【創造技法第8-3回】「創造に備える方法」

発散技法
  1. 動画での説明
  2. はじめに
    1. 創造技法の位置づけ
    2. 記事の分割について
  3. 思考の不法侵入者を受け入れる準備
    1. リミナリティによって権威を停止する
      1. ターナーにおける「リミナリティ」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
      2. 新しい不法侵入者と古い不法侵入者
    2. 「想像の他者」を衝撃として利用する方法
      1. 「思考の閉塞に創造的な突破口を見出すためには、どうしても他者を必要とする」
      2. 未来の他者との連帯
    3. ベイトソンの「どのようにでもなりうる潜在的な可変性」=「柔軟性」=「備え」について
      1. 「メッセージは単独では意味を持たない」
      2. 社会における余地、備え、柔軟性
      3. 終わらない備えへ向けて
  4. 参考文献リスト
    1. 今回特に参考にした文献
      1. 大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法 (河出文庫) 」
      2. グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2) 」
      3. グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (中) (岩波文庫 青N604-3) 」
      4. グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (下) (岩波文庫 青N604-4) 」
    2. 汎用文献
      1. 高橋 誠「問題解決手法の知識」
      2. 鷲田 小彌太「分かる使える思考法事典: アイディアを生み出し、形にする50の技法」
      3. 三谷宏治「マジビジプロ 超図解 三谷教授と学ぶ 「拡げる」×「絞る」で明快! 全思考法カタログ」
      4. B.ミラー (著), 弓野 憲一 (監修, 翻訳), 宗吉 秀樹 (翻訳) 「創造的問題解決: なぜ問題が解決できないのか?」
      5. 高橋 誠 「新編創造力事典: 日本人の創造力を開発する」
    3. 参考論文

動画での説明

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はじめに

創造技法の位置づけ

図で整理したものがこちら。

※詳細は第一回や創造発見法の記事で説明している。

問題解決技法を整理すると下の図のようになる。

今回扱う創造技法は「発散技法」あるいは「態度技法」に位置づけられる。

※発散技法とはアイデアをたくさん出していく技法のこと。

記事の分割について

記事を分割しています。

 

思考の不法侵入者を受け入れる準備

リミナリティによって権威を停止する

ターナーにおける「リミナリティ」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

イギリスの文化人類学者であるヴィクター・ターナー(1920-1983)はリミナリティ概念を唱えている。

POINTリミナリティ(英:liminality):社会的分類や秩序の枠組みにおいて、個人や集団がいずれの確定したカテゴリーにも属さず、既存の構造が一時的に停止・曖昧化した状態のこと。

リミナリティにおいて重要な特徴は「反構造」である。なぜなら、安定的な規範、秩序から生じる拘束力が低下、停止した状態がリミナリティだからである。

たとえば祭りの際には目上の者に逆らってもよい、聖なるものを食べてもよいといったように、構造が曖昧になり、揺らぐことがある(いわゆる無礼講)。

ターナーによるとリミナリティの反構造は、「既存の構造の否定であると同時に、あらゆる構造の源泉である」という。

たとえばフロイトのテクストを真実が書かれていると信じきっている人がいるとする。既存の構造を強烈に肯定する人間であり、あらゆる現象をフロイト的なカテゴリーに当てはめて再認しようとする人間である。

そんな人間が、フロイト的なカテゴリーでは説明できないような衝撃αに出会うとする。フロイトをいくら参照しても衝撃αを捉えることができない。

そこで、フロイト的な考え方、権威を一旦停止してみるのである。この停止は容易ではないだろう。しかし衝撃αの強さによって強制的に停止させられることもあるかもしれない。

あるいは偶然の人事異動によって他の分野の権威と出会うことで、フロイトの権威が一旦宙吊りになるのかもしれない。

リミナリティはこのように空間で図示しきれるものではないが、ニュアンスとしてはわかりやすい。AとBの間に入ることによって、両者が宙吊りになり、他であり得る可能性に敏感になるのではないだろうか。

・特に参考にしたページ

土佐昌樹 「リミナリティと東アジアの近代性をめぐる理論的ノート」(2024),48-50p

新しい不法侵入者と古い不法侵入者

超越者、不法侵入者のテクストを信じることは、「創造のためのエネルギー(動機)を用意する機能」があると第一に考えられる。

たとえば「フロイトならどう考えるのか」という創造のための重要な他者を位置づけることで研究を安定的に続けていくことができる。

第二に、「新たな不法侵入者(人でなくてもいい)に遭遇するときの『比較の材料』として、古い不法侵入者は機能する」と考えることができる。

AとBの境界という状態や差異が顕著に生じるためには2つの不法侵入者を必要とする。「過去の不法侵入者」と「現在の不法侵入者」の差異である。

図にするとこのようなイメージとなる。

固定的で権威的な構造を揺らがせると創造が生じやすくなると仮定する。そしてその揺らぎの落差、移行の落差がより創造性を高めるとするならば、ある規定の構造を権威だと感じているほうが落差が激しいことになる。

つまり、「既存の枠組みや概念が役に立たない」という衝撃が大きく、思考の強制力も強まり、新しい枠組みや概念が生成されざるをえない状況に追いやられることになる。祭りが終わった後の日常において、なぜ祭りのような概念で過ごせないのか、という境界の移行における小さな落差も考えることができる。

図にするとこのようになる。

「想像の他者」を衝撃として利用する方法

「思考の閉塞に創造的な突破口を見出すためには、どうしても他者を必要とする」

大澤さんは「思考の閉塞に創造的な突破口を見出すためには、どうしても他者を必要とする」という。

ここでいう他者とは「自分とは違う視点や考えをもつ存在」であり、特に「思考の不法侵入者」を意味する。大澤さんの例ではソクラテスやイエス・キリストが、その代表的な例として挙げられている。

もちろん不法侵入者にはグラデーションがあるだろう。同じ価値観をもった友人でさえ、ふとした発言によって「自分の考えはおかしいのではないか」と気づきうる瞬間があるかもしれない。

社会学者のルーマンはコミュニケーションに「誤解」を含めている(誤解は理解の一種であるとされている)。Aが発言し、その意図と意味通りにBが受け取るだけがコミュニケーションではない。Aとはまるで違う意図と意味をBが誤解して受け取ることでもコミュニケーションは(勝手に)進んでいくからである。

Aは無視したつもりがないが、Bにとっては無視だと意味づけられることがあるとする。この際に、BにとってAは「思考の不法侵入」として立ち現れてくることがありうる。なぜ無視されたのかを考えざるをえないからであり、強制的な思考である。

他者は我々の思考を刺激する存在であり、創造にとって重要なリソースなのだといえる。

他者が「自分とは違う視点や考えをもつ存在」であり、ある人間がそのような存在だと想像によって認識すれば成立するとする。

もしそうならば、肉体をもった他者だけではなく、書籍やSNSの呟き、掲示板の書き込みも他者になりうる。本は返事をしないが、本と想像の対話をすることは不可能ではない。「こんな意図ではないか」、「こんな意味ではないか」と勝手にこちらが解釈することでコミュニケーションは生じていくのであり、衝撃が強いほどコミュニケーションは強制的、暴力的に生じる。

本は問いを与え、思考を刺激し、新しい発想を生み出す相手である。つまり、「本は思考の創造的な同伴者」である。youtubeの動画やAIも創造的な同伴者になりうるだろう。

ある人には衝撃も与えない動画も、別の人には衝撃を与えうる。同じ内容でもAIであれば衝撃を与えないが、愛する人ならば衝撃を与えるかもしれない(関係や媒体が変われば要素の意味が変わる)。

大澤さんは以下のように述べている。

あの3月11日の事故以降、私たちは倫理的な課題として未来の他者と向き合うことになった。私もそのことを正面から考えるようになった。そうして考えたものがいまだ生まれていない未来の他者が読むに値するものであってほしい。それが思考の究極の目的である。」(大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法」,河出文庫,46p)

大澤さんにとって「原発事故」はある種の「衝撃」だったのであり、思考を強制する出来事だったといえる。

・特に参考にしたページ

大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法」,河出文庫,298p

未来の他者との連帯

現在の出来事は未来に影響を与えるという当たり前の思考を、強く意識せざるをえなくなる。「未来の他者たちがどう思うだろうか」と想像によってコミュニケーションをとらざるをえなくなる。自発的というより受動的な行為であり、「非意志的な思考」である。こうした状態において「新しいもの」が生まれやすくなる。

「未来の他者たちがどう思うだろうか」と想像して思考するとする。

しかし「過去及び現在の他者たちがどう思うだろうか」という思考も生じている。未来の他者たちとの連帯にとって、そうした思考は障害になりうる。たとえばA政策を採用すると、伝統的にB政策が正しいと信じてきた過去の権威を汚すことになってしまう場合がある。現在ではB政策が良いと考えている多数派の人たちからも反感を買ってしまう。

政治学者のベネディクト・アンダーソンは、「過去の死者や現在の子ども、未来でこれから生まれてくる人々といったような無垢な存在、単色の純粋性」として想像される「国民(ネーション)」を重視した。

そうした理念的な国民イメージを設定することで、ナショナリズム(国民主義)には善性(倫理性)がやどると考えられている。もちろん現実には特定の過去を恣意的に重視したり、現在を過剰に優先する場合がありうる。しかし理念に向けて(終わることのない)修正が可能であるとアンダーソンは考える。

過去・現在・未来における想像の他者をいかにして調和させて一つの時間へ収縮させるのか、その方法が重要となる。そしてこうした問題意識もひとつの「問い」であり、様々な解決方法を生産していくことになる。

この収縮が上手くいかなければ「独りよがりな未来への飛躍」に陥ったり、「過去の権威への盲信」に陥ったり、「今がよければいいという享楽」に陥ったりしてしまう。たとえるならばずっと調整が必要であるシーソーゲームのような作業をし続けるイメージであり、調整する仕組みやその素材は変動し続ける。

適切な社会のあり方のために我々ができることは、とにかく「衝撃」を受けられるリソースを十分にもっておくことだろう。そのためには再認、つまり既存の知識の能動的な吸収も必要になる。

固定的な考え方にならないように、自発的に常に既に他の有りうる手段を考えられるような柔軟性を保持しておく必要がある。

来たるべき衝撃において爆発的な相互作用が起こりやすいようにしておくのである。爆薬が1個か2個なら爆発の規模は小さい。

無から創造は生まれない。しかし数千、数万と用意しておけばより大きな爆発が生じやすくなる。この爆発において我々はその場その場のリソースにおいて最善の概念を生み出し、使用することができるようになる。動画で知識を吸収するのは「物知り」になるためではなく、「来たるべき衝撃に備えるため」、あるいは「衝撃を受けるため」ではないだろうか。

・特に参考にしたページ

大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法」,河出文庫,298p

ベイトソンの「どのようにでもなりうる潜在的な可変性」=「柔軟性」=「備え」について

「メッセージは単独では意味を持たない」

人類学者のグレゴリー・ベイトソンは「身体の中に問いの準備があり、外部からの刺激は問いへのきっかけにすぎない」という例を挙げている。

たとえばカエルの未受精卵に、精子ではなく、毛のような細いもので刺激を与えても発生が始まることがあるという。

卵にとって重要なのは「これは精子である」という情報ではなく、「ここが基準点だ、目印だ」という情報(差異)である。

我々は白い背景に黒い点があることを白と黒の「差異」によって認知できる。なにも見えなくても、手で触って一部が盛り上がっているという差異を知覚することができる。

情報は「差異」であり、差異がなければ情報として届かない。うるさい場所で小さな音は差異をかき消され、耳に届かない。

我々はふつう、外部から問題が与えられ、生物が答えると考える。たとえば木の上のバナナを食べたい場合にどうやって登るかと考えるようにである。

しかしカエルの卵を見ると、卵の内部に「どこが基準点なのかという問い」が先にある。つまり、問いは外部からやってくるのではなく、内部にあると考えることができる。

ここでいう問いとは「意識的な疑問」のことではない。ドゥルーズが「受動的な思考」と表現したこととも関連する。

問いとは「ある情報を受け取る準備ができている構造」をここでは意味する。未受精卵には「刺激を解釈する構造」がすでにある。卵は完全にまっさらな状態(無秩序、無構造)ではなく、動物極と植物極という区別(いわば上下)をもち、この状態で侵入を受けることで、そこが新たな区別(左右)を決めるきっかけとなるのである。

「左右」という情報は外部からの刺激そのものには存在しない。もともと卵がもっていた能力によって、外から与えられた刺激を利用して創り出したということになる。

今までの文脈で言えば、外部からの刺激によって「創らざるを得なくなった、生成を強制された」とも言い換えることができる。無視という何もない出来事でさえ有意味に(情報として)捉えることができる極端なケースを考えるとよりわかりやすくなる。刺激そのものに「これは無視である」という情報が解釈者と無関係に、独立的に、本質的に備わっているわけではない。

カエルの受精卵の場合、ある刺激をどう解釈するかについて内部が強く関わっており、外部の役割はごく一部である。

外部からの刺激は絶対的な真理をもってやってくるのではない。「左右に分かれろ」と具体的な指示をしてくるのではない。いままでとの「差異」をもたらす存在なのである。「なんだこれは?」と刺激に注目が行き、この刺激を基準に、この基準のあっちは「左」で、こっちは「右」だなというように左右が決まっていくのである。

カエルの話で重要なのは、「メッセージは単独では意味を持たない」、「意味は受け手の内部構造によって成立する」という発想の転換である。ラクダの毛やピンセットの刺激それ自体が左右という意味をもっているわけではない。

たとえばそこらの小石をピンセットで突いて発生が始まるわけではない。なぜなら小石にはその刺激を解釈する「構造」、つまり刺激を解釈する文脈(コンテクスト)が存在しないからである。ある刺激はある文脈において「情報」として価値を帯びるのであり、同じ刺激でも文脈において異なって利用・解釈されうる。

受け手と完全に独立した「真なる情報=真理」があるという考えは、カエルの話からすればズレた考えだということになる。

しかし一方で、「なんでもあり」という無秩序でもない。カエルは一定の構造をもち、ある刺激をある方向に解釈せざるをえない側面がある。たとえば我々は暴力を「悪い」と解釈することが多いような社会に住んでおり、一定の構造をもつように社会化されている。好き勝手に解釈できるわけではない。石を触ってある刺激を受け、それを「硬くない」と任意に知覚できるわけでもない。

社会学ではシステムと構造が区別されて考えられている。カエルとは違い、社会はひとつの有機体ではない。しかし、アナロジーとして考えてみよう。

社会学においてシステムは「相互に関係をもつ構成要素からなるひとまとまりの全体」であり、構造とは「システム構成要素や相互関係の中の、変化しにくい要素や関係」として一般的には考えられている。

この話でいくとカエルは「刺激を起点に発生をはじめることのできる安定的な部分」、つまり構造をもっていることになる。

もちろん遺伝子の変化によって、任意の刺激では反応せず、特定の刺激(たとえば栄養をもった精子)でのみ反応するような構造に変化する可能性もある。つまり、構造は安定したものであり、絶対不変のものではない。

・特に参考にしたページ

「精神の生態学」526~527p

社会における余地、備え、柔軟性

社会の構造も同様に安定したものであり、不変のものではない。

たとえば医者が患者に対してできるだけ平等に接するというパターンが安定している場合もあれば、不平等に接するというパターンもあるだろう。こうした構造は人々の行為や意識の反復によって維持されているのであり、そうした反復が止まれば構造は消滅したり変化することになる。カエルの脊髄反射的な反応とは違ってより変化しやすい構造だといえる。

社会の要素が多いほど、取りうる選択肢が多いほど、社会は複雑性が高まっていく。

ある刺激Aに対してαと解釈することも、βと解釈することもできる。

しかし我々は、多様な選択肢のなかから、ひとつの選択肢を安定して選ぶ傾向がある。

また、そのように選ぶように社会化されている。「なんでもあり」ではなく、「こうあるべき」という規範が常に既に社会には個人が産まれる前に存在する。

ベイトソンは生物にはあらかじめ決まった構造だけでなく、まだ決まっていないが反応できる「余地」や「潜在能力」、「備え」も存在するという。

たとえば私はエネルギーを補給するために毎回米を選択するが、パンでもイモムシでも潜在的には等価でありうる。しかしエネルギーをとらなければならないという構造は拘束的である(備えではない)。

カエルの場合も「備え」が存在しているとベイトソンはいう。卵の表面には動物極と植物極を結ぶことのできる潜在的な関係が数え切れないほど存在するという。

備えとは「まだ決まっていないが、ある刺激が来たら特定の方向へ変化できる状態」であるといえる。たとえば空気の薄い地域に対応できるような適応能力を人間はもっているが、空気の濃い地域ではその能力は潜在したままである。遺伝子レベル、肉体レベル、意識レベルなどさまざまな抽象度を想定することができる。遺伝子レベルになると個体だけではなかなか変わりにくい(キリンが何世代も通して首を遺伝子レベルで長くしていくようなケース)。遺伝子の範囲の中の備えが基本となる。

たしかに構造は、「刺激によって左右にわかれる」ことを抽象的に規定する。しかしどの地点でわかれるかまでは決まっていない。カエルの卵はカエルの範囲でしか変化できないが、この範囲のなかで他であり得る可能性をいつでも取ることが可能になる。

均一な鎖は力を込めればちぎれる構造になっているかもしれないが、どこでちぎれるかを構造が完全に決めるわけではない。この意味で、この鎖は「どのようにでもなりうる潜在的可能性」をもっている。

フロイトの知識やニュートンの知識を学ぶことは、構造を学ぶことであり、自分の中に取り入れてしまうことだといえる。

「Xという刺激がきたら、Aという構造で解釈しよう」といった、安定したパターンが自分の中で構築されることもある。たとえば私の場合は社会学でいえばウェーバーやルーマンを尊敬し、正しいと信じている側面があり、それらと対立的な主張は相対的に低い影響になりがちである。都合のいいところばかりを頭にインプットしてしまっているかもしれない。

図にするとこのようになる。

しかしとてつもなく強い衝撃Yがきて、今までのアルファで解釈しきれないとする。この場合、他に解釈できる構造はないか、と既存の構造的要素が模索される。ハーバーマス、マートン、ブルーマー・・・といったように知識が総動員される。

しかしそれでもなお解釈できない場合、今まで学んでこなかった物理学の知見や、ある文学者の知見、生活世界の具体的な知見といったような潜在的な要素を構造として取り入れざるをえなくなるかもしれない。

図にするとこのようになる。

潜在的な既存の要素のどれを用いても解釈できない場合がある。この場合、自分でそれらの要素を組み合わせて「新しい構造」を創り出すしかない。

カエルが刺激に単に自動的に応答することで生殖できていた状態から、環境の変化によってそれが徐々に困難になったらどうするか。種が絶滅する場合もあるかもしれないが、突然変異によって遺伝子が変化し、適応できるような構造に変化するかもしれない。

図にするとこのようになる。

・特に参考にしたページ

グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学」,528p

終わらない備えへ向けて

新しい刺激に対して適切な反応を行うためには、生物の内部で柔軟性を保持していなければならない。これは社会にも同様にいえる。しかし生物の遺伝子レベルの変化ほどではないにせよ、認識枠組みの変化、イデオロギーの変化はなかなか生じない。抽象度の低い構造の中での選択の変化(たとえば米かパンか)などが日常では多く、抽象度の高い構造はなかなか変化しない。

しかし「もうこれしかない」という固定化された構造は、その維持のために多大な犠牲を世界に強いる可能性があり、危険である。

我々は多様な知識や経験を取り入れつつ、かつエネルギーを絶やさないためにも特定の知識を信じる態度を方法論的にとる必要があるのではないか。

「これがベストではない」と思いつつ「ベストであるかのように」も思うという矛盾的な両義性において、あらゆる衝撃に備える必要がある。また、根底的には「そうしたどっちつかずの柔軟性がベストである」という意味では矛盾していないといえる。抽象度が低いレベルにおいては矛盾しているが高いレベルにおいては矛盾していない。

そうはいっても矛盾的な態度は苦しいものである。多数派に対して違うことを主張することも怖い。どうして苦しさや怖さに耐えなければならないのか。どうして「終わらない備え」を正しいと信じて続けなければいけないのか。ひょっとしたら固定的な態度のほうがかえって社会にとって、あるいは世界にとって長期的によいのではないかという懐疑を否定できるのか。柔軟な態度をとったためにかえって技術が発展し、世界が消滅しないといえるか。

これらの問いに学問的に答えることは容易ではない。しかし私は柔軟性が美しく、価値があるものだと(硬直的に)信じている。

参考文献リスト

今回特に参考にした文献

大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法 (河出文庫) 」

大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法 (河出文庫) 」」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2) 」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2) 」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (中) (岩波文庫 青N604-3) 」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (中) (岩波文庫 青N604-3) 」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (下) (岩波文庫 青N604-4) 」

グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (下) (岩波文庫 青N604-4) 」

汎用文献

高橋 誠「問題解決手法の知識」

高橋 誠「問題解決手法の知識」

鷲田 小彌太「分かる使える思考法事典: アイディアを生み出し、形にする50の技法」

鷲田 小彌太「分かる使える思考法事典: アイディアを生み出し、形にする50の技法」

三谷宏治「マジビジプロ 超図解 三谷教授と学ぶ 「拡げる」×「絞る」で明快! 全思考法カタログ」

三谷宏治「マジビジプロ 超図解 三谷教授と学ぶ 「拡げる」×「絞る」で明快! 全思考法カタログ」

B.ミラー (著), 弓野 憲一 (監修, 翻訳), 宗吉 秀樹 (翻訳) 「創造的問題解決: なぜ問題が解決できないのか?」

B.ミラー (著), 弓野 憲一 (監修, 翻訳), 宗吉 秀樹 (翻訳) 「創造的問題解決: なぜ問題が解決できないのか?」

高橋 誠 「新編創造力事典: 日本人の創造力を開発する」

高橋 誠「新編創造力事典: 日本人の創造力を開発する」

参考論文

松枝拓生「ドゥルーズの「実在的経験」への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017[URL]

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