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現象学とはなにか
- 2016/4/10
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エトムント・フッサールとは
Contents
- 1 プロフィール
- 2 定義
- 3 【自然的態度】とはなにか
- 4 【エポケー】とはなにか
- 5 【事象そのもの】とはなにか
- 6 【志向】とはなにか
- 7 【本質直観】とはなにか
- 8 真理、本質、観念論、観念論に対する批判、真理に対する批判、古代哲学、近代哲学、現代哲学、実存哲学、レトリカルな問い、究極の問い、本質の問い、現象学の意義と現代哲学に対する批判、主客一致の難問
- 9 【現象学的還元】とはなにか
- 10 【現象学的剰余】とはなにか
- 11 【超越論的還元(transzendentale R.】とはなにか
- 12 【形相的還元(本質観取、intersubjektive R. )】とはなにか
- 13 【共通了解の範囲】とは
- 14 【本質観取の流れ】とは
- 15 【想像変容】とは
プロフィール
エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、IPA:[ˈhʊsɛrl]、1859年4月8日 – 1938年4月27日)は、オーストリアの哲学者、数学者である。古くはフッセル、フッセルルとの表記も。 ウィーン大学で約2年間フランツ・ブレンターノに師事し、ドイツのハレ大学、ゲッティンゲン大学、フライブルク大学で教鞭をとる。 初めは数学基礎論の研究者であったが、ブレンターノの影響を受け、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。 現象学は20世紀哲学の新たな流れとなり、マルティン・ハイデッガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロー=ポンティらの後継者を生み出して現象学運動となり、学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。
(時代背景)
☆ヨーロッパ諸学の危機
1第一次世界大戦による人間と近代科学(デカルト的な認識論)への懐疑
2相対性理論、量子力学、不確定性原理などの、主体による客体の認識の限界
3認識論を哲学的に基礎付ける必要
4真理(実体)はあるのか
現象学とは
定義というものは、なかなか難しいですね。まずは定義を確認します。さまざまな本から定義のようなものを取り出していきます。この時点では、理解出来きません。こうした定義はどういうことを意味しているのか、それを少しずつ整理し、確認し、理解していきたいと思います。この記事を全部読み終わる頃には、こうした定義を見てもわからないという苦痛がなくなっていることを願いたいです。私も最初はこの定義を見て苦痛でしたが、徐々に、「なるほど」という気持ちが沸き起こってきてくれました。とくに山竹伸二さんの説明が分かりやすかったです。
定義
現象学: 1:日常の経験における自明性を疑い、何物をも前提としない根源的なもの、つまり純粋意識に立ち返って、世界の存在意味を問おうとしたもの*1 2:なぜ「客観的世界が実在している」という確信を持っているのか、その理由を問うもの*2 3:主体と客体、「私」と「あなた」はあらかじめ存在するのではなく、「志向性」のなかで事後的に構成されるという考え方*3 4:現象学的思考の特質は、あらゆる先入見を排し、意識に直接現われたもの、直観されたものに対し、内在としての絶対性を認める点にある*4 5:19世紀末、心理学主義・生物学主義の蔓延するヨーロッパ思想界を背景に、諸科学(数学・物理学)の基礎付けを行うことを目標にして、フッサール (1859 – 1938) が提唱した、学問及びそれに付随する方法論を超越論的現象学 (独: transzendentale Phänomenologie) と呼ぶ。超越論的現象学では、認識論的批判に無関心な、存在(=「超越」)を自明なものとして捉える「自然的態度」を保留にした状態で、存在と「意識」との関係及び、それぞれの意味が純粋経験=志向的体験から反省的に問われる。なお、後期フッサール(1920年代以後)においては更なる深化を遂げ、前-意識的な領域(現象が現象として成立する地平)を問う発生的現象学(独: genetische Phänomenologie) が唱えられる*5。 (+α)近代の哲学の特徴は、観念論的方法です。観念論的方法とは、意識に現れた世界を考えることです。 現象学以前の哲学は、この外部の客観的世界の実在性については疑わず、いかに外部の世界を正確に知覚し、言語化し、認識しうるかを問題にしていた。勿論、現象学の前身とも言える観念論の系譜には、ヒュームやヘーゲルのように、すでに意識に現われる世界だけを問題にする哲学は存在していたが、現象学ほどこの問題を徹底してはいなかった*25。 |
日常の経験における自明性について(フッサール『イデーン』)
【自然的態度】とはなにか
自然的態度:主観的な世界の外部に客観的世界があるのだと、素朴に信じている態度*25 ・日常生活や諸学問において、世界が経験とかかわりなく存続していると確信する態度*13
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言い換えれば、意識しないで自明のものとして素朴に事象を受け入れていることとなります。「意識の外部に客観的世界がある」という確信(思い込み、先入見)*15がある状態です。たとえば、我々が目の前のリンゴを見ていないときも、リンゴは当然そこに存在しているだろうと素朴に思うことなどが具体例として挙げられます。こうした思い込みを、エポケー(保留)していくのが、現象学的還元であり、超越的還元です。
【エポケー】とはなにか
エポケー(判断中止、保留、現象学的判断中止):自明として無自覚に受け入れている思い込みを排除すること ・いったん頭を空にすること*7 ・部屋の明かりのスイッチを切るようなもので、それで部屋自体が消えるわけではない(フッサール*24) ・(例)実在するという先入観を捨ててみること*19。 ・(例)(「愛」などのように実在していない場合)客観的な意味(真理)があるという先入見を捨ててみること*19 |
自明とは、「証明したり特に詳しく説明したりするまでもなく明らかなこと」です。たとえば、コップがあるとか、犬がいるといったことを、我々は意識もしないで自明のものとして素朴に受け入れて生きています。たしかに、なぜコップが目の前にあるのか、コップがあるということはどういうことか、なんてことをいちいち意識したりしません。そうした日常において自明として受け入れている思い込みを、取り除くことが「エポケー」なのです。たとえば、りんごが目の前にあるとします。そこで、「目の前のりんごは実在している」という判断を「保留」にしてみるのです。これをエポケーといいます。エポケーは、考えることを止めることではありません。思い込みから自由になって、「事象そのもの」へ迫るために判断を保留することを意味しています。
人間は、なかなか個体論的な発想から抜けだせません。やっぱりあなたが悪い、私が正しいと思い、あれこれの観測を数えあげてしまう。そこのところで、「ちょっと待て、いったん頭を空にしてみよう」という知恵が必要です。それを「エポケー」といい、日本語では「判断停止」などと訳します*7。
【事象そのもの】とはなにか
事象:表面的な事柄。現象。 事象と捉えるとは、単なる事実を受容しているに過ぎない。 事象そのもの:本質的な事柄。対象の本質。 本質に迫ることができている状態が、事象そのものに迫ることができている状態。 現象学でいう本質とは、誰もが共通了解し得る意味。この本質は外在的なものではなく、内在的なものです。神さまだけが知っているというような、外在的なものではありません(内在としての絶対性)。 また、現象学でいう本質は真理という意味ではありません。「人々が共通して認める得るという普遍性」なのです。これは決定的に重要な文章です。現象学は真理の存在を認めているという批判を多くの哲学から受けてきたそうですが、少し誤解があるみたいですね。
しかし繰り返し言えば、フッサールの言う「本質」とは、「誰しもが共通了解し得る意味」ということであり、人々の納得や承認と無関係に存在するようなものではない。「普遍性がある」とは「人々が共通して認める得る」ということであって、「真理がある」ということと同じではないのだ*27。
この事象というのは、一般諸科学でのような、無条件に世界の存在を確信する自然的態度におけるいわゆる事実ではなく、事象を事象たらしめているその本質のことであり、また、この探究に伴って意識の構造も明らかにされる。このため、いわゆる素朴実在論的客観主義とは、むしろ対立するものである*34。 |
事象(じしょう)を辞書で調べてみると、「ある事情のもとで、表面に現れた事柄。現実の出来事。現象」と出てきます。事象を現象と解釈すると、現象そのものへと迫ることが、現象学であるといえます。事象が表面だとすると、「そのもの」はもっと奥の、内面的なものとして捉えることができます。後で出てきますが、現象学には、現象学的還元というものがあり、超越的還元と形相的還元に二分されます。この形相的還元とは、言い換えれば「本質直観」です。本質とは、事物そのものです。現象学でいう本質とは、誰もが共通了解する意味です。例えば、リンゴの本質は、「丸い」などが考えられます。
意識は、単に事実を受容するだけではなく、自ら対象に向かって動き(志向)、想像力を駆使して、その本質を直観し(本質直観)、対象として構成していることがわかると、フッサールは考えました*6。
じつは「現象」と訳されている言葉は、古代ギリシャでは「イデア」と対置される、移ろいやすいこの世に現れた影のようなもの、という意味の言葉でした。それは無視して本質を把握すればいい、という考えもあります。しかし現象学は、その移ろう現象とはどういうものであるか、どう向かいあえばいいのか、を考えたわけです。そしてこの現象学が、「理性を行使する主体」という考え方が崩れたあとの思想界に、影響を与えていくことになります*7。
事象そのものとは、対象の本質であると解釈することができます。単に事実を受容している状態が、事象しか捉えることができてない状態だとすれば、事象の本質に迫っている状態が、本質を直観できている状態といえます。
「志向(しこう)」と「本質直観」という新たな言葉が出てきました。この「志向」と「本質直観」を使って、事象(対象、現象)そのものへ迫ることができるということです。次に、「志向」と「本質直観」の意味を掘り下げてみてきたいと思います。
【志向】とはなにか
志向:対象に向かって動くこと ・(一般的な意味)意識が一定の対象に向かうこと。考えや気持ちがある方向を目指すこと。指向(大辞泉)。 |
【本質直観】とはなにか
本質直観:全体の意味(誰もが共通了解する意味)を直感すること*18。 |
ところで、この「赤い」「まるい」「甘酸っぱい」などは、リンゴという個物の知覚された面だというだけではない。よく考えてみると、これはリンゴの”意味”としての側面もある。私はリンゴが「赤く、まるく、甘酸っぱいもの」だと考えることができ、言葉によって誰かに説明できる。また、それと同時に、「リンゴ=甘酸っぱい果物」という全体の意味も”直観”されている。このように直感された”意味”は、誰しもが共通して了解する意味なので、その対象の「本質」とも言える。そのため、こうした意味の直観をフッサールは「本質直観」と呼んでいる*18。
後で出てきますが、本質直観を「形相的還元」ともいいます。私の理解では、本質を直観することが本質直観であり、直観をさらに練り上げる行為が本質観取であり、その両方を合わせて形相的還元です。
一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理というものがある。それはすなわち、こういうものである。すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であるということ、つまり、われわれに対し「直観」のうちで原的に(いわば生身のありありとした現実性において)、呈示されてくるすべてのものは、それが自分を与えてくるとおりのままに、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取られねばならないということ、これである。(フッサール『イデーンⅠ』)
つまり、直観によって与えられたものは、与えられたとおりのままに受け取る必要がある。いま、目の前にリンゴが見えている。このリンゴが幻想であるのか実在するのか、それは答えの出ない問題だが、リンゴの像が原的に与えられ、直観されているということ、「リンゴが見えている」ということだけは確かである。そしてこれが「リンゴがある」という認識の正当性の源泉なのだ。勿論、フッサールがここで「認識」と言っているのは、意識の外部との一致を要求するような客観的認識などではなく、確信成立の条件だと解さねばならない。ここを読み損なうと、現象学を形而上学と同一視してしまい、直観による客観的認識のことだと誤解してしまうことになるだろう*33。
真理と本質について整理
真理、本質、観念論、観念論に対する批判、真理に対する批判、古代哲学、近代哲学、現代哲学、実存哲学、レトリカルな問い、究極の問い、本質の問い、現象学の意義と現代哲学に対する批判、主客一致の難問
【真理】:世界のありのまま(客観的な真実)。普遍的なもの。絶対的基準。 (現象学でいうところの)【本質】:誰もが納得するような意味。はじめから絶対的基準(真理)があるわけではない。 【観念論】:意識(理性による判断や主体的な行動)に焦点を当てるものです。 【観念論に対する批判】:批判のやり方は、意識を可能にしているものとしての社会構造や無意識、あるいは言語へと目を向けることで意識の根源性を否定するものです。たとえばマルクスは下部構造と上部構造にわけ、経済などの下部構造が、文化などの意識を規定すると言いました。資本家なら資本家の意識が生まれてくるし、労働者なら労働者の意識が生まれてきます。 (観念論に対する批判に対する批判)確かに無意識や社会構造は意識を規定しているかもしれませんが、「現象学の立場から見れば、社会や構造や無意識、言語について考えるためには、意識の経験を分析するよりほかありません」。無意識や社会構造は、意識の経験に依拠しているからです(重要)。 たとえば、「無意識」とは、意識において確信された”観念”である。「無意識のうちにやっていた」とか「無意識の不安があったかな」という考えは、意識において生じているのであり、実際に無意識があったかどうかは証明できない。そのため、多様な無意識の”仮説”が成り立ち、考え方の対立が生まれている。このような信念対立を解消するためには、各々の仮説(考え方)がどのようにして確信されたのか、意識経験に立ち返って観る必要がある。現象学が問題にしているのは、こうした「確信成立の条件」にほかならない。その意味で、現象学が”意識”に焦点を当てるのは正当性があるといえる。一見、意識を可能にしているように見えるもの(無意識、社会構造など)も、”意識において確信”されている。したがって、現代哲学による現象学批判は、あまり的を射たものとは言えないのだ*28。
【真理に対する批判】:現代哲学ではほとんど、「唯一絶対の真理など存在しない」という結論にいたっている。真理の存在が否定されるのは、「真理の存在が確証できないから」だけではなく、「真理という観念が生の意味や価値の絶対化に結びつくと有害になるから」。 (例)戦争、ナチズム、スターリニズム。 マックス・ホルクハイマー&テオドール・W・アドルノ『啓蒙の弁証法』:人間の理性を公的かつ自由に仕様することが、人格的な成長をもたらすとした啓蒙の理念は、実のところ、自己や他者を統御し、自然をも支配する知をうみだしたものではない。人間の理性は、自己保存のために働く「道具的理性」にほかならない。理性は、野蛮である*29。 【相対主義】:「唯一絶対の真理など存在しない」と考える立場。人それぞれの真理。プロタゴラスやニーチェがその代表。 プロタゴラス「人間は万物の尺度である」 ニーチェ「神は死んだ」 【古代哲学】:おおざっぱにまとめてしまえば、プラトンとアリストテレスが古代哲学であると言ってもいいでしょう。「世界とは”何か”」という問いが中心です。 【近代哲学】:デカルトからはじまり、ヒューム・ロック・バークリー(イギリス経験論)+スピノザ、ライプニッツ(大陸合理論)からカントへ、そしてヘーゲル(弁証法)、シェリング、フィヒテです。「真理は”認識”できるのか」という問いが中心です。現象学は近代哲学を受け継いでいるといえます。(弁証法の記事はこちらです。) 【現代哲学】:いわゆるポストモダンや、分析哲学です。レヴィ=ストロースやラカンの構造主義から、フーコー(記事)やデリダ(記事)のポスト構造主義へ至るのがフランスの現代思想であり、帰結は真理の否定であり、相対主義です。マルクス(記事1、記事2)やフランクフルト学派のホルクハイマーやアドルノといったドイツの現代哲学も、近代哲学批判が中心です。分析哲学も近代哲学批判であり、ウィトゲンシュタインからカルナップ(論理実証主義)、そしてクワインやデイヴィットソン、ローティへと至るネオプラグマティズムに繋がりますが、帰結は真理の否定であり、相対主義です。「真理は”ある”のか」という問いが中心です。 【実存哲学】:実存哲学とは、「世界とは何か」ではなく、「自己とは何か」を中心に問うものです。「私とは何か」というものは、実存に関する問いです。ニーチェ(記事)やキルケゴールからはじまり、フッサールの現象学の影響を受けたハイデガー(記事)の実存論、メロル=ポンティやサルトルのフランスの実存主義へとつながっていくものです。 【レトリカルな問い】;パラドクスを含む思考実験(現実的な悩みとは無関係)。 例:エピメニデスのパラドックス:あるクレタ島人が「すべてのクレタ島人は嘘つきである」といった場合、彼の言うことは嘘か本当か。 【究極の問い】:哲学史上の重要な難問(答えが存在しないと、カントが証明)。 例:神は存在するのか、世界に始まりはあるのか。カント「どちらともいえる(答えがない」)、「神は理性によって認識できない」(純粋理性批判) 【本質の問い】:共通了解が可能な意味を問う(本来の哲学的な問題)。 唯一絶対の真理が存在しないとしても、だからといって「絶対に正しいということなんてないのだ」と言わんばかりに個々人が勝手な行動をはじめれば、社会秩序は混乱し、自由を謳歌するどころか、自由の侵害に悩まされるだろう。あるいは、お互いの行為の価値を認め合い、共感しあう基盤を失い、<生きる意味>を感じることも困難になる。したがって、大勢の人間が共通して認めるという意味での、普遍性のある考え方は必要である*27。 【主客一致の難問】:意識に現れた世界(主観)は意識の外部にある実際の世界(客観)と一致するのか否か(事実を正確に主観が写しとっているのか否か) デカルト:神を持ちだして、認識可能 カント:認識不可能 フッサール:意識の外部に客観的世界があるという前提そのものが、じつは意識における思い込み(意識)にすぎないのではないか。なぜ客観的世界が実在していると確信を持っているのか、その理由を問うべきだと考えた。客観的世界があるという確信の構造、条件である。 現象学的還元によって、普遍的な本質を取り出し、客観的対象の実在性を確信する。 ※上記の分類は全般的に、山竹伸二さんの書籍、主張に依拠しています。おおまかな分類であり、相違する見解もあります。 |
現象学的還元(フッサール『イデーン』)
これは大体のイメージです。現象学的還元には、超越的還元と、形相的還元の二種類があります。超越的還元とは自然的態度からエポケーをして純粋意識へ志向することです。形相的還とは、本質直観、または観取することです。たとえば、りんごが目の前にあったら、たいていの人はりんごが目の前に実在していると考えます。これを自然的態度といいます。この実在するという常識、思い込みをいったん置いておきます。これをエポケーといいます。エポケーによって、リンゴを意識に現れた対象としてのみ捉えることができます。いうならば、りんごは意識しているから、実在しているのだと思うようになります。これが超越論的還元です。
誰もが共通了解できるような意味としてりんごを直感すること、捉えることが形相的還元であり、本質直観であり、本質観取です。本質とは、誰もが共通了解できるような意味のことです。たとえばりんごの本質は、「丸い」などが考えられます。このような、意識に直観として現れた本質は、外界の客観的実在性(たとえば、私がりんごを見ていない間も、りんごが在るということ)を確信させる重要な要件となります。本質は丸いじゃないか、と直するのが「本質直観」であるとすれば、ほんとうにその直観が正しいのかどうか、練りあげてみようということが、「本質観取」です。二つを合わせて形相的還元といいます。超越的還元と合わせて、現象学的還元といいます。
【現象学的還元】とはなにか
現象学的還元(pha゙nomenologische Reduktion):人々が社会生活の中で無自覚的に受け入れてきたさまざまな信念や思想を批判的に吟味すること*8 ・普段、私たちは事物の実在性を素朴に確信している。この確信がなぜ成り立っているのか、その条件を取り出す作業のこと*21 ・現象学的還元は、「超越論的還元」と「形相的還元」から構成される*11。 ・事象の究極的な基礎付けを厳密に行うための現象学における方法*12。 ・自然的態度から、エポケーに至り、純粋意識(現象学的剰余)が見いだされること。 |
リンゴがある(実在)から、リンゴが見えているという常識をまずはいったん置いておく。つまり、エポケーしておくのです。頭を空にして考えてみれば、リンゴが見えているから(意識に現れているから)、リンゴがある(実在)という確信を得るように見えます。こうした批判的な確かめ方を、「現象的還元」といいます。
【現象学的剰余】とはなにか
現象学的剰余:思い込みのヴェールを剥(は)ぎ取った後の純粋意識に見出されるもの*9。・ ・純粋意識=超越論的主観性*10 |
【超越論的還元(transzendentale R.】とはなにか
超越論的還元:判断を保留にすることによって、対象が「意識に現れた対象」としてのみ捉えられること*10 ・超越論的還元は、あくまで個人の意識の中での「自我論的還元」すぎない*16 ・客観的世界の実在性を否定するような唯心論ではない*23 【観念論】とは:物質ではなく観念的なもの(イデア・理念・意識など)が根本的本質だとする考え方。生滅変転の現象界に対し永劫不変のイデア界の優位を主張するプラトンの客観的観念論,近代では物の存在を知覚に解消しようとするバークリーの主観的観念論,経験的世界は超個人的な超越論的主観により構成されるとするカントの超越論的観念論など多様に存在する。「観念論」は主として認識論上の語で,倫理的な局面では「理想主義」と称する。また,存在論・世界観上は別に「唯心論」の語を与えることもある。アイディアリズム(大辞林)。 【唯心論】とは:哲学で、世界の本質と根源を精神的なものに求め、物質的なものはその現象ないし仮象と見なす形而上学的、世界観的な立場。プラトン・ライプニッツ・ヘーゲルらがその代表者。⇔唯物論。(デジタル大辞泉) 極端なことをいえば、私(主観)が見ている間しか、その物体は存在しないと考える立場である。見ていない間も存在するということが、客観的世界の実在性である。 【唯物論】とは:〘哲〙 物質を根本的実在とし,精神や意識をも物質に還元してとらえる考え。唯物論的思想は古代ギリシャ初期,中国・インドなどにも現れているが,近代以後では一八世紀フランスの機械的唯物論,一九世紀のマルクスの弁証法的唯物論などが代表的。マテリアリズム。 ↔ 唯心論 (大辞林) フッサールの比喩を借りるなら、それは部屋の明かりのスイッチを切るようなもので、それで部屋自体が消えるわけではない。超越論的還元の作業を終えれば、再びスイッチを入れて日常生活に戻るだけなのだ。この一時的な保留、判断停止をエポケーという。これによって世界が実在しているかどうかは不問にされ、問題は世界の実在性が確信されている条件とは何か、ということになる*24 現象学的観念論は、実在的世界の(そしてまずもっては自然の)現実的存在などを、否定したりするのではない。……(中略)……現象学的観念論の唯一の課題と作業は、この世界の意味を解明することにあり、正確に言えば、この世界が万人にとって現実的に存在するものとして妥当しかつ現実的な権利をもって妥当しているゆえんの、ほかならぬその意味を、解明することにあるのである(フッサール『イデーンⅠ』) |
では一体なぜ「リンゴがある」ことを信じて疑わないのか?
判断を保留にしてみる(これをエポケーと呼ぶ)。すると、目の前に見えているリンゴは、とりあえず「意識に現れた対象」として”のみ”捉えられる。フッサールはこれを、「純粋意識(超越論的主観性)への超越論的還元」という難しい言い方で説明している*10。
例えば目の前にある「机」や「コップ」などの物について考える場合、それらが客観的に実在するかどうかは決してわからないので、実在するという先入見を捨ててみる。この場合、「机」や「コップ」が意識に現われていること、それらが見えていること自体は絶対に確かなことだとわかるだろう。このように、普段、私たちは事物の実在性を素朴に確信している。この確信がなぜ成り立っているのか、その条件を取り出す作業のことを、フッサールは「超越論的還元」と呼んでいる*20。
自然的態度から、一歩外に出た段階が、超越論的還元です。自然的態度においては、「常識」に支配されている状態でもあります。目の前にりんごがある。だからリンゴが見える。という状態です。誰が見てもリンゴは見えるだろうし、見えない間もあるのだろうと素朴に考えます。そこから一歩でた段階では、常識をエポケーし、リンゴが見えているからリンゴがあるのではないか、と思うようになります。これが超越論的還元であり、現象学的還元です。判断を保留することによって、リンゴは意識に現れた対象としてのみ現れてくるのです。すなわち、見ているから、在るのだと思うようになるのです。フッサールはなぜ「客観的世界が実在している」という確信を持っているのかという問いに答えるために、こうした超越論的還元を考えたのです。繰り返しになりますが、主観的に認識する主体である「私」がりんごを見ていなくても、客観的世界においてあるという確信を持っているというのが自然的態度です。客観とは要するに、「主観から独立して存在する外界の事物」のことです。
【形相的還元(本質観取、intersubjektive R. )】とはなにか
形相的還元(本質観取、あるいは本質直観):最初に直感された不確かな意味を、誰もが納得するような本質へと練り直すこと*17 ・概念の本質を取り出すこと*17。 ・個々の事実も、知覚や想像の「自由変更」によって経験的普遍性から本質的普遍性に高められ、経験の影響を受けない本質が明らかにされること*14。 ・直観された本質をさらに普遍的なものへと練り上げること |
また、このことは実在的なものでなくても同じことが言える。例えば「不安」や「自由」などのような抽象概念についても、そこに客観的な意味(真理)があるという先入見を捨ててみる。すると、「不安」や「自由」の客観的な意味ではなく、意識に直接現われた(直観された)意味を考えることで、その本質を抽出することが可能になる。そして、この直観された本質はさらに普遍的なものへと練り上げることが可能であり、この作業のことを、フッサールは「形相的還元」または「本質直観」と呼んでいる*22。
形相的還元(本質直観、本質観取)について詳しく
【共通了解の範囲】とは
共通了解の範囲*30
【対象】 | 【共通了解】 | 【普遍性】 |
知覚・数学の対象:主に自然科学の対象。 | 広く共通了解が成立している。 | 普遍性を求めることができる |
概念(自由・不安など):主に哲学の対象。 | 共通了解が成立する可能性がある。 | 普遍性を求めることができる |
宗教・イデオロギー | 信じる人々の間でのみ、共通了解が成立する。 | イデオロギーについての記事 |
1+1は2になるというのは、ほとんどの国や文化で、表し方は異なっても同じような扱いだと思います。りんごが丸いと知覚するのも広く共通了解が成立しているといえます。虹が何色から構成されているか、これはいろいろな了解がありそうですね。それでも共通している要素も見いだせるかもしれません。このように、知覚や数字は、広く共通了解が整理している範囲だといえます。
自由や不安といった概念(イメージ)は、知覚・数学よりは範囲が狭そうです。どのような要素を持って自由といえるのか、さまざまな了解がありそうですね。どういう場合を自由と呼んでいるのかをよく考え、より確かだと思えるような本質へ近づけていくことが、本質観取です。個別的な体験に基づいた自由から、それがほかの人の経験においても成り立つかどうか考え、誰もが認めるような普遍的な本質を取り出すということです。また、知覚と違って、概念は非実在的です。リンゴのように眼の前に在るとはいえないようなものです。感情、時間、言語なども同じです。
宗教やイデオロギーは、他の範囲に比べて共通了解が得にくいです。偶像を崇拝してもいいといった宗教と、偶像崇拝禁止の宗教とでは共通了解が得られない場合もあります。女性を差別しているようにみえる宗教などもその典型例です。神はいるか、いないかという問題も、信じる人の間ではいるという共通了解が成り立つかもしれませんが、いないと考える人とは共通了解が成り立たない場合があります。
たとえ宗教やイデオロギーが異なる人々であっても、たとえば「正義とはなにか」などについて共通の意味を取り出すことができれば、そこに共有可能な価値を見出し、「最低限の共通ルール」を作り出すことができます。しかし、イスラム原理主義者のように特定の価値観を狂信的に信じている人は、他の価値観の人々と分かり合おうとしないことが多いです。つまり、対話を拒絶してしまします。弁証法(対話法)の記事でも書きましたが、無知の知を自覚して、対話することが重要なのです。たとえ対立が固定していても、より高い次元の段階へいくことが可能なのです。弁証法の場合は妥協や調和よりも、止揚といって高次の段階を目指していきます。現象学においても、いったんエポケーして保留することによって、自分の矛盾を気付きやすくなったり、相手の言っていることがわかってきたりするのではないでしょうか。お互いに矛盾していることがわかり、両者にも共有可能な価値を見出した、となればこれはある種の止揚であるともいえます。
(・・・)共通了解の可能性を模索することさえ拒否しかねない。そこでまず、一体なぜそのような価値観を信じているのか、お互いの関心・欲望を明らかにし、それを提示しあうことが必要になる。世界の認識、価値観は、それを信じている人の関心や欲望に相関して現れているからだ。自分がある価値観を信じている”理由”を知れば、その価値観を絶対視する姿勢から距離をとることができるし、相手が異なった価値観を信じている”理由”を知れば、容易には相手を避難できなくなる。お互いに大事なものが在ることを知り、歩み寄ろうという気持ちにもなりやすい*31。
【本質観取の流れ】とは
1:対象となる概念がどのように使われているかを考える |
2:誰もが納得するようなその概念の中心的な意味を考える |
(実験)リンゴ:;まずはリンゴの客観的な実在をいったんエポケーしてみます。私が知覚するから、リンゴが実在しているのだと考えます。このリンゴは幻想かもしれないが、とりあえず見えているのだから、実在している根拠の一つといえます。意識してりんごの形を変えようとしても、変わりません。これも実在している根拠の一つといえます。リンゴについての意味として直感的に思い浮かぶのは、赤い、丸い、甘酸っぱい、栄養があるというイメージです。
こうして直感された意味は、誰もが共通して了解する意味として通用するでしょうか。いや、もっと共通して了解する意味があるんじゃないか、と練りあげて考えてみます。アップルPCなわけないし、ツルツルしている、すこし甘い臭がする、すべてが赤いわけじゃない、くぼみがある・・・。といって練り上げていきます。最初にリンゴといえばアップルPCだ!という意味を思い浮かんだとしても、アップルPCを知らない人は了解できないから、違うと考えていきます。多様な人々の視点から内省したり、複数の人の意見を聞いたりしながら、練り上げ、深めていくのです。このように、最初に直感された意味は練り直され、想像の上でさまさまに変化していき(想像変容)、次第に普遍性のある意味へ、つまり本質へたどりつきます。
【想像変容】とは
想像変容:最初に直感された意味を意識の中で練り直し、想像の上で様々に変化させること*31 |
ノエシスとノエマ
ノエシス:思考作用 |
ノエマ:思考によって捉えられた限りでの対象 |
個体論と関係論
個体論:あらかじめ「私」や「あなた」がある、それが相互作用するという考え方*35 |
関係論:関係の中で構成されてくる、相手も自分の作り作られてくるという考え方*36 |
それでは、こう考えたらどうでしょうか。最初から「私」や「あなた」があるのではなく、まず関係がある。仲良くしているときは、「すばらしいあなた」と「すばらしい私」がこの世に現象します。中が悪くなると、「悪逆非道なあなた」と「被害者の私」が、「私」から見たこの世に現象する。これを、「ほんとうは悪逆非道なあなたのことを、私は誤認していた」と考えるのではなく、そのときそのときの関係の両端に、「私」と「あなた」が現象しているのだと考える。つまり、関係の中で「私」と「あなた」が現象しているのだ、と考える*37。
フッサールは個体論から関係論へ向かうべきだと、おそらく思っています。個体論という考え方には限界があるからです。個体論という考えでは、「私」の本質、「あなた」の本質、あるいは「りんご」の本質、「正義」の本質もよくみえてきません。主体と客体を二分し、私が対象物を把握するのであって、対象物から私は影響を受けないと考えてしまうのです。しかし実際は、私は関係によって変化し、客体によって作られている主体です。仲がいいという関係において、客体である「あなた」は優しいという本質があるようにみえ、仲が悪いという関係において、「あなた」は意地悪いという本質があるようにみえてしまうのです。本質というものは、個物にはなく、関係にあるという考え、作り作られるという考えが、関係論なのです。
関係論を考えるにあたって、エポケー(判断中止)は重要です。頭をカラッポにすることによって、あなたが悪い、私が悪い、という個体論的な発想から、あなたとわたしという個物を作り出す、関係が悪いという発想へ至ることができます。どういう関係が個物を作り出しているか、どのように作り作られているか、それらの思考をこれまでみてきたような、本質直観や本質観取と置き換えることができます。つまり、これは現象学的還元であり、超越的還元であり、形相的還元なのです。
こんな話はただの、抽象論でしょうか。人間関係に応用できるのはわかったけれど、経済学や政策には関係ない、と考える人もいるかもしrませんが、そうともいえません。(・・・)調査すればわかるといっても、警官が「おまえ、なぜ働いていないんだ」と聞けば、「商人です」と答えるでしょうし、税務署が「税金の申告をしなくてもいいんですか」と聞けば「失業者です」と答えるでしょう。調査者との関係によって、観測されるものが変わるとしかいいようがありません*38。
間主観性とは(フッサール『デカルト的省察』)
間主観性:他者の心が実在しているという私の確信*39 |
他者はリンゴと違って私と同じ姿で言葉を喋り、私が感情に応じて様々な表情になるように、彼の表情も変化に富んでいる。もし、私の身体が私の意識の自由な意志に応じて変化するように、彼の身体も彼の意識に応じて変化しているなら、彼が私と同じような主観を持っている存在であり、私と同じ世界を見ていることは間違いない、と確信できるはずである。つまり、私は「自分の身体と他者の身体の類似」および「自分の心と身体の関係」から、他者の身体には私と同じような心(他我)が存在することを確信している。
私のこの他者の心が実在しているという確信を「間主観性」というのだが、このとき私は、私の身体と彼の身体が同一の世界に属していることを直観している。もし私と彼が同一の世界にいるなら、私にとって「ここ」にあるリンゴも、彼にとっては「そこ」にあるのだと考えることができる。そして、彼がそれをリンゴとして扱うことで、私はリンゴの実在性をはっきりと確信することになるのである*39。
わたしの身体に類似している物体が、すなわちわたしの身体との対関係を結ぶにちがいないような外観をもつ物体が、きわだったしかたで現われてきたばあい、その物体は、わたしの身体からの意味の移し入れによって、直ちに身体という意味を受け取るにちがいない。(フッサール『デカルト的省察』)
与えられた他我の運動形式全体が、わたし自身の身体としてのはたらきにもとづいて類型的によく知られている運動形式にたえず対応するかぎり、他我は、よく知られたしかたで、たえず確証される。(フッサール『デカルト的省察』)
個人性を超えるような、間主観的な美というものがあろうのだろうか。私はずっとそう思っていました。どうやって間主観的な美を見出すことができるのか。他者との対話か、自然を拷問して聞き出すのか。もう、答えは出始めている。
引用・参考文献・脚注
*1宇都宮輝夫他『ビジュアル図解シリーズ 哲学』、PHP研究所、132頁
*2山竹伸二『本当にわかる哲学』、日本実業出版社、107頁
*3小熊英二『社会を変えるには』、講談社現代新書、347頁
*5wiki
*6宇都宮輝夫他『ビジュアル図解シリーズ 哲学』、PHP研究所、132頁
*7小熊英二『社会を変えるには』、講談社現代新書、352頁
*8宇都宮輝夫他『ビジュアル図解シリーズ 哲学』、PHP研究所、133頁
*9宇都宮輝夫他『ビジュアル図解シリーズ 哲学』、PHP研究所、133頁
*10山竹伸二『本当にわかる哲学』、日本実業出版社、107頁
*17山竹伸二『本当にわかる哲学』、日本実業出版社、110頁
*18山竹伸二『本当にわかる哲学』、日本実業出版社、110頁
*26山竹伸二『本当にわかる哲学』、日本実業出版社、134頁
*27山竹伸二『本当にわかる哲学』、日本実業出版社、30頁
*28山竹伸二『本当にわかる哲学』、日本実業出版社、132頁
*29堀内進之介他『本当にわかる社会学』。現代位相研究所、154~155頁
*30山竹伸二『本当にわかる哲学』、日本実業出版社、135頁
*31山竹伸二『本当にわかる哲学』、日本実業出版社、135頁
*32山竹伸二『本当にわかる哲学』、日本実業出版社、112頁
*34フッサール『厳密学』
*35小熊英二『社会を変えるには』、講談社現代新書、352頁
*36小熊英二『社会を変えるには』、講談社現代新書、352頁
*37小熊英二『社会を変えるには』、講談社現代新書、350頁
*38小熊英二『社会を変えるには』、講談社現代新書、353頁
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