読んでいる。

最初の頃は新聞に政治的要素は少なかったという。しかし、大量に複製された新聞を、同時期に、同じ行政区画の出来事を共有することで読者集団のあいだに想像の共同体が形成されていた。

とくに北アメリカ(イギリスが支配していた範囲であり、後のアメリカ合衆国である)は行政範囲が狭かった点がポイントである。独立運動前において小説の出版は乏しく、中産階級や知識人は少なかったという特徴も抑えておく必要がある。独立を主導した層は多数の大地主、少数の商人、さまざまな専門的職業者(法律家、軍人、地方の役人など)だったという。

印刷業者だけではなく、地方役人(クレオール)の役割も重要だった。

ただし、「出版技術、資本主義、人間の言語的多様性という宿命性のなかば偶然の、爆発的な相互作用」が整うまでは、クレオール的巡礼は「想像の政治的共同体(ネーション)の形成になんら決定的な帰結をもたらさなかった」という。アンダーソンがあくまでも重視する条件はこの3つなのであり、この3つを前提として様々な要素が促進され、あるいは発現していくのだといえる。

とくにアンダーソンがナショナリズム成立の根源として重視するのは「比較の意識」である。

『比較の亡霊』(1998)においては「取り憑かれたかのように他の対象を比較せずにはいられない、めまいのような意識」であると表現されている。この「比較可能性」を高めた社会的条件、特に「技術」が重要になる。

植民地で生まれたというだけで出世できないクレオールは、宗主国から派遣されてくるペニンスラール(宗主国生まれの西洋人)と自分たちと「比較」してしまう。

行政的な巡礼においても、同じ(出世できない)境遇のクレオールたちと出会うたびに、「同じ不遇の我々」という意識がより集団的に生じていく。なぜ同じような言語と文化をもち、能力をもっているのにもかかわらず出世が閉ざされているのか、差別されるのかと意識されていく。

また、クレオールは宗主国の新聞も植民地の新聞も両方読み、「彼らではない我々」の存在を強く意識するようになっていく。原住民との比較ではなく、「同じ西洋人であるのに違う西洋人である」という比較が重要である。

マートン的に言えば準拠集団としてペニンスラールが重要だったのだろう。同じ部分が多いほど差異が目立ち、しかも生まれは努力で変えられないという宿命性をもつ。また、AでもBでもない、「境界」に位置することの効果として、イギリスの文化人類学者であるヴィクター・ターナー(1920-1983)のリミナリティやコミュニタス概念が参考になる。

さらに「統治技術」として、そもそも官僚制が「兌換性」という特徴をもっていた点が重要である。

封建制で重視されていた血統ではなく、能力が主に出世に影響するのであり、逆に言えば能力さえあればどの地域でも役人の代わりがきくようになっていく。ただしクレオールは生まれで差別されたことが重要である。公定ナショナリズムにおいても、「同じ国民である」という兌換性と「我々(王族)は常に支配する権利をもつ」という非兌換性が存在した。第三世界では西洋的教育を受けた現地人が官僚として採用されていく(開かれている)が、出世の道は閉ざされていた。

人的兌換性は「文書の兌換性」が補強した点も抑えておく必要がある。「標準化された俗語」が国家の行政語に採用されることにより、A地区ではX言語、B地区ではY言語といったバラバラな状態が整理されていく。

ラテン語は兌換がききやすい一方で、他国への人材流出という危険があった。これに対して俗語は、国家内部に人材を囲い込みやすい。まず出版俗語が広まり、その後、統治上の利便性から国家がそれを行政俗語として採用していくという時系列が重要である。

「統治技術」、「出版技術」、「資本主義(経済技術)」に共通しているのは「複製可能性」である。兌換性、均一性、抽象性、複数形といった近代特有の「新しい意識の枠組み(認識枠組み)」が重要である。

技術の変化が新しい意識のあり方を可能にした説明方式をアンダーソンは重視する。

ナショナリズムは一度成立すると、他の国において成功モデルとして反復・模倣されていく。

※図はざっくりとしたイメージ

第二の回答

次に、第二の問いの回答について端的にまとめる。

ナショナリズムには前近代において宗教や王国が担ってきたような「偶然性に伴う苦しみ」を緩和させる機能がある(ナショナリズムの魔術)。

ネーションは古来からあり、未来においても永遠に続いていくかのような「原初性」、「自然性」、「連続性」、「同時性」、「純粋性」、「ゲマインシャフト(共同体)の美」といった感覚を人びとにもたらしている。この感覚によって人びとは生きる意味や死ぬ意味を了解し、それらに対して自己犠牲を厭わない、無私的な愛着をもつ。

純粋性、共同性、自然の絆、共同体の美といった感覚はさまざまな条件によって生じる。

必要条件ではないが、典型的な条件として「言語」が挙げられている。言語は起源がわからないほど古来から形を変えながらも続いてきたものであり、「自然」に存在するかのように感じられる性質をもっている。また、国歌斉唱や出版物を通して、「同時性の経験」が想像によって形成される点が重要である。顔も性格も知らない匿名的な大勢の仲間たちが同じ言語の国歌を斉唱し、出版物を読んでいると想像する経験が人びとを強く結びつけるのである。

ナショナリズムの倫理性

アンダーソンはナショナリズムに「愛・包摂・解放」的側面がある一方で、「排斥・排除・支配」的側面があることを『想像の共同体』(1983)では主張していた。

ナショナリズムは「両義的な現象」なのであり、限定と無限定、具体と抽象などの二分法のどちらか一方には収まらない性質をもっている。アンダーソンの言葉を使えば、「ネーションは同時に開かれかつ閉ざされたものとして立ち現れてくる」。

ネーションが文化的人造物であるのにもかかわらず、自然なものとして意識され、現実的な力を強くもつ現象もこの両義性と関連している。また、開かれ、かつ閉ざされた条件においてナショナリズムが発現してきたという点もポイントだろう。

ネーションは言語を通じて人々の参加に開かれており、その意味においては、想像によって無限に連帯することが可能である。しかし一方で、ネーションは「自然なもの」、「選択を許さないもの」、「限定的なもの」であるかのように、閉じたもの、宿命的なものとしても意識されている。

「閉鎖性」を一切失ってしまえば「境界(差異)」が曖昧になり、ネーションを維持できない。しかし「開放性」を一切失ってしまうと、ネーションは排斥や差別と強く接続してしまう可能性がある。

ナショナリズムが「閉鎖性」に傾き過ぎている時、人はナショナリズムを排他的で「危険」だと感じてしまう。

一方で「開放性」に傾き過ぎている時、人は「自分の依拠するアイデンティティを見失った」ように感じてしまう。「なんでもあり」と「こうでしかない」の間のバランスをどうとるかが重要になる。たとえば第二次世界大戦のナチスドイツによるホロコースト(大量虐殺、絶滅政策)は「閉じすぎている」ケースであるといえる。今後AI技術の発展によって翻訳可能性などが高まり、グローバル化が加速し、「開き」に傾きすぎてしまうこともあるかもしれない。

アンダーソンは後の著作である『比較の亡霊』(1998)において、宗教とナショナリズムの違いを説明することを通して「ナショナリズムの倫理性(善性)」を主張している。

宗教の場合は「自分の宗教は間違っているか」という問いは自家撞着だが(なぜなら正しいと信じることが宗教の基本的な前提だから)、ナショナリズムの場合は「自分のネーションは間違っているか」という問いが意味をなす。

しかし、ネーションが「間違っている」と判断するためには、比較対象となる「あるべき正しい姿」が必要になる。

アンダーソンはそれを「社会的な違いをすべて取り除いた理想像」として考えている。過去の死者や現在の子ども、未来でこれから生まれてくる人々といったような「無垢な存在」、「単色の純粋性」として想像されるネーションである。

「純粋な理想の想像の共同体」と、「自分たちの(不純な)現実の想像の共同体」を比較すると、「恥」を感じることができるという。

そしてこの恥をできるだけ取り除こうとする精神、意思が生じることになる。この実践において「善性」が宿るのであり、善性を生じさせるゆえにネーションは「倫理性(倫理的機能)」をもつ。「到達できない理想に向かって行為を繰り返すこと自体に価値がある」という実践の反復において倫理性が宿るのであり、具体的で個別的な内容に基づいて倫理性が宿るわけではない。

ナショナリズムの理想が「開放性と閉鎖性のバランス」にあるとすれば、時代ごと、空間ごと、文脈ごとのバランスをうまく取り続けていかなければならない。

またそれゆえに「まさに今・ここ」で修繕を考え、実践しなければならないのであり、「いつか到来する完璧な理論や実践」を単に待ち焦がれているわけにはいかない。かといって焦って、短絡的な決断や懐古主義に走るわけにもいかない。

ドイツの哲学者であるヴァルター・ベンヤミンは「一度定立された規範は、それ自体を維持することを目ざして暴力を発揮し続け」と述べている。

アンダーソンはベンヤミンの思想に強く影響を受けている。アンダーソンが描く理想は、ベンヤミンのメシア的世界の理想に似ている。

アンダーソンが「無垢な存在」といったように極めて抽象的な形で理想を語るのはそうした理由で考えることができる。

哲学者のイマニュエル・カント的にいえば「規制的理念」として想定されることになる。善性は「超越的な善性」として彼方に想定されるが、彼岸には設定されない。

映画などの複製技術は戦争のプロパガンダに使うこともできれば、理想へのテストや庶民への芸術の解放、新しい感覚の到来としても捉えることができる。ナショナリズムもそれ自体で間違っているとか、正しいということはないのだといえる。

ナショナリストは勝者の歴史を特定の目的、たとえば「国民の一体感を高めるため」に積み上げることがある。都合の悪い出来事は忘却したり、捻じ曲げたりすることがある。こうした過去志向は「閉鎖性」に傾いている。

一方で、歴史の一切から目を背け、遠い未来ばかりを楽観して待つ未来志向もまた、「開放性」に傾きすぎてしまっている。

現時充足的な時の志向は素朴で健全なものに思えるが、しかし現代社会の多くでは未来と過去の双方に目を向けなければ生きていけない(物質的豊かさや多様性を保持しようとすればなおさら)。大事なのは「未来と過去に目を向けてしまうこと」ではなく、「未来と過去への目の向け方」なのである。たとえば、ベンヤミンは抑圧され、忘却された過去を現在へと接続することで過去を救済し、またそうすることで新たな未来へと志向しようとしたと解釈することができる(ハーバーマスの解釈)。

過去志向と未来志向の平衡性(バランス)をどうとるかも、ナショナリズムの両義性における平衡性と深く関わっている。

平衡性を抽象的に、繊細にどのように表現できるのか、理論化できるのか、またそうした平衡性をそもそも目指すべきなのかを検討する作業が必要になる。その一つがアンダーソンのナショナリズム論だと私は理解した。

アンダーソンはベンヤミンの「歴史の天使」を引用した直後で、「この天使は死なない。そして、我々の顔は前方の未明へと向けられている。」と言った。

我々は常に既に不完全であり、完全なバランスをとることができない。しかしそれでも前を向いて生きていかなければならない。「限定されたメシア的能力」のもとで最善を尽くすために、いかなる理論を整備するか、いかなる可能性と柔軟性のある資源を確保できるかが学問の役割として求められていると私は考える。そのような「希望」がなければ学問を続けることができない。

最後に、ウェーバーの文章を引用して終わる。

しかし、いつか色彩が変わる。無反省に利用された観点の意義が不確かとなり、道が薄暮のなかに見失われる。大いなる文化問題が、さらに明るみに引き出されてくる。そのとき、科学もまた、その立場と概念装置とを換えて、思想の高みから事象の流れを見渡そうと身構える。科学は、ただそれのみが研究に意味と方向とを示せる星座を目指して、歩みを進める。」(マックス・ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』160-161P)

参考文献リスト

今回の主な文献

ベネディクト・アンダーソン (著), 白石隆 白石さや (翻訳) 「定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行」

ベネディクト・アンダーソン (著), 白石隆 白石さや (翻訳) 「定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行」

ベネディクト アンダーソン (著), 糟谷 啓介 (翻訳)「比較の亡霊: ナショナリズム・東南アジア・世界」

ベネディクト アンダーソン (著), 糟谷 啓介 (翻訳)「比較の亡霊: ナショナリズム・東南アジア・世界」

ヴァルター ベンヤミン (著), Walter Benjamin (原名), 浅井 健二郎 (翻訳), 久保 哲司 (翻訳) 「ベンヤミン・コレクション (1)」

ヴァルター ベンヤミン (著), Walter Benjamin (原名), 浅井 健二郎 (翻訳), 久保 哲司 (翻訳) 「ベンヤミン・コレクション (1)」

J.(ユルゲン) ハーバマス (著), 三島 憲一 (翻訳) 「近代の哲学的ディスクルス I 」

J.(ユルゲン) ハーバマス (著), 三島 憲一 (翻訳) 「近代の哲学的ディスクルス I 」

汎用文献

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

大澤真幸「社会学史」

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新睦人「社会学のあゆみ」

新睦人「社会学のあゆみ」

本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学 第五版

社会学

社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

クロニクル社会学

クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

参考論文

原田一美,「「ナチズムと人種主義」考(1) : 20世紀初頭までの系譜」(2006)[URL]
・人種主義の参考に

牲川波都季「『想像の共同体』 試論: ナショナリズムにおける言語の役割に着目して」(2005)[URL]
・アンダーソンの主張の参考に

粟津賢太「記憶と追悼の宗教社会学: 追憶の共同体をめぐる考察」(2015)[URL]
・ナショナリズム全般の参考に、特にウェーバー

竹内詩織< 査読付研究ノート> 1980 年代のナショリズム研究とローカリティ接続の試み:「創られた伝統」 と 「想像の共同体」 からの系譜(2022)[URL]
・アパデュライの主張の参考に

竹内詩織「<査読付論文>二項対立からの脱却を目指すということ:ノンダモンの視点から戯曲『タージマハルの衛兵』を記述するという試み」(2021)[URL]
・アパデュライの主張の参考に

大森いさみ 「「感覚」をつなぐ媒体としての食物:テレビ番組「今日の料理」をとおした「味」の共有」(2014)[URL]
・アパデュライの主張の参考に

梅森直之「想像の共同体」 以後のナショナリズム研究(2006)[URL]
・「比較の亡霊」の参考に

三尾稔「人類学における比較とナショナリズム: 比較の視線の転回を求めて」(2010)[URL]
・「比較の亡霊」の参考に

蔡悦「中国におけるファンダム・ナショナリズム: 現状と発展要因の考察」(2025)[URL]
・中国におけるナショナリズム論の参考に

山口裕之「歴史の天使が現れる世界ーあるいは, ベンヤミンのメシアニズムにおける二つの時間構造について」(2015)[URL]
・メシア的時間、歴史の天使の理解の参考に

三宅晶子 「ベンヤミンの< 想起> と私たち三宅晶子最終講義 (2020 年 1 月 28 日) II. テクストにおける 「想起」(2020)」[URL]

・ベンヤミンテーゼの理解に

上田廣美「ベンヤミン 「複製技術時代の芸術作品」 を読み直す」[URL]
・ベンヤミンの「複製技術の時代」の参考に

新倉 貴仁「海賊版としてのナショナリズム : ナショナリズムとメディアをめぐる理論的視座の構築」(2008)[URL]

-アンダーソンの構築主義的アプローチについて参考に

新倉 貴仁「ナショナリズム研究における構築主義 ベネディクト・アンダーソンの知と死」(2008)
[URL]

-アンダーソンの構築主義的アプローチについて参考に

遠藤英樹「ツーリズム, 創造性, オーセンティシティ」(2002)[URL]
– ヴィクター・ターナー関連
板東充彦, 飯嶋秀治, 髙橋紀子「社会科学分野におけるコミュニティ研究の概観─ 臨床心理学的コミュニティ・アセスメントへの接続─」[URL]
– ヴィクター・ターナー関連

土佐昌樹 「リミナリティと東アジアの近代性をめぐる理論的ノート」(2024)[URL]
– ヴィクター・ターナー関連
– アガンベンのホモ・サケル

井口由布「B・アンダーソン 「想像の共同体」 再考:「文化」 概念の脱構築:「文化」 概念の脱構築: 報告 2 (< 企画> シンポジウム: 世界システムの変容と地域研究の再定義)」(2004)[URL]
– アンダーソン関連

三宅晶子「「小さな門」 は開くのか?-ヴァルター・ベンヤミン 「歴史の概念について」 最後の言葉」(2002)[URL]
– 「歴史の天使」関連

鳥光美緒子「ベンヤミンは実存哲学者か?(コメント論文, 歴史に非常ブレーキをかけるもの-歴史の天使が眼差す行方-, Forum 1)」[URL]

– ベンヤミン関連、特にハーバーマスのベンヤミン解釈

小野 文生「夜が織りあげたものを昼がほどく : シェリングとベンヤミンをめぐる「交感の非歴史的テーゼ」の序にかえて(コメント論文,歴史に非常ブレーキをかけるもの-歴史の天使が眼差す行方-,Forum 1)[URL]

池田 全之「歴史に非常ブレーキをかけるもの : 歴史の天使が眼差す行方(報告論文,歴史に非常ブレーキをかけるもの-歴史の天使が眼差す行方-,Forum 1)」[URL]

井尻 直志「『密林の語り部』とナショナリズム小説—語りの構造をめぐって—」(2014)[URL]
– ベンヤミンの均質で空虚な時間意識の参考に
– アンダーソンの均質で空虚な時間意識の理解、及び「小説」についての理解。とくにジョナサン・カラーの主張。

浜 日出夫「記憶と場所 近代的時間・空間の変容」(2010)[URL]
– 時間意識の変遷について参考に

長谷正人「複製技術時代における思考の可能性-ベンヤミンの複製芸術論を読み直す」(2019)[URL]

菅谷優「ベンヤミンにおける習慣化の契機について」(2024)[URL]

佐藤貴史「問いとしての余白 拙著 『ドイツ・ユダヤ思想の光芒』 をめぐって」(2017)[URL]
– ユダヤ神秘教について

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