動画での説明
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はじめに
創造技法の位置づけ
図で整理したものがこちら。
※詳細は第一回や創造発見法の記事で説明している。
問題解決技法を整理すると下の図のようになる。
今回扱う創造技法は「発散技法」あるいは「態度技法」に位置づけられる。
※発散技法とはアイデアをたくさん出していく技法のこと。
記事の分割について
記事を分割しています。
全体の見取り図
フランスの哲学者であるジル・ドゥルーズの「思考の不法侵入者」というアイデアを創造技法として活用できる形に平易に組み替えることが目的である。
難解なドゥルーズの哲学的概念を正確に理解することが目的ではない。
POINT思考の不法侵入者:自分の世界に突然侵入してくる衝撃的出来事のこと。
大きな創造は日常の繰り返しや想起、予測ではなかなか生じない。
「衝撃・困惑・苦しみ・暴力」といった自分ではコントロールできない「不法侵入者」によって、思考せざるをえない状態に追い込む点が重要である。
まず、「不法侵入者」とはなにかを理解するために、ドゥルーズの関連概念を学んでいく。ドゥルーズの知見の理解を通して他の知見と結びつけ、思考道具を作っていくことが全体の方針である。
※理解の補助線として大澤真幸さんの『考えるということ』(河出文庫)を用いる。ただし、この本ではドゥルーズの概念が説明されているわけではない。ドゥルーズの思想に対する理解の補助線としては松枝拓生さんの「ドゥルーズの『実在的経験』への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017)を用いる。
作成した思考道具
今回作成した思考道具を図にするとこのようなイメージとなる。
常識とは違う、特定の権威への信仰をもっていると、それに反する出来事が生じたときに「より強い衝撃」として受け取られやすくなると想定する。
強く信じていたものが崩壊する時、認識の枠組みの全体を組み直さなければならないという点が重要である。
ほかの図で表現した場合、このようになる。
「周りの人に単に合わせればよい」という日和見的な柔軟性では衝撃の感受性が低い。「これこそが正しいのではないか」という信仰が崩れたときほど衝撃の感受性が高い。
常識や専門知識、経験をもっていればいるほど、「どれにも当てはまらない」という苦しみが生じやすくなり、より衝撃を受けることになる。「きっとどれかに当てはまる」、「専門家ならわかる」、「未来の他者がきっと解決する」という安易な希望へと逃がさないようにする。そのように徹底的にリソースを準備することで衝撃を逃さずに受け切る態度が必要になる。
特定の権威に固執しながらも、「他でありうる可能性」を同時に備えておくという両義性、表面的には矛盾した態度を同時に取る必要性が創造的な態度だと考える。いわば「方法論的固執性、信仰性」である。
ある言説が真理であるかのように信じて接することでまるで違う新たな可能性への経路が逆に開かれる。リゾームを作るためにツリーを選び、スキゾやノマドになるためにパラノになる。その往復と変化の過程の中で、思考に創造性と健全性が帯びる。「なんでもあり」も「これしかない」にも常住しない心性である。
ジル・ドゥルーズの「思考の不法侵入者」とは
創造のエネルギーはどこからくるのか
第一回の創造技法で扱ったが、創造の動機はひとそれぞれである。しかし諸個人の動機は「幸せの追求」にあると便宜上、仮定しておく。幸せがどういう状態なのか、幸せが個人単位なのか、社会単位なのかについては厳密に規定しない。
幸せの追求の過程において「何らかの解決すべき問題」が生じ(問題発見)、そのための手段として創造技法が用いられることになる。
創造技法は「問題解決のための手段」である。
なにも問題が生じていない状況において、創造する動機は弱い。
たとえば「いいアイデアがないと出世できない」問題に直面すれば、そこに創造の動機が生じる。友人と仲直りしたい、女性と付き合いたい、もっといい絵を描いて認められたいといった「容易には解決できない問題」に遭遇し、解決への動機が生じる。
問題は大きく2種類に分けて考えられる。「模範的な正解がある問題」と「模範的な正解がない問題」である。
たとえば「1+1=Xという問題」には「X=2」という模範的な正解が存在する(ただし、これもあるルールを前提とした場合の演繹結果にすぎない)。しかし、「正義とはなにか、幸せとはなにか、美とはなにか」といった問題となると回答のあり方はより多様になる。
社会や個人、状況によって異なる「創造的思考」が必要とされるのは主に「模範的な正解がない問題」である。
ドゥルーズは思考を「創造的な思考(ほんとうの思考)」と「創造的ではない思考(再認)」を区別している。また、創造の動機(契機)として「不法侵入者」を重視している。
創造的ではない思考=「再認」
POINT再認(仏:récognition):目の前に現れたものを、既に知っているものとして認識すること。ドゥルーズの概念。
例:「これは私のコップだ」、「この曲はベートーヴェンだ」、「あの人は昨日会った人だ」、「これは犬だ」など。
たとえば「これは犬だ」という再認は、一般的には「思考」であると考えられている。「1+1=2である」や「全ての人間は死ぬ、ソクラテスは人間である、したがって、ソクラテスは死ぬ」も再認である。
「ポチ(これ)は『犬』という既知のカテゴリーに属する個体である」という認識が、ここでいう思考である。「犬」という概念(カテゴリー)が先になければ、ポチを犬として解釈することはできない。再認とは眼の前の個別の対象(x)を既に存在する概念(A)へ振り分ける作業なのである(xをAとして意味づけする)。
「変わらない私・概念・世界」が再認においては前提とされている。たとえばA時点で見た「あの犬」と、B時点で見た「あの犬」は厳密には同じではない。そしてそれを見ている「私」も厳密には同じではない。
あの犬も、私も、常に変化し続けているからである。毛の位置や思考のあり方など、細かくみればいくらでも違いを見つけることができる。悲しいときの感じ方と嬉しいときの対象の感じ方も違う。悲しみの度合いや質も同じではない。
しかしどうやら我々はそうした「変化」や「違い」を捨象しがちである(現象学的に言えば、対象が私に実的に与えられたものを超越して構成されるということになる)。固定的で不変な「犬」というカテゴリーや「私」という(超越的で固定的な)まとめ役を暗黙の前提としてしまっている。
また、あれは「木」である、あれは「自然」である、あれは「生き物」であるといった既知のカテゴリーにあてはめればそれで「思考」であると人間は考えがちである。
しかしドゥルーズによればそうした思考は「実際には既に知っているものを確認しているだけ」だという。このカテゴリーをどれだけ細分化しても本質的には変わらない。
たとえば「コウチュウ目クワガタムシ科クワガタ属ヒラタクワガタ亜属の1種」であると細かく考えたところで、既存のカテゴリーに個体を当てはめる作業と同じである。自分で概念を考えたわけではない。既知の概念に個別具体的な現象を当てはめて意味づけただけである。
「あれはなんだろうか」と問いを考えるときに既存のカテゴリーを「想起」している時点で「再認」に近い。
「これは悲しみである」とか、「これは心理学的に言えば〇〇である」、「この体験は、以前体験したAと同じである」、「この言葉はこういう意味だ」、「普通、この状況ではこうすべきだ」、「この絵は〇〇の理由で、パターンで美しく感じる」といった当てはめも同じである。日常生活におけるほとんどの思考は(その多くが無意識的な)再認であるといってよい。
・特に参考にしたページ
松枝拓生「ドゥルーズの「実在的経験」への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017)6p
創造的な思考=「不法侵入者を通して生じる思考」
ドゥルーズに置ける「非意志的な思考」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINT非意志的な思考(仏:pensée involontaire):自分の意志ではなく、外部からの衝撃によって始まる思考のこと。ドゥルーズの概念。
たとえば失恋したときに「愛のあり方」について思考したり、原発事故を通して「社会のあり方」について思考するようなケースが考えられる。
表現できないほどの衝撃的な芸術作品に接して「美のあり方」について思考するようなケースもあるかもしれない。
・特に参考にしたページ
松枝拓生「ドゥルーズの「実在的経験」への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017)6-7p
ドゥルーズにおける「不法侵入者」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINT不法侵入者(仏:effraction):自分の世界に突然侵入してくる衝撃的出来事のこと。
不法侵入者は「暴力」であり、「敵」でもあると表現されている。なぜ暴力なのかというと、自分ではコントロールできず、再認によって固定的に解釈することもできないような性質をもって衝撃を与え、既存の理解を破壊してくるからである。「安定的な価値観をもった私」は壊されるのであり、既存の私にとってその衝撃は異物であり、敵にも見えてくる。
たとえば「愛とはお金である」と信じ切っている人Aが、「お金は愛ではない」と信じ切っている人Bと出会い、失恋したとする。Aは衝撃を受け、愛について考え直さないといけなくなる。
こうした「受動的な思考」は「強制的に思考させられている」ようなケースであり、「受苦(仏:passion)」と表現されている。信じていた価値観が崩れ、安定的で固定的な理解が機能しなくなり、思考せざるをえないのである。
・特に参考にしたページ
大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法」,河出文庫,47p
松枝拓生「ドゥルーズの「実在的経験」への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017)6-7p
ドゥルーズにおける「天性の思考」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
デカルトやカントに代表される西洋哲学における「天性の思考」をドゥルーズは批判している。
POINT天性の思考(仏:pensée naturelle):人間は生まれながらに思考する能力と意志をもち、思考は本来的に真理を志向するという前提に基づいた思考のこと。「ドグマティックなイメージ」とも表現される。ドゥルーズの概念。
あらゆる人間は真実を知りたいと思う生き物であり、問題を積極的・自発的に設定して探求することを欲する生き物であるとあたりまえに想定されがちである。
もちろんそうした思考が誤りうることや、能力の限界はあるが、基本的には真理へ向かう行為だとされている。すべてを疑ったかにみえるデカルトすら、「私」や「考えること」については疑わずに前提としている。カントにおいても「超越論的主観が想定されるだけでその発生を問いただしていない」とドゥルーズは批判している。
ドゥルーズは現実は「天性の思考」とは逆であるという。人間は本来的に思考をすることを欲しているわけではないという。
人間は自分から思考したいと欲して始めるのではなく、「世界から衝撃を受けて思考せざるをえなくなる」という発想の転換が行われている。ここでいう思考の主体は「世界を見下ろして理解する存在」ではなく、「世界の変化に巻き込まれる存在」である。ドゥルーズは「私や意志、能力」を生成する「場や流れ、差異」をより重視する(端的に言えば「差異があるから私や思考が強制的に生成される」ことになる。差異の根源的な発生は説明されない)。
・特に参考にしたページ
松枝拓生「ドゥルーズの「実在的経験」への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017),5-6p
本当の思考=「超越的な行使」
POINT超越的な行使:能力が再認の枠組みから切り離され、その能力に固有の対象へ向かって極限的に発揮される作用のこと。ドゥルーズの概念。
ここでいう能力とは目で見る、耳で聞く、記憶する、判断するといったさまざまな能力を意味する。各能力が共通感覚として調和的に「同じ対象」へ統合的に向かい、認識されるのではないことに注意する必要がある。
たとえばわれわれは「Xが吠えている」のを聞いて「Xは犬である」と再認する。「Xが毛むくじゃらで、四足歩行で、耳があり・・・」と目で見て「Xは犬である」と再認する。異なる能力を協力的に用いて「同じ対象」について考えている。
こうした同じ対象へと向かう調和的な能力を「共通感覚(仏:sens commun)」という。そして今までの哲学ではその共通感覚を統一している「私」が想定されてきた(カントでいえば超越論的主観)。また、そのような「私」(という機能)が前提とされてはじめて再認が可能になる。
ドゥルーズは、「何だこれは?」と既に知っている概念に位置づけられない何かに「遭遇」した場合、共同感覚における能力同士の関係は壊れる。
たとえば未確認生命体Xを見て、「これはなんだ?」と強制的に考えさせられると、思考はすぐに終わらない。既存の概念や理論では説明できない場合、概念や理論を新しく生み出して位置づける必要が出てくる。たとえば味覚はただ味わうことに特化し、触覚は触ることに特化するのであり、既存のカテゴリーを通した「同じ何か」を思い出すためだけに使用されるわけではなくなる。
たとえば既存の枠組みではあるXをどうしても解釈することができない衝撃をある研究者は受けたとする。
そこで、研究者は古典的な物理学理論ではなく、新たな理論的枠組みによって概念を設定し、捉え直す必要があるのではないかと「思考」するかもしれない(あるいは無理やり既存の概念に捻じ曲げて当てはめるかもしれない。あるいは思考を放棄するかもしれない。)。
もちろん新たな理論でXを全て解釈でき、もうこれで永遠に問題は解決した、固定できたことにはならない。世界は常に変化し続けていくのであり、それに伴って新しい衝撃が生じうる。たとえば新たな観察技術の登場でガラリと見え方が変わるかもしれない。
我々はそのたびに新しい概念装置を創造せざるをえなくなる。レンガを積み重ねるような発展ではなく、素材自体の変化、並べ方の変化が重要になる。
ドゥルーズからすれば「私」も「世界」も常に変化しているのであり、再認はそれに反対して「固定」しようとしてしまうのである。いわば能力を制約してしまうのである。
既存の社会の正解とされる体系・秩序にあらゆるものを当てはめて満足し、安心し、管理しようとしてしまうことは不健全な事態を生じかねない。
・特に参考にしたページ
松枝拓生「ドゥルーズの「実在的経験」への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017),5-6p
名もなき力=再認では捉えられない「強度」
ドゥルーズにおける「強度」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINT強度(仏:intensité):物事を変化させる差異や力の大きさのこと。ドゥルーズの概念。
「これはxである」と分類される前の、「生きた変化の力α」のことだと表現することができる。不法侵入者を別の観点から説明した用語だといえる。
強度に遭遇して能力が限界まで活性化している過程をドゥルーズは「暴力の連絡」と表現している。記憶、想像力、視覚などあらゆる能力に、電流が流れるように全体へ強度が波及し、変化させていくような過程である。
社会全体の変化という観点で考えると、トーマス・クーンでいう「パラダイムシフト」とも関連付けることができるかもしれない。人類学者のベイトソンでいえば学習2や3の次元の変化だろう。もっとも、こうした次元での変化はそう簡単には生じない。
たとえば強烈な印象を与える芸術作品を見た時、「なんと表現したらいいかわからない」という状態になることがある。「xが良いから感動した」といったように対象化して言語化できないような衝撃である。
あるいは失恋した時、「自分の感情をどう表現したらいいかわからない」こともあるかもしれない。しかもその感情を自由に振り切ることが出来ず、常に既に自分に襲いかかっているようなイメージである。
・特に参考にしたページ
松枝拓生「ドゥルーズの「実在的経験」への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017),7p
ベネディクト・アンダーソンにおける「亡霊」を通して強度を知る
私はこの「強制性」や「強迫性」を聞くと、最近学んだベネディクト・アンダーソンの「比較の亡霊」という概念を思い出す。
POINT比較の亡霊(英:spectre of comparisons):目の前にある現実を、常に他の対象と比較せずにはいられない、近現代特有の眩暈のような意識のこと。
植民地の人たちは宗主国の文化をいったん知ってしまうと、常に比較せずにはいられなくなってしまう場合がある。こうした「比較の思考」は「国民(ネーション)」の形成を支える要素の一つであった。
植民地のエリートからすれば、文化も言語も宗主国の人たちと同じであるにもかかわらず生まれが違うだけで差別されるのは一種の「衝撃」であり、極めて大きな「差異」として際立つ。しかも出版物や派遣されてくる宗主国のエリートによって常に比較対象の情報が目に入ってくるのであり、避けがたい。
もちろん「悲しい」、「差別」といったように強度αに対して抽象的に名前をつけ、分類することはできる。
しかし「名前をつける前の衝撃、動揺、今までのどれとも容易に当てはまらない、回避もできないような力そのもの」に固定的な名前をつけることは難しい。抽象的に既知のラベルをつけたところで、「理解できた」、「思考がスッキリした」となるわけでもない。
たとえば失恋した後で「悲しい」とラベルをつけてそのままにしておけるか。自分の芸術作品を完全に凌駕するような作品と出会ったあとで「すごい」とラベルをつけてそのままにしておけるか。
そうした衝撃、強度は一種の「暴力」であり、自分で制御することは難しい。呼吸が無意識になされるように、思考も無意識に勝手に働き出してしまうのである。愛とはこうではないか、美とはこうでもありえたのではないか、と以前のカテゴリーが破壊され、新たなカテゴリーが生み出される過程である。
・特に参考にしたページ
三尾稔「人類学における比較とナショナリズム: 比較の視線の転回を求めて」(2010),159-160p
ニクラス・ルーマンにおける「社会システム」で「強度」を理解する
ニクラス・ルーマンの社会学を学ぶ際に、「川とは水が集まったものか」という問題を扱ったことがある。
従来の考えでいえば「川とは水が集まったものである」と固定させてしまう。しかしルーマン的に考えれば「川とは水が流れるところ」であり、川の本質的要素は水ではなく「流れ」になる。同じように、社会とは人の集まりではなく、コミュニケーションという作用の流れ(相互作用)が本質であると考えていく。井庭崇さんの表現で言えば創造とは「発見の連鎖」であり、人の心理や他の行為はいったん、環境として外に置かれる。
「流れ」の理解が重要だ。世界も人間も、常に既に流れの中にいる。ヘラクレイトスがいったように、同じ川に人間はニ度入れない。しかし同じような流れは抽象的に見れば存在するかもしれない。
ある流れのパターンがスムーズに生じていれば、流れに対して意識が向かいにくい。たとえば「xは犬である」と再認する作業は流れがスムーズである(まさに流れ作業であり、無意識的である)。そうめん流しにおいて無事にそうめんが流れているときに流れに対してとりわけ目がいかないこととも似ている。
しかしときには流れが急になり、あるいは色すら変わり、もはやxがなにものかよくわからないときが生じてくる。失恋をすればその人が生きている流れが変わる。自分の研究を全否定するような批判を受けても流れが変わるかもしれない。AIの登場によって急に自分の仕事の意味、生きる意味が変わりだすかもしれない。室内に侵入してブンブンと羽音を立てるスズメバチやアブを人間は無視し続けることができない。
もはや安全な流れに自分が存在せず、どうにかして流れに合わせて思考し直さなくてはならない状態になる。
たとえば原始共同体において「精霊がいる」とか、「先祖の霊が木片や石に宿っている」という考えが生じたとき、なんらかの「衝撃」が先にあったのではないか。
共同体で疫病が流行ったり、戦争で多くの人間が死んだり、飢饉が生じるといった「非常事態」において人は説明せざるをえない状況に立たされるのではないか。
参考文献リスト
今回特に参考にした文献
大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法 (河出文庫) 」
大澤真幸「考えるということ 知的創造の方法 (河出文庫) 」」
グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2) 」
グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2) 」
グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (中) (岩波文庫 青N604-3) 」
グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (中) (岩波文庫 青N604-3) 」
グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (下) (岩波文庫 青N604-4) 」
グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学へ (下) (岩波文庫 青N604-4) 」
汎用文献
高橋 誠「問題解決手法の知識」
鷲田 小彌太「分かる使える思考法事典: アイディアを生み出し、形にする50の技法」
鷲田 小彌太「分かる使える思考法事典: アイディアを生み出し、形にする50の技法」
三谷宏治「マジビジプロ 超図解 三谷教授と学ぶ 「拡げる」×「絞る」で明快! 全思考法カタログ」
三谷宏治「マジビジプロ 超図解 三谷教授と学ぶ 「拡げる」×「絞る」で明快! 全思考法カタログ」
B.ミラー (著), 弓野 憲一 (監修, 翻訳), 宗吉 秀樹 (翻訳) 「創造的問題解決: なぜ問題が解決できないのか?」
B.ミラー (著), 弓野 憲一 (監修, 翻訳), 宗吉 秀樹 (翻訳) 「創造的問題解決: なぜ問題が解決できないのか?」
高橋 誠 「新編創造力事典: 日本人の創造力を開発する」
参考論文
松枝拓生「ドゥルーズの「実在的経験」への視座-思考と自己の力動的関係に着目して-」(2017[URL]
















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