【創造技法第8-2回】「思考の不法侵入者」がない作品は退屈

発散技法

動画での説明

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はじめに

創造技法の位置づけ

図で整理したものがこちら。

※詳細は第一回や創造発見法の記事で説明している。

問題解決技法を整理すると下の図のようになる。

今回扱う創造技法は「発散技法」あるいは「態度技法」に位置づけられる。

※発散技法とはアイデアをたくさん出していく技法のこと。

記事の分割について

記事を分割しています。

 

 

「不法侵入」がないとどうなるか

既存の作品から衝撃を受けていない作品はつまらない?

「『権威は思考の自由を妨げる』という命題は必ずしも妥当しない」

社会学者の大澤真幸さんは「『権威は思考の自由を妨げる』という命題は必ずしも妥当しない」と主張している。

たとえば心理学ではフロイトのテクストは「権威」と見なされることが多い。しかしフロイトのテクストに一切執着せずに、権威に拘束されずに自由に研究したほうが実り良い結果がもたらされるはずではないかと素朴に考えられる。

フロイトに執着するとフロイトの二番煎じのような考えになってしまう。あるいはフロイトの理解だけで大半の時間が失われてしまうかもしれない。過去の権威に縛られないことで、もっと独創的で実用的な見解が生まれるわけだ。

しかし、「しばしば自由なはずの研究は、権威に拘束された探求よりもはるかに浅薄な命題しか導きだせない」と大澤さんはいう。フロイトのテクストを反証可能な仮説の一つとしか見なさないような実証主義的心理学は貧相なことしか主張していないと大澤さんは評価している。

たとえば現代において心理学で重要な位置を占めているジャック・ラカンはフロイトの理論に執着した人物であるとされている。

ラカン以外の心理学者がフロイトの心理学を「知らない」ということではない。単なる仮説のひとつにすぎないと「軽視している」点にある。

知識としてとりいれる、先行研究として知っておく、道具として利用するといった態度も強烈な信仰や執着と比較すると「軽視」になるといえる。RPGをつくりたい若い世代のゲームクリエイターがドラゴンクエストやファイナルファンタジーといった権威的な作品を一切無視して、影響を受けないようにゲームをつくろうとした場合、良い作品ができるだろうか。

大澤さんによれば、マルクス、フロイト、ソシュールといった特定の分野で権威と呼ばれるひとたちは研究者にとって「不法侵入する他者」として立ち現れているという。

・特に参考にしたページ

大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法」,河出文庫,49p

すぐに何を言っているかわかる、カテゴリーにあてはめることができるならドゥルーズの用語では「再認」となる。しかし彼らのテクストに衝撃を受け、理解の仕方がわからなくなるとすれば「非意志的な思考」につながる。これ(x)はAだ、Bだ、Cだといった多様な解釈を生み出す「問い(α)」にもつながる。

大澤さんはこうした「不法侵入者がいないとき、思考は中折れし、途中で萎えてしまう」のだという。ここで重要なのはもはや先行研究の「独自性」や「創造性」そのものではないだろう。極端な話、後から冷静に見返したら平凡な見解であったとしても文脈次第では衝撃を与え続けるような契機になりうる。

フロイトの理論を単なる仮説として軽視し、独自の研究を自由に始める人もいただろう。しかし不法侵入者がいないために「権威とされるもの、超越的な他者の真理を自分のものとする、違和感を克服する、衝撃を乗り越える」といった動機が生じない。

たとえば「自由になんでもいいので考えてください!なにものにも縛られないでください!」といわれると、なんだか思考が進まない。

しかし「これが正解だ!、こう考えるべきだ!、みんながこれを正しいと言っている!」という主張は一種の手がかりとなる。「こうもいえるんじゃないか?」と踏み台的に次の一手につながっていく。いわば「巨人の肩の上」で我々は思考を続けられる。アイザック・ニュートンは「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです。」という言葉を残している。

・特に参考にしたページ

大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法」,河出文庫,50p

ジンメルにおける境界の移行

社会学者のジンメルは、自由とは「他者との関係の中で、束縛から解放へと移行したときに感じる相対的な状態・感情のこと」だと定義した。

自己と他者の距離において関係に生じる、あるいは帯びる性質が自由なのである。それゆえに、「他者」が拘束として、あるいは不自由として自己に立ち現れているからこそ、自由を感じることができる。自由を感じるからこそ、自発的であるかのようなエネルギー(モチベ)が続く。他者が圧倒的で超越的であればあるほど、そこからの距離を見出すことは恐怖でもあり悦びでもある。

衝撃の強度、暴力性が非常に高い場合、研究者に対してパラダイムシフトとも呼べるような認識の枠組みの変化を強制することがある。

価値観ががらりと変わり、今までと違った捉え方をするように強制される。そうした状態において超越的行使が可能になり、新しいものが生じる。

ドゥルーズにおける「問題、現働化、具体的現実」

ドゥルーズは「問題、現働化、具体的現実」というプロセスも提唱している。

クイズのように答えのある問題が先にあり、次に答えが再認されるプロセスではない。問題(問い)とは「様々な答えを生み出す力」であり、問題が解を「産出(創造)」するのである。「なぜA理論は正しくみえるのか」。ほんとは「B理論でも同時にありうるのではないか」と探索的に広がっていく。

図にするとこのようなイメージになる。

人はなぜある絵や音楽、小説、異性に惹かれるのかをうまく説明できないことが多い。クイズを答えるように、解答がある問いではない。

たとえば「ある時点で、ある状況において最も早い新幹線の名前はなにか」という問いは基本的に答えが固定されている。「銀の本質はなにか」と適切な問いを続けていれば理念的対象としていつか看取することができる、すくなくともそれに向けて漸進することができるという場合も固定的なニュアンスが漂う。不可疑的なものを捉えたい、基礎付けし尽くしたいという志向がある。

ドゥルーズは「背景」という言葉を「我々が意識していないが、常に働いている力」として用いている。たとえば社会の雰囲気、時代の価値観、身体の欲望、感情の揺れ、偶然の出会いなどである。これらがときには複合して背景となり、ある特定のテクストや音楽を「衝撃」として捉えるような準備を行うのだといえる。

もし創造をなんらかの理由で欲していても、意図的に起こせるわけではない。衝撃とはコントロールできず、受動的にならざるをえない交通事故のようなものだからである。

世界大戦における人間の残酷さは多くの人に「衝撃」を与えた。たとえば特定の人種の絶滅を掲げた大虐殺という歴史的出来事は多くの人間に絶大な影響をもたらしている。

宗教改革期のような大きな宗教的変動も大きな衝撃であったといえる。社会が今・まさに急激に変化している時代では模範的な正解が得られにくくなり、人は創造的な思考を迫られやすい。

・特に参考にしたページ

松枝拓生「ドゥルーズの「実在的経験」への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017),9-10p

衝撃を避ける方が幸福ではないか

衝撃に遭いやすい状況」をつくることは可能だろう。たくさんの人と出会えば、違った価値観をもった人間が暴力的な出来事を自分に対してぶつけてくるかもしれない。

犬も歩けば棒にあたるわけであり、歩く行為が棒を呼び込んでいる。

最近、とある動画で「お笑いの劇場において客が正解のツッコミを待ってから笑うクイズ大会になっている」という主張を聞いた。

我々はお笑いの場面さえも、「正解」をただ待ち受けている人になっているのではないだろうか。なぜならそのほうが楽であり、他者とは異なるタイミングで笑ってしまうことで傷つく可能性が低いからである。我々はボケの衝撃を求めるのではなく、ツッコミの納得を求めてしまう。

仕事をしていなければ解雇されることもない。他者と関わらなければ人間関係で深く傷つかない。

本や動画などを見なければ権威に頼ってしまうこともない。動物を見なければ、美術を鑑賞しなければ、裁判を見なければ・・・といくらでも例をあげられる。不法侵入を避けるために扉に鍵をかけ、外に出なければいい。

部屋に閉じこもって寝ていれば多くの衝撃を回避することができる。いったいなぜ我々は衝撃を受けやすい状況に自分をもっていかなければならないのか。

未知との遭遇や権威との対話的な創造は楽しいこともある。しかし「不安」であり、「憂鬱」にもなる。再認し続けたほうが「快適」であり、「幸福」ではないか。昔の農耕社会のように、同じ作業を繰り返していることのいったいどこが不幸なのか。親、教師、上司の言いなりになり続ける人生のどこが悪いのか。ニーチェのいう「末人」はなぜ批判されるのか。

見よ!わたしは諸君に『最後の人間種族』なるものをお目にかけよう。『なに、愛だって?創造だって?憧憬だって?えっ、星?そりゃあ、一体何のことですか?』……誰もが同じことを望み、誰もが同じである。違った感じ方をする人間はみずからすすんで精神病院入りをする。『いやなに、昔は世の中すべてが狂っとったのですよ』─このお上品な連中はそう言ってまばたきする。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』

われわれは可能ならば仕事をしたくないと思うかもしれない。余計な人間関係もつくりたくないと思い、危ない街にも出かけたくない。自分の価値観に合わない音楽や芸術、本にも接したくない。

しかしどういうわけか、多様な価値観が存在する現代においてそれらを避けることは難しい。価値観が合うと思って読んだ漫画が合わないかもしれない。仕事はしなければいけないし、嫌いな人間とも付き合っていかなければならない。価値観が合わないからといって多様な情報にアクセスしないとコミュニケーションが円滑ではなくなったり、業績が落ちたりする。

我々は思考したいから衝撃を求めているのではなく、衝撃を受けているからしかたなく再考を余儀なくされる。義務が先にあり、それを履行するために思考するのであり、自ら義務を求めにいくことは少ない。

もちろん「思考すべきであり、衝撃を求めるべき」だと高尚な学者はいうかもしれない。「健全な社会のためには柔軟なリソース(資源)を保持すべきであり、そのために個人は衝撃を求め、思考すべきである」と他人事のように規範を私は述べることはできる。

しかし個人の感情においてはできるだけ衝撃などないほうが快適に過ごせるとみなされれば、規範は綺麗事としてすり抜ける。

見知らぬ大勢の他者、遠い国の戦争や飢餓で苦しんでいる他者のことなど考慮したくはないのではないか。「かわいそうだ」、「自分の国に影響はあるのか」と感情的になることはあるが、積極的になにかそのために「思考」をしたりすることは心地よいことではない。そうした危ないこと、疲れることにはできるだけ忘却してなかったことにするほうが精神にとっては快適である。

あるいは衝撃を受けたゆえに、この衝撃をどうにかしなければ快適ではない、そこから逃げることは誠実ではない、美しくはないと思ってしまっている場合があるかもしれない。だからこそ学者は「神は死んだ」といったような「衝撃的な言葉」で大衆に思考の契機を与えたがるのだろう。「どういうことか」、「ではどうすべきか」を考えさせる契機だ。

美しいものや理想を一度知ってしまうと、自分の現状の醜さが対比され、亡霊のようにまとわりついてくる。「それを知っているのに、なぜそれをしないのか」と責め立ててくる。「社会のため、他者のためといった表面的な理由」ではなく、「自分の快適度のために創造的な思考をせざるをえない」という場合もありうる。

参考文献リスト

今回特に参考にした文献

大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法 (河出文庫) 」

大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法 (河出文庫) 」」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2) 」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2) 」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (中) (岩波文庫 青N604-3) 」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (中) (岩波文庫 青N604-3) 」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (下) (岩波文庫 青N604-4) 」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (下) (岩波文庫 青N604-4) 」

汎用文献

高橋 誠「問題解決手法の知識」

高橋 誠「問題解決手法の知識」

鷲田 小彌太「分かる使える思考法事典: アイディアを生み出し、形にする50の技法」

鷲田 小彌太「分かる使える思考法事典: アイディアを生み出し、形にする50の技法」

三谷宏治「マジビジプロ 超図解 三谷教授と学ぶ 「拡げる」×「絞る」で明快! 全思考法カタログ」

三谷宏治「マジビジプロ 超図解 三谷教授と学ぶ 「拡げる」×「絞る」で明快! 全思考法カタログ」

B.ミラー (著), 弓野 憲一 (監修, 翻訳), 宗吉 秀樹 (翻訳) 「創造的問題解決: なぜ問題が解決できないのか?」

B.ミラー (著), 弓野 憲一 (監修, 翻訳), 宗吉 秀樹 (翻訳) 「創造的問題解決: なぜ問題が解決できないのか?」

高橋 誠 「新編創造力事典: 日本人の創造力を開発する」

高橋 誠「新編創造力事典: 日本人の創造力を開発する」

参考論文

松枝拓生「ドゥルーズの「実在的経験」への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017[URL]

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