動画での説明
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はじめに
創造技法の位置づけ
図で整理したものがこちら。
※詳細は第一回や創造発見法の記事で説明している。
問題解決技法を整理すると下の図のようになる。
今回扱う「抽象化」は主に収束技法に位置づけられる。
※発散技法とはアイデアをたくさん出していく技法のこと。収束技法とはアイデアを絞り込む技法。
記事の分割について
現象学について
以前扱った記事をベースに議論を組み立てている。詳細はこちらのシリーズを参照。
理念的対象と実在的対象の違い
現象学における「基体」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
論理学において「SはPである」という言葉は「主語S(Subject)において、述語P(Predicate)が成り立つ」という意味である。
たとえば「そのポチは白い」という命題において、Sは「そのポチ」であり、Pは「白い」である。こうした命題は基本的に真偽が判定可能であるとされている。実際にポチが存在すれば目で確認できる。
「そのポチ」という名詞は「それは私が飼っている動物」、「それは犬である」といった命題が圧縮(省略)されたものかもしれない。
あらゆる意味(性質・属性・関係)を全て除外して残るのが「それ」である。フッサールは「基体」、あるいは「X」と表現している。
「そのポチ」のことを考える場合、私は基体だけを考えているわけではない。そうした思考は魚の骨だけを食べるようなものである。つまり、基体と意味がセットになって、基体に意味がまとわりついて「そのポチ」が構成されている。
見た目から「それがなんであるか」の見当がほとんどつかない、宇宙生命体Xが眼の前に現れたとする。
われわれはその宇宙生命体を上手く言語化したり、属性を取り出すことが難しい。「それ」と呼んだり、「よくわからないなにか」と呼んだりするかもしれない。このようなイメージを行えば基体の理解がしやすくなる。宇宙人から見れば人間やリンゴも「それ」かもしれない。つまり、「甘い」とか「赤い」といった意味づけが上手く行われていない基体に近い。
たとえば外見も性格も完全に一緒の秋田犬AとBが存在すると仮定する。Aは毛が金色であり、Bも毛が金色であり・・・と表現を重ねていっても全く同じである。動きも同じで、飼われてきた環境も同じであると極限的に仮定してみる。
しかし、違う点がある。それは、「時間と空間の位置」である。同じ場所に同時に違う個体が存在することができないからである。属性がほとんど同じであったとしても「基体」が違うのである。
ポチは白い毛が生えている、ポチは足が四本ある、ポチは尻尾が生えている、ポチは・・・と言ったように多様な意味が基体にはくっついている。
このような基体と意味のセットを「対象(存在)」と表現しておく。我々はあらゆる属性を同時に考慮しているわけではないが、考慮しているかのように飛び越えて信じている傾向がある。たとえばサイコロの六面を同時に目で見ることはできないが、しかし六面があるという当然の前提で対象を超越的に構成している。
理念的対象とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
フッサールは対象を「実在的対象、中立的対象、理念的対象」の三種類に分けて考えている。
POINT実在的対象:客観的時間・空間の中に位置づけられるような対象(存在)のこと。例:「東京駅をさっき通過した新幹線のぞみ」
POINT中立的対象:擬似的な客観的時間・空間の中に位置づけられるような対象(存在)のこと。例:絵本の白雪姫、ミッキーマウス。「昔々あるところに・・・」という表現は現実における具体的な時間や空間を意味しない。
POINT理念的対象:客観的時間・空間の中に位置づけられないような対象(存在)のこと。
例えば「新幹線そのもの」はどこにも走っていないし、走ったこともない。「リンゴそのもの」を食べることはできない。「1+1=2であった」といった時間的位置をもつことはない。
真理、命題、概念といったものが理念的対象の代表例である。基本的に目で見たり触ったりすることができず、頭の中でのみ存在するものである。
我々は「実在的対象」よりも「理念的対象」をより抽象的だと考えることが多い。「眼の前の犬」より「犬というカテゴリー」のほうが抽象的である。さらに、「哺乳類」というカテゴリーのほうが抽象的である。
理念的対象の内部において、種よりも類のほうが抽象度が高い。秋田犬、犬、哺乳類、生物といったように抽象度が階型的に上がっていくのである。一方で、「その犬(🐶)」は種よりも抽象度が低く、「個体」と表現されている。
命題同士にも抽象度には違いがある。たとえば知覚によって直接的に確かめられるものは抽象度が低いといえる。たとえば、「隣で飼われている犬のポチは毛が白い」という命題そのものは理念的対象である。しかし、実際に目で見て確かめられる命題である。
一方で、「1+1=2である」という命題は実際に目で見て確かめることはできない(公理・定義から演繹して証明する)。それゆえに、命題の内部でも抽象度の違いがあるといえる。
「形式化」と「理念化」
たとえば「隣の家で飼われている犬A」、「私の家で飼われている犬B」、「隣の町で飼われている犬C」….はいわゆる「個体」である(※言葉そのものは個体ではない。🐶とでも表現すべきもの)。
こうした個体はそれぞれ「基体」と「属性(質量的成分、述語、意味)」に分かれる。人によって具体的にどのような意味づけを行うのかは違うが、同じ基体(それ)に向かっている。例:田中さんの「私の犬」という意味づけと、鈴木さんの「田中家で飼われている犬」など。
我々は「基体と属性のセット」から、能動的に特定の属性(成分)を抽出することのできる能力をもっているという。いわゆる「抽象化」である。取り出された成分を「カテゴリー的成分」という。
たとえば「xは白い」といった命題から「白さ」というカテゴリー的成分をとりだすことができる。机と板と脚に分ける場合の板や脚はカテゴリー的成分ではない(独立できる部分だから)。一方で机における形や色はカテゴリー的成分である(独立できない部分だから。契機、モメントとも表現される。)。
抽象化の例としてフッサールは「類化」と「形式化」、「理念化」を挙げている。
まず、「質料」と「形式」の違いを理解する必要がある。
たとえば、「それは犬である」というときの「犬」は質料的な成分である。なぜなら、「ある基体が何であるかを表す成分」だからだという。この成分を「事象内容をもった本質」とも呼ぶ。
一方で、数字の1や2は「ある基体が何であるかを表す成分」ではない。たとえば1という成分を聞いただけで、対象が何であるかを具体的に把握できるだろうか。丸い、重い、赤い、ツヤツヤしている、動いているといった「質料」とは違うのである。
それゆえに数は「事象内容を持たない本質」であるとされている。
ツヤツヤしている、赤いといった契機は「事象内容」であるといえる。もし基体から全ての事象内容を能動的に排除すると、基体だけを抽出(抽象化)することになる。つまり、基体が純粋に形式として抽出されたことになる。
基体が数字の1として抽出され、さらに1と1で、2のように直観的に構成されていくという。ただし、直観的に構成される数字は12までだとフッサールはいう。たしかにパッと見て数をまとまりとして認識できるのは12くらいだろう。
たとえば20は10をひとつの「記号」として扱い、それを足し合わせる操作がいる。
直観的に数えられないような巨大な数字(無限)などはより抽象的な意識の働きが必要となるという。これを「理念化」という。
たとえば「全ての正の数」をわれわれは1,2,3,4…と知覚的に確認することはできない。そこで、「どんな数にも次の数がある」というルールをもとに、「無限に続く数」が意識によって理念的対象として構成されるのである。
もちろん数字だけではなく、「完全な直線」や「完全な円」、「完全な真空」も理念的なものである(実際には知覚・再現できない)。
POINT形式化(独:Formalisierung):対象の具体的な意味を取り去って、形式・関係だけを扱えるようにする抽象化のこと。
POINT理念化(独:Idealisierung):不完全さや有限性を取り去って、完全なものだけを扱えるようにする抽象化のこと。
形式化や理念化、つまり抽象化によって具体的な内容や不完全な内容が実際に消えたわけではないことに注意する必要がある。特定のものだけがあるかのように、頭の中で構成(シミュレーション)しているようなイメージである。
「類化」とは
POINT類化(独:Generalisierung):種から、それを包み込むより上位の類へと本質を一般化して捉える意識の働きのこと。
たとえば「目の前の犬」や「近所の犬」、「テレビで見た犬」など、似たような犬(個体)を複数見つけたとする。そしてその似ている性質を「立ち耳」、「巻き尾」、「がっしりした体格」・・・といったようにとりだしてみる。そして、「この犬の種は秋田犬だ」と考えるとする。
個体からもっとも近い一般化を「最低の種(スペチエス)」という。さらに秋田犬、チワワ、ブルドッグなどに共通している要素を見つけ、一般化すると「犬」というより上位の概念(理念的対象)が見つかる。
このように、最低の種からより上位の概念(類)へと変化させる意識の働きを「類化」と呼ぶのである。※ちなみに生物学では種、属、科、目、綱、門、界、ドメインという概念の階層が存在する(類をより細かく上下関係で分けたものと考えることができる)。
フッサールはもっとも抽象度が高い類を「最高類」と呼ぶ。最高類は「物質的自然」、「生命的自然」、「精神世界」の3つだけである。「この犬(🐶)」の最低種は秋田犬、最高類は生命的自然だということになる。
類化は最高類の範囲内での上昇である。たとえば秋田犬を物質的自然へ上昇させることはできない。ちなみに類化は「それが何であるか」という意味内容に関わるものであり、形式化とは区別される。
「形相的還元(本質感取)」とは
フッサールの現象学において本質とはどういう意味か。
POINT本質(独:Wesen):事実に含まれている必然的な側面、理念的な意味のこと。
例:目の前のリンゴ(個体1)にも、昨日見たリンゴ(個体2)にも、友人が食べているリンゴ(個体3)にも共通している本質は「種子をもつ」、「ヘタがある」、「丸っぽい」、「ツヤがある」など。
本質と似たような用語として、「理念的、普遍的、必然的」という用語があり、まとめて「アプリオリなグループ」と表現されることがある。アプリオリなグループと対照的なグループとして、「実在的、特殊的、偶然的、事実的」といった用語がある。
ここでいうアプリオリとは、生まれつき備わっているという(カント的な)意味ではなく、「時制変化しない」という意味である。たとえば、「1+1=2である」という理念的対象が、「1+1=2であった」となることはない。「色は広がりをもっていた」となることもない。
もちろん、「もうこれで本質を完全につかんだ」と言えるほどの理念的対象を人間は捉えきることができるのかという問題はある。
いわゆる「客観的真理」のようなものをフッサールは前提としていない。「もうこれ以上疑いようもなく、誰が考えても同じような本質にたどりついた」という時点で「本質」だと表現することが可能である。しかし、後になって疑われ、より不可疑的な規定へと修正されることを否定するものではない。完全に実証できるケースは地平線のように極限的(理想的)なものであるといえる。
本質は「質料的本質」と「形式的本質」にわかれている。類化と形式化の区別を思い出せば理解しやすい。具体的な内容を伴うかどうかの違いである。
リンゴの本質は、個体(個的存在)に依存している。つまり、特定の時間位置をもった対象(実在的対象)を知覚し、思考することによって取り出されるのである。もちろん、リンゴを全く見たことがない人がリンゴの本質を取り出す場合もあるかもしれない。しかし、誰かが代わりに見て、情報を残したからこそ可能なのである。
ちなみに古代の哲学者のアリストテレスは形相は「物事の本質的な特性やあり方」であり、質料は「その実体を成す基盤となる物質 」のことだと主張している。
たとえば銅像においての形相は像としての形状やデザインである。質料は銅である。
フッサールは形相を「質料的本質」であると考えている。つまり、具体的な内容(質料)に依存した本質(理念的対象)のことである。
POINT言形相的還元(独:eidetische Reduktion):ある事象内容をもった個体から出発して、空想的な自由変更をつうじて本質を抽出する思考のこと。能動的な作用だという点が重要である。
特に能動的に意識せずとも、直観的にパッと本質をつかむようなケースを本質直観という。エポケーや超越論的還元という難解な用語は今回扱わない。「直接的な知覚や経験、直観と無関係に本質、真理、存在があるという思い込みを停止する態度」として今回は理解しておこう。数字すらその起源に知覚経験がある。
たとえば「犬」の本質を人間は原初的に、どのように知ることができたのだろうか。ある動物Aを見るだけでは「犬」というラベルを貼ることが難しい。似たような動物B、動物C、動物Dと見ていく必要がある。なぜ狼と犬は区別できるのだろうか。
鳴き声、四本脚、人間への懐き方、鼻、口、歯、習性、構造、遺伝子、さまざまな要素が検討の対象となる。それらの要素の組み合わせ方によって犬の本質が見えてくる。
フッサールの現象学では「犬の本質」や「石の本質」、「宗教の本質」、「社会の本質」といったものを明らかにすることを直接の目的とはしていない。
現象学以外の生物学や宗教学、社会学でも「〇〇の本質」を明らかにするという試みはすでにあるのではないか、という疑問が生じる。しかしフッサールにおいて重要なのは「世界、社会、他者、神話、伝聞の情報」などの当たり前の態度(自然的態度)をいったん取り除き、直接的な経験から出発して本質に迫るという方法である。
「すでに世界や他者は私と無関係に存在する」とか、「〇〇学問では常識とされている理論を前提にする」といった態度で本質に迫ろうとするわけではない。
それらの知見が無意味だと言っているのではない。学問の土台である「直接的な経験(生活世界)」を曖昧で主観的だと軽視している状態を「危機」であるとフッサールは考えているのだ。そもそもなぜ科学は存在しているのかといえば、「生活世界を助けるため」ではなかったか、とフッサールは批判する。
「ある事象内容をもった個体から出発する」ことは、直接経験できる世界、直観に根ざした知見であることとつながっている。
もちろん、全ての要素を直接経験できるわけではない。頭の中で自由に変更してみる作業も必要になる(空想ともいう)。たとえば眼の前にいる犬を頭の中で大きくしたり、小さくしたり、毛を伸ばしたりしてみる。しかしそうした変化は犬の本質ではなさそうだ。歯を全部なくしたらどうだろうか、尻尾をなくしたらどうだろうか、といったように考えていくのである。
能動的な操作によって本質を取り出す作業が「形相的還元」だとするならば、直接経験することによって直観的に取り出す作業が「本質直観」である。
われわれはたとえ言語化できず、明確にイメージしていなくても、「リンゴの本質」や「犬の本質」をなんとなくわかっている。すぐに人や犬との違い、リンゴとブドウの違いを理解できる。「石を触ると硬い、スベスベしている」という直観的なイメージを疑うことは難しい(そのイメージの言語化の過程で違いが出ることはあある)。
直観的にわかってはいるが、言語化がむずかしい。だからこそ、人間は「既存の知識・常識」に頼ろうとしてしまう。辞書で調べたり、参考書で調べた「本質」が正しいと前もって決めてしまい、自分の経験から得られたであろう知識をないがしろにするのである。自分の経験したことがない本質からさらに抽象的な思考が重ねられ、ますます具体的な現実と疎遠になってしまう。
それゆえに、フッサールはそうした常識、偏見をいったん遮断する方法論的態度を推奨しているのである。
フッサールは現象学を通してそもそも「意識するとはどういうことか」、「時間とはなにか」、「私とはなにか」、「世界とはなにか」といった「あらゆるものを基礎づける本質」まで迫ろうとしている。
なぜわれわれは自分とは無関係に世界が存在すると信じてしまうのか、見えていない側面の対象を含めて構成してしまうのか、その意識(志向性)の仕組み、根源を明らかにしようとしているのである。フッサールからすれば、「犬の本質」や「政治の本質」、「電気の本質」よりもそちらの優先度が高いのである。
社会学における理念型とは
社会学の創始者の1人であるマックス・ウェーバーは、「理念型」という重要な概念を提唱している。
POINT理念型(英:ideal type):現実をそのまま写したものではなく、分析のために要素を極端化して作る抽象的なモデルのこと。
たとえば「プロテスタントという宗派は禁欲的である」という理念型をウェーバーはつくっている。プロテスタントと名乗る人には「禁欲的ではない人」がいる。しかし、いったん「プロテスタントは禁欲的である」と分析のために一般化するのである。
社会学者のジンメルは「形式」を重視した。現象学でいうと「形式化」に近いだろう。たとえば宗教、政治、家庭でも、「権力関係」という人と人との間の心理的な相互作用が存在する。具体的にどういう形をしているかはケースバイケースとされ捨象されるのである。
社会学では「行為」、「主体」、「社会」といった抽象的な用語を使う。現実には多様であるものを、端的に表現することも抽象化である。
我々は抽象化された概念を組み合わせて理論を作り、その道具(いわば虫眼鏡)を通して現実を見ていくのである。
これは学問だけの世界ではない。われわれも日常において、たとえば「怒りっぽい人」という典型例(いわば理念型)を、特定の目的に合わせて(たとえば危険だから避けるためなど)用いていると言える。日常でも「理念型化」を行っているのである。
社会学者のロバート・マートンは、実証できる範囲で概念や理論を用いることを推奨していた。いわゆる中範囲の理論である。
「実証できる」という言葉は「具体的に確認できる」という言葉に置き換えてみることができる。つまり、「具体化できる範囲を飛び越えて、自分勝手な抽象化ばかりをすることは学問的に好ましくない」ということになる。
冒頭で、「具体→抽象→具体の反復が重要である」という趣旨を述べた。さらにフッサールが「生活世界に根ざした学問の成立」を目指そうとしていることを述べた。
これらに共通しているのは、「具体的なものを軽視しない」という点である。抽象化は人間が世界を理解するために重要な思考の道具であるが、「具体的なものに根ざしている」という視点が重要なである。「具体的になにが挙げられるか、根拠はあるか」という問いに常に答えられるようにしておきたい。
今回特に参考にした文献
谷 徹 「これが現象学だ (講談社現代新書 1635) 」
細谷 功 「「具体⇄抽象」トレーニング 思考力が飛躍的にアップする29問 (PHPビジネス新書) 」
細谷 功 「「具体⇄抽象」トレーニング 思考力が飛躍的にアップする29問 (PHPビジネス新書) 」
汎用文献
高橋 誠「問題解決手法の知識」
鷲田 小彌太「分かる使える思考法事典: アイディアを生み出し、形にする50の技法」
鷲田 小彌太「分かる使える思考法事典: アイディアを生み出し、形にする50の技法」
三谷宏治「マジビジプロ 超図解 三谷教授と学ぶ 「拡げる」×「絞る」で明快! 全思考法カタログ」
三谷宏治「マジビジプロ 超図解 三谷教授と学ぶ 「拡げる」×「絞る」で明快! 全思考法カタログ」
B.ミラー (著), 弓野 憲一 (監修, 翻訳), 宗吉 秀樹 (翻訳) 「創造的問題解決: なぜ問題が解決できないのか?」
B.ミラー (著), 弓野 憲一 (監修, 翻訳), 宗吉 秀樹 (翻訳) 「創造的問題解決: なぜ問題が解決できないのか?」











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