動画での説明
よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m
はじめに
社会学とはなにか
社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する(多様な捉え方が存在する)。
※「ちょっとした日常会話における秩序」から「政治闘争における秩序」まで、社会はどうなっているか(事実判断)、どうあるべきか(価値判断)を峻別しつつバランスよく分析することが重要である。このシリーズではそうした分析の枠組み(道具)や道具を通した分析例(ケース)を学んでいく。
この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。
できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。
動画の分割
今回は試験的に動画内容を細かく分割する(全体が長過ぎるため)。
この動画は第1回目であり、全15回を予定している。
(1)概要、整理(前回)
(2)想像の共同体とは(今回)
(3)出版資本主義とは
(4)無名戦士の墓とは
(5)メシア的時間
(6)均質で空虚な時間
(7)複製技術の時代
(8)ナショナリズムの起源
(9)ナショナリズムの変化(海賊版)
(10)人種主義とナショナリズムの違い
(11)アンダーソンの分析手法の整理
(12)ベンヤミンにおける「歴史の天使」とは
(13)ナショナリズムを維持する装置
(14)ナショナリズムの倫理性
(15)教訓
前回の整理
前回は記事全体の概要・要約を扱った。
「基礎用語」、「基軸となる2つの問い」、「倫理性の整理」が記事全体の基礎となっている。
(1) ナショナリズムは歴史的にいつ、どのように「文化的人造物」として成立し、展開していったのか。
→ネーションという新しい想像のスタイルを可能にした条件は、「出版技術」、「資本主義」、「人間の言語的多様性という宿命性」のなかば偶然の、爆発的な相互作用である。
(2) ネーションは人々が想像力によって発明(構築)した「文化的人造物」にすぎないものであるにもかかわらず、なぜ死を伴うような心からの自己犠牲的な愛着を呼び起こすのか。
→ネーションは古来からあり、未来においても永遠に続いていくかのような「原初性」、「自然性」、「連続性」、「同時性」、「純粋性」、「ゲマインシャフト(共同体)の美」といった感覚を人びとにもたらしているから。ナショナリズムは宗教や王国が担ってきたような文化的機能であり、単なる政治の主義・思想とは区別されている。
ナショナリズムは宗教とは違い、「自分のネーションは間違っているか」という問いが意味をなす。間違っているかどうかは「社会的な違いをすべて取り除いた理想像を通したネーション」との比較において判断され、その際において「恥」を生じさせるのである。
理想へ向かって、新たな環境・状況が生じるたびにそのつど適切なネーションのあり方へと実践していくこと自体に価値があり、この意味においてナショナリズムに「善性」が宿り、倫理的な機能をもつとアンダーソンは考えている。
今回の記事の見取り図
人々のなんらかの安定した相互作用のある状態を「社会」とする。社会学では家族や宗教など、同じ成員だという強い連帯感に支えられた人々の持続的な相互作用が続いている状態をとくに「共同社会(ゲマインシャフト)」と呼び、「共同体(ゲマインデ)」とも表現される。
近代以降において、地縁や血縁、宗教ではなく、結社などの合理的な意思に基づいて結合する相互作用の仕方が広まっていく。こうした社会を「利益社会(ゲゼルシャフト)」と呼ぶ。
POINT想像の共同体(英:imagined community):成員同士が直接知り合っていなくても、自分たちが同じ共同体に属していると想像することで成立する共同体のこと。
アンダーソンによると、原初的村落ですら、想像された共同体であるという。この意味で、あらゆる社会はなんらかの仕方で想像によって維持され、変化していくものだといえる。
ただし基本的には、顔も、どんな人かもしらないような大勢の人々を同じ仲間だと思い、愛着をもつような想像のスタイルを意味する。想像の宗教的共同体が前近代ではその代表である(顔も知らず、言語も通じず、文化も共有していないが、同じ聖地を目指し、同じように祈っていることで大勢の見知らぬ他者と共同体意識が成立する)。
POINT想像の政治共同体:「有限性」、「主権性」、「共同性」という3つの近代特有の仕方で、イメージとして心のなかに想像された共同体のこと。「ネーション(国民)」とほぼ同義。
図にするとこのようなイメージとなる。
想像の共同体とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
社会学における共同体
マルクスにおける共同体とは
POINT共同体(英:community,独:Gemeinde):一般的に、同じ成員だという強い連帯感に支えられた人々の持続的な社会関係を意味する。
いきなりアンダーソンの「想像の共同体」という用語の説明に入る前に、まずは社会学の諸前提を共有することから始める。
たとえば哲学者のカール・マルクスにおいては、原始共同社会、奴隷制社会、封建制社会、資本制社会、共産制社会といった「歴史の発展法則」として社会の形態が捉えられている。
マルクスにおいては共同体は狭義であり、私有財産制への移行から資本主義社会が完成するまでの期間を主に意味する。※英語だと同じだが、共同社会(独:Gemeinschaft)と共同体(独:Gemeinde)は区別されている。
・特に参考にしたページ
「社会学小辞典」、有斐閣、新板増補版第四刷,123p
テンニースにおける共同体とは
社会学で共同体を理論的に説明した初期の人物としては、テンニースが知られている。
テンニースは社会を「共同社会(ゲマインシャフト)」と「利益社会(ゲゼルシャフト)」に区別している。前者は地縁や血縁によって結びついている社会であり、後者は会社や国民国家のように合理的な意思に基づいて結合する社会である。近代化に伴い、利益社会的な関係が拡大してきたと説明されている。
図で理念的に整理するとこのようなイメージとなる。
そもそも、「社会」と「共同体」の違いがわかりにくい。「共同社会」も「利益社会」もどちらも「社会」であり、共同体という言葉は用いられていない。
たとえば有斐閣の『社会学小辞典』では、共同体とは「広義には、包括的な機能をもち、強い連帯感に支えられた共同社会を意味し、宗教などの共通の理念による連帯なども含まれるが、地域性と一体的な感情とに支えられた地域社会をさす場合がふつうである」と説明されている。
社会という大きな枠組みの中で、「血縁的、地縁的、宗教的、感情的な強い連帯に基づいて構成される社会」をとくに「共同体」と通俗的には呼ぶと考えることができる。
この分類でいくと、テンニースの共同社会は共同体であるが、利益社会は共同体ではないということになる。マルクスの場合は「原始共同社会以降の前近代的な社会」のことを共同体と特に呼ぶことになるのだろう。
マートンにおける共同体とは
社会学者のロバート・K・マートン的に言えば、社会全体ではなく、特定の観点・範囲に絞って、その社会の性質を分析する必要があるといえる(マートンは実証可能な範囲を重視する)。
たとえばある人間は家族に属し、会社に属し、国家に属し、趣味サークルに属すことがあり、いったいどの範囲の社会を念頭に置いているのかを明確にする必要がある。同じ社会(全体社会)でも(部分的に)共同社会的であったり、利益社会的であったりすることがありえる。あまりにも相互作用や所属が混線していると、実証的な分析が困難になってしまう。
ルーマンにおける共同体とは
社会学者のニクラス・ルーマン的にいえば、あるシステムが他のシステムと「境界」をもっているかどうかが重要である。
家族のシステムと会社のシステムは、大きくみれば社会システムという点で同じであるが、コミュニケーションの仕方(ルール・構造)が明確に違う場合は「異なる社会システム」であると解釈することが可能になる。ある特殊な仕方の社会システムを、限定的に「共同体」とラベルをはっているのである。
たとえば我々は自動販売機でジュースを買う際に、「強い連帯」、人格的な関係性、帰属意識を感じることはほとんどない。また、「挨拶に気づかなかった」という出来事を「人格的な関係性に基づいたコミュニケーション」であるとはみなさない。
しかし、ルーマンからすればこれらの出来事は全てコミュニケーションになりうる。それぞれのタイプが違うだけである。
社会ではさまざまな仕方でコミュニケーションが生じているのであり、「社会は共同体よりも広義の概念である」と考えることができる。
とくに、人々の「仲間意識・認識」に依存的な概念が「共同体」であるとすると、ルーマンの「社会」とは大きな乖離がある(もっとも、ルーマンの社会理解は一般的な社会理解とも乖離している。なぜなら社会システムの要素は人間でも、行為でも、役割でも、意識でもなく「コミュニケーション」だからである。)。
デュルケムにおける共同体とは
社会学者であるデュルケムは、「社会的連帯の違い」によって社会のタイプの違いを説明しようとした。
POINT機械的連帯:人々が同じ考え方・生活様式を共有していることで結びつく社会のつながりのこと。
POINT有機的連帯:人々がそれぞれ違う役割を持ち、その違いによる相互依存で結びつく社会のつながりのこと。
機械的連帯が優位な社会を「環節的社会」、有機的連帯が優位な社会を「組織的社会」とデュルケムは呼んでいる。
ただし、「有機的連帯は機械的連帯を必要とする」という前提でデュルケムは考えていることに注意する必要がある。たとえば会社では有機的連帯、家庭では機械的連帯といったように相補的に並存しているのであり、完全に代替されるわけではない。
イギリスの哲学者であるギルバート・ライル(1900-1976)は、「まさに彼がすでに見てきたものすべてを組織する仕方が大学にほかならない。すなわち、それらのものを見て、さらにそれら相互の間の有機的結合が理解されたときに初めて彼は大学を見たということになるのである。」と『心の概念』において述べている。
大学が個々の建物や事務員そのものではないように、共同体や社会もまた、建物や人々そのものではない。両者は「カテゴリー(抽象度)」が違う。われわれはリンゴという文字を食べることはできない。
社会や共同体が仮に「人間の行為」を要素として構成されるとするならば、「人々の行為を組織する仕方」を説明する必要がある。なお、社会(システム)の要素は行為、役割(パーソンズ)、コミュニケーション(ルーマン)などさまざまな考え方があるが、いずれにせよ社会は近似的(理念的)にしか捉えられないと社会学では考えられている。
デュルケムが「同じ考え方・生活様式を共有している」という組織する仕方を説明していることはこうした前提によって理解できる。個人の心理状態をアンケートなどで観察したわけではなく、デュルケムは「法」や「統計」などの目に見やすい社会的事実を通して目に見えにくい社会を間接的に捉えようとしているのである。
また、社会とはレンガの組み合わせのような個々の要素の単なる集まりではなく、「創発的な事態」であると考えられている点も重要である。※創発とは、複数の要素が結びつくことで、個々の要素には存在しなかった新しい性質・機能・秩序が現れること。
ウェーバーにおける共同体とは
社会学者のマックス・ウェーバーは、社会や共同体を明確に定義せず、「社会的行為」を中心概念として設定している。
行動は「主観的意識がないような無意識的・反射的な出来事」であると定義されている。行為は「単数或いは複数の行為者が主観的な意味を含ませている限りの人間行動」であると定義されている。
この場合の「主観的な意味」は、「実際にある特定の個人が考えていた意味」だけではない。
「多くの人間が平均的に考えているだろうと観察者が推測した意味」や「観察者の分析の都合で便宜的、理想的に構成された意味」も含まれている。社会学者の佐藤俊樹さんは「考えられた意味の内容は結局のところ、平均的な習慣から解釈されるしかない」のであり、「ウェーバーは厳密に考えなかったのではなく、むしろ考え抜いた結果として、そういうやり方をとることにした」という。
ウェーバーは社会的行為を「単数あるいは複数の行為者の考えている意味が他の人々の行動と関係を持ち、その過程がこれに左右されるような行為」であると定義している。さらに社会的行為を目的合理的行為、価値合理的行為、感情的行為、伝統的行為の四種類に理念型として区分している。
このようにして、社会学はある社会的行為を意味適合的かつ、因果適合的に説明しようとする科学(理解社会学)だとウェーバーは考える。
ライル的な意味で「人々の行為を組織する仕方」を理解するためには、人々の「主観的意味」を把握する必要がある。
しかし主観的意味を単に心理学者のように聞き取りなどによって理解するのではなく、ウェーバーの場合は「理念型」によって把握するという特徴があった。主観的意味だけではなく、「資本主義制度」や「プロテスタント宗派」といった概念も「理念型」として捉えられている。
理念型とは「現実をそのまま写したものではなく、分析のために要素を極端化して作る抽象的なモデル」を意味する。たとえば「プロテスタントは禁欲的である」という理解も理念型であり、当時は禁欲的な集団がプロテスタント内において多数派というわけでもなかった。
しかし資本主義との関連においてそのようにモデルを作っておくことが便利だったわけである。
そもそも「行為」や「行動」の定義も理念型であるといえる。あらゆる概念はなんらかの意味で理念型にならざるをえないのであり、理念化の程度、目的のグラデーションがあるにすぎない。小さな理念型の論理的な組み合わせでさらに大きな理念型が考えられ、そうした組み合わせに秩序を与える理念型が理論と呼ばれることになる。
理念型で考えられた行為や行動の安定した相互作用のあり方を構造とするならば、この構造も理念型である。現実と理念は異なるが、理念という比較対象があることによって現実をより整合的に理解・探索することが可能になる。
日常においても「怒りっぽい人」という典型例(理念型)が想定され、現実の人に当てはめて思考している。
社会学はこうした想定と解釈の、より論理的、体系的、実証的、整合的な営みである。また、人々は日常における理念型のルールを明確に意識していないことが多い。たとえば「電車で目線を合わせない」という行為を実践していながら、なぜ目線を合わせていないのかを明確に意識していない。このような日常的な知の実践に焦点を当てる社会学の立場はエスノメソドロジーと呼ばれる。
佐藤俊樹さんは「理念型を介する、言い換えれば特定の価値を前提にするという点で、社会学は自然科学のような客観性をもちえない。だからといって厳密性が必要ないわけではない。特定の理念型と価値に依存しながら、それ以外の面ではできるだけ厳密であろうとする。そこにウェーバーは社会学の新たな可能性を見出した。」と解説している。
「どんな理念型を使っているか」という点で反省的でありうるのであり、「限定された知」として開かれている点が重要である。
「どんな価値と視点、観点に基づいてあなたはその概念を用いているのか、主観的意味を把握しているのか」と説明できる必要がある。その観点からいえば、ある解釈は妥当であり有用であるが、別の観点からすれば妥当ではなく、有用ではないことがありうる。ある価値や観点に基づいている、そして基づいてしまうことを自覚すること、そのうえで可能な限りの客観的な分析を開始することが価値判断と事実判断を峻別することであり、価値自由である。
ウェーバーにおける「追憶の共同体」
ウェーバーにおける社会集団と個人の違い
マックス・ウェーバーは国家、協同組合、株式会社、財団を「社会集団」と表現し、権利及び義務の主体、法律上の重要な行為の実行者を「個人」と表現している。
「社会集団と個人を混同してはならない」とウェーバーは注意を促している。
たとえば「A国家がB国家を攻撃した」と述べる場合、社会集団が主体性をもっているかのように比喩的に扱われてしまっている。特定の目的にとってこうした比喩は便利だが、学問的には厳密に取り扱う必要がある。
・特に参考にしたページ
マックスウェーバー『社会学の根本概念』,22-23p
社会構成主義、構築主義的アプローチ
ウェーバーの立場はいわゆる「方法論的個人主義」であり、社会現象は最終的に個人の意味ある行為に還元して理解すべきだという考え方である(ウェーバー自身の用語ではない)。
具体的な人々の日々の実践から社会構造を捉える立場は、「社会構成主義(社会構築主義)」として後に理論的に整備されていくことになる。また、構築主義的アプローチはアンダーソンにもみられる点が重要である。
たとえばトルコの政治学者であるウズキリムリ(1970-)は、社会構築主義に基づいてナショナリズムを分析する場合の基礎前提を挙げている。
第一に、国民意識は必然ではなく偶然であること。第二に、ナショナリズムには複数の語りがあり、対立しうること。第三に、ネーションの意味は固定されていないこと。第四に、研究者自身もナショナリズムを作ってしまう危険があること。第五に、日常生活の中でナショナリズムは再生産されるのであり、抵抗や変革の可能性もそこに存在しうることである。
ライルは「建物や人々の行為は大学ではない」と述べたが、目に見える「建物や人々の行為」を通して我々は大学の存在を構成、維持しているともいえる。
スーパーで物を売る人がいて、買う人がいると目視したり、実際に当事者として売買することなどによって、経済(システム)は存在すると我々は信じることができる。こうした想像において社会は維持され、構造は維持されるのであり、構造に基づいて人々の行為が規定されるのである。
・特に参考にしたページ
新倉 貴仁「ナショナリズム研究における構築主義 ベネディクト・アンダーソンの知と死」(2008),594-595p
社会的力
国家や家族や会社は、石や火のように目で見たり触ったりできるものとしてあるわけではない。それでも「国家がある」と人々が考え、その考えに従って行動する。税金を払う、命令に従う、法律を守る、警察が動く、といった行為が続いていく。こうした行為が集まっている間だけ、そう信じられている間だけ、「国家」というまとまりが「リアリティー(力)」をもっている。
国家とは、最初から独立して存在するものではなく、人々がそういうものだと受け止め、それに沿って行動することで、事後的に存在しているかのように外化され、見えてくるといえる。
たとえば「国会議事堂」や「省庁」、「国会議員」や「総理」といった具体的な「シンボル(象徴)」を通して我々はその存在をイメージ(観念)する。実際に人や物、行為を見ていない間も当然存在するかのようにイメージしていくのだといえる。
たとえば1人で部屋にいるときでさえ、我々は国家や市場の存在を信じている。国会議員1人の活動を見て、他の何十人もの国会議員が活動しているだろうと超越的に想像する。
構築性は国家だけではなく、あらゆる共同体、社会、制度に共通する性質である。身近な例で言えば、「リンゴそのもの」は目に見える色形が違う具体的なリンゴを通してイメージされるのであり、このイメージを通してのみ存在するのである。
たとえば幽霊は物理的に存在しないとされている。しかし、人々がその存在を信じることによって、実際に怖がらせたり、逃避行為を促したりする「力」をもちうる。広い範囲の人々が幽霊を信じている場合、幽霊は「社会的構築物」となる。
ウェーバーの場合は「本質的なもの」や「平均的なもの」ではなく、人間が解釈に用いる「便宜的なもの」、「人工的なもの」、「理想的なもの」だと考えていく。
ウェーバーにおける理念型はプラトン的なイデアやフッサール的な本質ではなく、特定の観点に基づく操作概念、探索的概念である。
環境が変わればその都度新しい概念が必要になり、数学のようにトートロジックに演繹することは困難である。
仮に社会学で数学のような抽象的な、あらゆる時代・空間に用いることができる論理整合的な理論が整備されたとしても、どれほど役に立つか不明である。マートンは「あまりにも抽象的な理論は役に立たず、具体的すぎる理論は応用がきかない」と述べていた。
観念が実際の行為を規定している点が重要である(行為もまた観念を維持し、変化させているが)。行為が観念を生み出すのであるが、行為の前にすでにある程度は文化や制度として観念的なものが形成されている。我々のほとんどは、生まれてきたときにすでになんらかの社会がある(先に産まれてきた人々がそのようにして相互作用を行っている実態が先にある)。
ある個人が既存の文化(価値体系・観念体系)と一切無関係に観念を構築できるわけではない。「幽霊」という観念が個人によって0から生み出され続けているわけではないようにである。
ウェーバーにおける国家とは
ウェーバーは国家について以下のように述べている。
「……現代の国家の少なからざる部分は、或る人々が、国家は存在するものである、いや、法律的秩序が効力を持つのと同じ意味で存在すべきものであるという観念に自分たちの行為を従わせているおかげで、人間の特殊な共同行為のコンプレックスとして存在しているのである。」(『社会学の根本概念』,24p)
簡潔に言えば、国家とは「人々が国家は本当にあると考え、その考えに従って行動することで成り立っている相互作用のまとまり」なのである。
注目すべきは「特殊な共同行為」である。「社会集団ごとに、特有の観念のあり方があるという視点」である。
ここでもまたライルが述べたような「人々の行為を組織する(特殊な)仕方」が問題となってくる。大学には大学の、国家には国家の、家族には家族の、固有のコミュニケーションの仕方、社会的行為の仕方(型、構造、規範)がある。
それらを明らかにするためには、人々の行為や人々の語ったこと、人々が作り上げたものを見ていく必要がある。もちろんありのままの素材ではなく、「聞き取り調査」、「統計」、「社会学理論」を通して「客観的な形」に変換して見ていくことになる。そのバリエーションこそが社会学(理論、方法)の違いでもある。
では、国家という社会集団は、他の協同組合、株式会社、財団とはいかなる点において特殊な行為や観念があると考えられているのか。
ウェーバーは国家は「特殊な連帯感情」を通してイメージ(観念)されると考えている。そしてこの連帯は、「同じ政治的運命を経験した記憶」によって強く結びついている点で「文化・言語・血統の共同によるきずな」とは区別される。
ウェーバーの文章を引用する。
「政治共同体は、その共同行為が少なくとも普通、局外者ならびに関与者自身の生命や行動の自由を危うくし無にすることを通じて強制を及ぼす共同体のひとつである。この場合、個々人に対しおそらく共同体の利益に沿うよう要求がなされるのは、死という冷厳な事実によるのである。」
「それは政治共同体に特有な情熱をもちこむ。それはまた政治共同体の永続的な感情の基礎を打ち立てる。共同の政治的運命、すなわち何はさておき生死を賭した共同の政治的闘争は、追憶の共同と結びつくが、後者は文化・言語・または血統の共同というきずなよりも強い影響を及ぼすことがままある。追憶の共同体こそは「国民意識」に最後の決定的な色調を与えるものにほかならない。 」(マリアンネ・ウェーバー『マックス・ウェーバーⅡ』,大久保和郎訳,177-178p)
戦争は「死の危険」と隣り合わせである。戦争で動員される場合、実質的に「強制」である。徴兵に応じないものは犯罪として扱われ、処刑される場合もある。
国家とは「ある領域において正当な暴力手段を独占している政治団体である」とウェーバーは定義している。政治共同体は他の共同体とは異なり、必要なら「死」を正当に強制できる特殊な共同体なのである。「国の利益(平和)のために、命をかけて戦え」という要求を受けた人々はどのように国家をイメージするのだろうか。
死と情熱、愛について
死の要求に従って行為した人々の間には「政治共同体に特有な情熱」が生じるという。「一緒に戦った、国のために貢献した、犠牲になった」経験が特殊な感情を生じさせているのである。
戦争だけではなく、革命や闘争なども死の危険を伴う場合がある。
そしてこの特殊な政治的感情は、「追憶の共同」と結びつくことになる。戦死者を追悼する、戦争体験を語り継ぐ、記念碑を立てる、歴史教育を受けることによって、彼らの感情が引き継がれ、人びとに追体験される。
デュルケムは特別な集合によって「聖性」が生じると表現していたが、ウェーバーのいう特殊な感情はその一種ではないだろうか。聖性はやがて記号化され、追憶されていくのである。たとえば靖国神社や国旗も可視化されたシンボルとして理解することも可能だろう。
現代の我々の多くの世代は戦争を経験していないが、「戦争を経験した人たちのお陰で今の日本がある」という連続的な観念を人はもちうる。したがって、国民とは「戦争の記憶を共有しているという観念によって結びつく集団」であるとウェーバー的には解釈できる。
後で見ていくが、最初のナショナリズムは「宗主国と植民地国の死の危険を伴う争い」と密接に関わっていた点がポイントである。また、「共に戦った、独立をもたらした」記憶は共同意識の維持としても機能していく。宗主国のエリートと現地民の文化や言語が違ったとしても、この特殊な体験は特殊な共同体の想像を促す重要な契機となる。
しかし、戦争、闘争、革命だけでナショナリズムが生じるのなら、近代特有の現象であることを説明できない。こうした死を伴う争いは古代からあったからだ。
「戦争によって特別な感情(ナショナリズム)が生じた」という方向だけではなく、「特別な感情(ナショナリズム)があるから戦争が生じた」という方向も考える必要がある。
さらに、ウェーバーは「ある人間集団は時にはある特殊な態度を通じて『国民』たるの資格を『獲得』することがあり、または『努力の結晶』として、それも短時日のうちに、国民たるの資格を要求することができるように思われる」とも述べている。
血の観念ではない、別のタイプの観念によって生じる連帯ゆえにそうした「開放性」を持ちうる点が重要だろう。
・特に参考にしたページ
粟津賢太「記憶と追悼の宗教社会学: 追憶の共同体をめぐる考察」(2015),28p
ウェーバーにおける国民とは
ただし、ウェーバーは「同じ言語」を用いているだけで国民とみなされるわけではないと指摘している。
たとえばスイスでは言語は異なるが、同じ国民であると見なされている例をウェーバーは挙げている。言語、慣習、宗教などさまざまな要因が国民の形成に関わっていると考えられている。
さらにウェーバーは、「戦争における死の意味」について以下のように述べている。
「平時においては死は理解されざるもの、何としてもそこから意味を汲取ることのできぬ背理的な運命としてわれわれをおとずれる。われわれはただそれを甘受するほかはない。しかし諸君たちは皆、運命が自分に白羽の矢を当てたとき自分が何の故に、何のために死ぬのかを知っている。」
「それを免れているものは明日のための穀種である。われわれの民族の自由と名誉のための英雄的な死は、子供の時代になっても孫の時代になっても意味のある最高の功労なのだ。そのようにして死ぬこと以上に偉大な栄光、それ以上気高い終末はない。そして多くの者にこのような死は、生きていれば得られなかったような完成をあたえたのであった。」
(マリアンネ・ウェーバー『マックス・ウェーバーⅡ』大久保和郎訳、みすず書房、一九六五年、四〇一頁。)
前近代では主に宗教や王国の領域において人々の「生きる意味」や「死ぬ意味」が与えられていた。たとえば「隣人に優しくすることは神の意志に沿うからであり、死んだ後には救済が待っている」といったかたちで説明を受ける。
政治においては、とくに「戦場」において生きる意味、死ぬ意味が集団に了解される。ウェーバーの文章は第一次世界大戦の時期に執筆されたという点が重要である。
戦場の死は、ある個人の寿命や事故による偶発的な死と異なり、大量現象として、かつ宿命的に生じる。人々は「自分がなんのために死ぬのかをわかっていると信じていること」が偶発的な死との違いなのである。
具体的には「共同体の自由のため、未来の子供たちのため」といった無条件的な献身や犠牲を伴う「共同感情」が彼らに生じるのであり、「愛の働き」をも生じさせるとウェーバーはいう。このようなウェーバーのネーションに対する理解は、これから見ていくアンダーソンと共通するものが多い。
ネーションが「文化的人造物」であること、ネーションには「参加可能性」があること、ネーションが「自己犠牲的な愛着」をもたせること、ネーションは「偶然性を必然性に変換する機能」をもつことなどがウェーバーにおいて先取りされていたといえる。
アンダーソンの独自性は、ウェーバーとは違い、主に「出版資本主義」に基づいて近代的政治共同体に特有の観念の生成を説明した点にある。特別な体験の集団心理より、そうした心理を可能とした技術的背景に重きが置かれている。
・特に参考にしたページ
粟津賢太「記憶と追悼の宗教社会学: 追憶の共同体をめぐる考察」(2015),28-29p
雀部幸隆「知と意味の位相」,247p(ウェーバーの中間考察の中での戦場の神義論の引用を参考に)
「想像の共同体」
想像の共同体とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINT想像の共同体(英:imagined community):成員同士が直接知り合っていなくても、自分たちが同じ共同体に属していると想像することで成立する共同体のこと。
※(近代以降の)想像の政治共同体をアンダーソンは「想像の共同体」と略すことがあるが、区別して考える。想像の共同体自体はあらゆる時代に存在していた。
共同体の項目で確認したように、共同体とは「さまざまな主観的意味づけによって共同的に構築されるもの」であった。アンダーソンに寄せて言えば、「想像のスタイルの違いが共同体のスタイルの違い」になる。
そしてあらゆる共同体の存在が、人々の主観的意味づけや行為によってのみ生成・維持・変化するとすれば、「あらゆる共同体は想像の共同体である」といえる。
アンダーソンは「日々顔を付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」(25p)と述べている。
あらゆる社会・共同体は「想像」が介在する
重要なのは「想像されたかどうか」ではなく、「どのように想像されたのか」というスタイルの違いである。
たとえばごく最近まで、ジャワ語には抽象的に「社会」を意味する言葉はなかったらしい。具体的で対面的なネットワークとして共同体が想像されていたのである。
100人程度の村落ならば、全員顔見知りかもしれない。しかし同時的に全員の存在を把握し続けられるわけではない。
Aが狩りに行き、Bが水を汲みにいくとき、AやBは互いの存在を「想像」によってのみ信じることができる。あるいは1度も会ったことがない先祖を想像によって「同じ成員である」とみなすこともあるかもしれない。まだ産まれてこない想像の子孫のために行為するかもしれない。
家族は常に対面、同居している必要があるわけではなく、出張した成員も家族であり、入院している成員も家族であり、そうした意識には「想像」が介在している。
現象学的にいえばそうした存在は「超越的な対象」なのであり、見えない部分を意識(想像)が補完して構成している。サイコロの見ていない部分の面も存在すると意識し、サイコロ全体の存在を想像、構成するようにである(全ての面を同時に見ることはできない)。
まず、想像のスタイルとして重要な軸は、「近代以前の想像のスタイル」と「近代以後の想像のスタイル」の違いである。
近代以前の想像のスタイルの代表的なものとして「想像の宗教共同体」や「想像の王国共同体」を中心に取り上げる(王国のあり方や宗教のあり方は別の動画で深堀りする)。そして近代以後の想像のスタイルの代表的なものとして「想像の政治共同体」を扱う。
単なるフィクションがなぜリアリティをもつのか
知の次元と生の次元
「想像の共同体」は「単なる想像物」であり、なんら実在的ではなく、虚構(フィクション)に過ぎないのではないかと解釈することもできる。
しかし我々は自分たちで想像し、維持しているものが「力」をもち、自分たちに働きかけるという意味で、「リアリティ」と強く関わっている。たとえば法律そのものは実在しないが、我々はそうした抽象的ルールが力をもつと考え、その考えに基づいて行為するものが存在することで現実的な力として作用している。
こうした社会的な力をもとに我々が実際に行為をして自然や他者に働きかけた場合、その働きかけは「フィクション」ではなく「ノンフィクション」である。
見知らぬ子供を交通事故から救い出すことも、戦場で国のために死ぬことも、殺人罪を犯して処刑されることもフィクションではない(頭の中でのみ起こっていることではない)。人々の信念によって主観的に維持されたものであってもリアリティをもつ。それゆえに、まるで客観的に、我々の想像の変容を許しがたいものとしてしっかりと存在しているかのように見えてしまう存在だといえる。
我々はナショナリズムがフィクションだと「知」の次元では理解していても、「生」の次元では簡単には放棄できない。※そこまでの強い愛着がなぜ生じたかは別の動画で扱う(14-10の人種主義の動画で)。
「模範的な国民を、社会人を、家族を、恋人を演じなければならない」という演技性、現実と理想の距離を我々はときおり意識することもある。しかし、あくまでも距離であり、理想と完全にかけ離れた純粋なアイデンティティをわれわれは保持することは難しい。
・特に参考にしたページ
「政治・権力・公共性」(社会学ベーシックス),世界思想社,第一刷,35p
「想像の宗教共同体」
巡礼の旅
たとえばイスラム教におけるメッカ(現在のサウジアラビアにあたる都市)は古代から「巡礼地」として存在してきた。遠い地域から、多様な人種、多様な言語を話す人々が巡礼しに来る聖地である。
マレー語を話す人、トルコ語を話す人、アラビア語を話す人、ヒンディー語を話す人、多様なひとびとが同じ聖地を目指して旅をするのである。交通手段が乏しい前近代においては命の危機を伴う長距離の過酷な旅であった。
かれらはお互いに言語が通じず、文化もよく知らない。大勢の対面したことがない赤の他人が何千、何万といることを巡礼で知ることになる。
しかし同じ聖地を目指して旅をしているのであり、同じ聖なる言葉(アラビア語など)を唱えている。こうした聖なる言語を通して、「同胞」であり、自分たちは「共同体」を形成しているのだという意識が聖地巡礼を通した「想像」によって生じているのである。
たとえば「家族」という小さな共同体の範囲を考えてみた場合、ほとんどの成員は顔見知りである。どういう言語を話し、どういう文化をもっているか、だいたいは知っている。
多くの場合は実際の知覚や感覚、つまり対面的なコミュニケーションを通じて「共同体」が想像されている。もちろん遠く離れた親戚など、「よく知らない人」もいるかもしれないが、ベースは対面にあるといえる。
では、宗教と家族、村落といった共同体の違いは、想像の根拠のベースが実在的なものにあるかどうかだけなのだろうか。つまり、「よく知っている度合い、範囲」によるのだろうか。
・特に参考にしたページ
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳) 書籍工房早山、9刷,99p
共同体の想像の仕方の違い
家族の場合は言語や文化が同じであり、対面したことがあるケースと理念的に考えてみる。村落の場合は、言語や文化はほとんど同じだが、対面したことがない人もいるケースであると考えてみる。さらに宗教の場合は言語(母国語)や文化も知らず、対面したことがない人が圧倒的に多いが、「聖なる言語」や「聖なる儀式」という共通点がある。
「よく知っている度合い」の違いだけではなく、「知り方」の違いも重要になる。家族や村落の場合は直接的で頻繁な、日常のコミュニケーションが重要になる。宗教の場合は間接的で特別な、非日常のコミュニケーションが重要になる。
前近代の場合は、近代的なメディア(母語による印刷物、ラジオ、テレビ、インターネット)などを通してつながるという「知り方」ではない。旅を通して直接的に同胞の存在を知り、そして旅で遭遇した人たちだけではなく、他にも世界には大勢、同胞がいることを想像するのである。
ネーションとは
「想像の政治共同体」(ネーション)
想像の政治共同体とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINT想像の政治共同体:「有限性」、「主権性」、「共同性」という3つの近代特有の仕方で、イメージとして心のなかに想像された共同体のこと。「ネーション(国民)」とほぼ同義。
アンダーソンはネーション(国民)を「想像の政治共同体」であると定義している。
「そこでここでは、人類学的精神で[『親族』や『宗教』を定義するように]国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの[最高の意思決定主体]として想像されると。」(24p)
「想像の政治共同体」を近代において生み出した「社会的条件」は後で扱うとして、そのような条件によって生み出された「想像のスタイル」をアンダーソンは「有限性」、「主権性」、「共同性」という3つのスタイルで説明している。
この3つの組み合わせは家族や宗教においてみられていなかった点がポイントである。
有限性としての想像
POINT有限性としての想像:共同体は「境界をもつ限定された集団」とみなされる想像のスタイルのこと。
たとえば宗教的な共同体では「全人類が同じ信仰に入る」ということを無限定に想像することは不可能ではない。たとえば「全人類が〇〇教に入信することが理想だ」と考える立場を想定することはできる。一方で、「全人類が〇〇国民になることが理想だ」という考え方を想定することは難しい。すくなくとも宗教のように理想として掲げられることはほとんどない。
どのような要素をもって境界とみなすのかは個別具体的な問題だが、国民が境界をもって想像されることは普遍的である。
たとえば「法的な国籍」を所有していればいいのか。同じ肌の色、似たような顔、同じ言語、同じ文化、慣習を共有していればいいのか。それらの複合なのか。我々はいかにして「国民である/国民ではない」を判断しているのかは必ずしも明瞭ではなく固定的ではない。しかしそうした境界があることは意識されており、無限定ではない。
・特に参考にしたページ
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳) 書籍工房早山、9刷,25p
主権性としての想像
POINT主権性としての想像:共同体は「ひとりひとりが主権をもつ集団」とみなされる想像のスタイルのこと。
ここでいう主権とは「政治における意思決定」を主に意味する。
たとえば国家のあり方を決めるのは宗教指導者や王、貴族だけではなく、国家の成員ひとりひとりの権利なのだと認識され、そのような同等の権利を持つ「同じ主権者の集まり」として共同体が想像されるわけである。
「主権者として」の想像のスタイルは、宗教的共同体や古代の社会や中世における封建制の社会では主流ではなかった。
たとえば中世以前の帝国制では、王のもとに権力が集中していた。中世の封建制では複数の領主に権力が分散されていった。しかしいずれの場合も、宗教指導者や王、領主と農民や商人、下級貴族が「同じ権利を持つ(たとえば選挙において同じ一票をもつ)」といった考えは基本的にない。
アンダーソンによると、主権性としての想像のスタイルは、近代特有のものであり、啓蒙主義やアメリカの独立革命、フランス革命などの時代において生まれたものであるという。
主権が神や王、領主にしかなかった時代から、ある境界を持つ政治共同体の全員に与えられるかのように想像される時代になったのである。
・特に参考にしたページ
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳) 書籍工房早山、9刷,25p
共同性としての想像
POINT共同性としての想像:共同体は現実には不平等があっても、心の中では「対等な仲間同士」とみなされる想像のスタイルのこと。
「水平的な深い同志愛」ともアンダーソンは表現する。そして、この「共同性としての想像」ゆえに、「想像の共同体」に人々は自己犠牲をいとわないほどの「愛着性」を抱いてしまうのである。※愛着性については「ナショナリズムとレイシズムの違い(14-10)」の項目で扱う。
ナショナリズムがはじめて成立したとされる18世紀末のアメリカにおいて、共同性や主権性は現在の水準から見ると十分であったとはいえない。
アメリカでは「一定額以上の財産を保有し、納税を行う白人男性」に選挙権が認められていたのである。19世紀前半には財産の制限が緩和され、後半には白人以外にも開かれ始め、20世紀には女性へと開かれるといった段階的な過程を経ている。
「国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれる」(26p)とアンダーソンは述べている。
政治共同体はあくまでも「イメージ(構築物)」であり、「実在そのものの自動的な反映」ではない。したがって不都合なものは捨象されたり、矯正されたりするのである。たとえば小説では人種差別がないように描かれたり、全員が平等で自由な主体的な存在であるかのように描かれたりするのである。
これまでの整理を理念的に図にするとこのようなイメージとなる。
もちろん、宗教、家族、農耕共同体やギルドといった想像の共同体が完全に消滅したり、完全にネーションに代替されるわけではないことに注意する必要がある。
・特に参考にしたページ
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳) 書籍工房早山、9刷,26p
「ネーション」の語源
ラテン語のNatio
ネーションを「想像の政治共同体」という意味でアンダーソンが用いていることを先ほど確認した。
ネーションという言葉自体は古代からある。たとえば直接の語源であるラテン語の「Natio」は「生まれ・出自による集団(おのずから生まれてきたもの)」を意味していたと社会学者の大澤真幸さんは説明している。
たとえば古代ローマでは、同じ地域を出自とするグループを意味していたという。
古代ギリシアでは自分たちの集団をヘレネスと呼び、他の集団をバルバロイと呼んで蔑視していたようなケースもある。バルバロイとは「(ギリシア語ではない)意味不明な言語を話す人々」を意味する。
中世キリスト教世界において、ネーションは「教会共同体の諸党派」を意味する言葉として用いられるようになったという。
つまり、ネーションは「文化的・政治的エリートの集団」として使われるようになっていったのである。そして16世紀初頭の絶対王政のイギリスにおいて、ネーションという言葉が現代で意味するような「特別なエリートだけを意味しない、人民一般」に近い意味で使われ始めた。
・特に参考にしたページ
大澤真幸,姜尚中 編,「ナショナリズム論・入門」,有斐閣アルマ,7p
ネーションを定義することの難しさ
たとえばナショナリズム研究で知られている歴史学者ヒュー・シートンワトソンは「国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している」と述べている。
ネーションを科学的に定義することは、アンダーソン以前から難しいとされてきたのである。
社会学者のマックス・ウェーバーもまた、ネーションを定義することの難しさについて述べていた。
ウェーバーはネーション(国民)を「共通の客観的特徴」だけでは定義することができないという。たとえばほとんど同じ言語を話しているセルビア人とクロアチア人は違う国民であるとされている。言語が違う人たちが多くいるスイスにおいては、それでも同じ国民であるとされている。アメリカでは肌の色や文化、宗教が違う人たちも同じ国民だとされている。
人種や言語、宗教が「想像の仕方」に影響するかもしれないが、それは偶然的であり、必然的なものではなく、たんなる「媒介」であるとアンダーソンは考える。
たとえば「出版物」によって、「我々は仲間である」という「共同的な想像の仕方」が生じるかもしれない。しかしラジオという「音声」によって生じたかもしれないし、テレビといった「映像」によって生じたかもしれない。大事なのは具体的な要素ではなく、それらをつなげるパターン、構造なのであり、それらの機能、組み合わせなのである。
たとえば社会学者の佐藤成基さんは、ネーションを「文化や歴史の記憶を共有し、特定の領域への権限を主張する集団」として広く、暫定的に定義している。
何が文化であり、なにが記憶であり、どういう領域であり、またどのような主張がなされているかは国によって、また国の内部の集団、あるいは個人によっても異なるかもしれない。しかし、そうしたものとして想像されている、表象されている、議論の対象となっている「まとまりを強くもつもの(境界を持つなにか)」がある点では同じである。
ネーションとは絶対的に境界や性質が固定されているまとまりではなく、日々の行為によって境界や性質の固定のあり様が変化していくような流動的なまとまりなのである。
大きく見れば固定的であり、小さく見れば流動的であるような両義性をもっている。それゆえに、日常において大きな変化を意識することは稀だといえる。たとえばソ連が崩壊し、新しくロシアとしてまとまりをもつような出来事が生じた場合は、大きな変化として国民に意識されるのだろう。
社会学者のニクラス・ルーマンは社会システムは生成の連鎖が止まれば消滅すると語っていた。世の中で誰かが貨幣によって取引を行い続けているから経済システムが維持され、また経済システムがあるというリアリティをもつのである。
だれも経済システムなど信用に値しないとして想像せず、また想像に基づいて行為しなくなればシステムとして成立しなくなる。無人島に遭難した人々は最初は国家を想像し、規律を守っていたが、次第に薄まっていく様子をイメージするとわかりやすい。
・特に参考にしたページ
大澤真幸,姜尚中 編,「ナショナリズム論・入門」,有斐閣アルマ,4p
大澤真幸,姜尚中 編,「ナショナリズム論・入門」,有斐閣アルマ,44p
粟津賢太「記憶と追悼の宗教社会学: 追憶の共同体をめぐる考察」(2015),28p
「ネーションネス」
ネーションネスとはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
アンダーソンは「ネーションネス(nationness)」という用語も使う。ネーション(nation)は名詞である。-nessは~なこと、~な状態という意味の名詞をつくる接尾辞である。
邦訳すれば「国民性」になる。より柔らかくいえば「国民らしさ」、「国民感」、「国民的意識」となる。
何を基準に「国民らしさ」とするかはケースバイケースである。たとえば「日本国民らしさ」といわれて何を想像するだろうか。
「日本語」、「歴史や文化の理解」、礼儀正しさや空気を読むといった「エートス(行動様式)」など多様に挙げることができる。
カタカナでルビが振られている場合のネーションネスの例を紹介する。もちろん、これ以外にも「国民性」や「国民意識」などと書かれている場合はネーションネスの邦訳であると推測できる。
「こうして、国民というもの(ネーションネス)は、皮膚の色、性、生まれた時代など――ひとがいかんともしがたいものすべてと同一視される。」(237p)
「わたしの理論的出発点は、ナショナリティ、あるいはこの言葉が多義的であることからすれば、国民を構成するということ(ネーションネス)と言ってもよいが、それが、ナショナリズム(国民主義)と共に、特殊な文化的人造物であるということにある。」(21-22p)
「ナショナリティ」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
「ナショナリティ」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
国民性を英語で表現する場合、「ナショナリティ(nationality)」という言葉を用いることがある。しかしその場合、ネーションネスとナショナリティの違いがわかりにくい。
『想像の共同体』の翻訳者である白石さんたちはナショナリティという英語は多義的であると注釈をいれている。
国民的性格、ナショナリズム、国民的地位、帰属、とりわけ法的地位、国民としての政治的独立、または国民としての存在、出自、伝統言語を共有し、国民国家を構成しうる人民などの意味をもっているという。
翻訳では適宜、「国民的帰属」、「国籍」、「国民」などが日本語として当てはめられている。
ナショナリティ(nationality)という場合は国家への法的帰属、文化的所属、民族的アイデンティティとして今回の動画ではイメージしておくことにする。※~ityの場合は性質だけではなく、資格、制度的属性などのニュアンスが強い。
ネーションネス(nationness)という場合は国民共同体としての成立度、一体感、愛着性、共時性、国民らしさの強度としてイメージしておくことにする。※~nessの場合はより直感的な性質、状態のニュアンスが強い。
「わたしの理論的出発点は、ナショナリティ、あるいはこの言葉が多義的であることからすれば、国民を構成するということ(ネーションネス)と言ってもよいが、それが、ナショナリズム(国民主義)と共に、特殊な文化的人造物であるということにある。」
「ナショナリティとナショナリズムが文化的人造物であること、これを正しく理解するためには、それがいかにして歴史的存在となったか、その意味がときとともにどのように変化してきたか、そして今日、なぜそれがかくも深く条件を揺さぶる正統性をもつのか、これを注意深く検討する必要がある。」
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳) 書籍工房早山、9刷,21-22p
「最初のロシア化政策は皮肉にも、それまでもっともツァーに忠誠であった『国民(ナショナリティ)』――バルト海沿岸地方のドイツ人のごとく――を対象に実施された。あ一八八七年、ロシアが、バルト海地方のすべての国立学校において最低学年から授業の言語として義務付けられ、やがてそれは私立学校にも適用された。ついで一八九三年には、帝国領内の名門大学の一つ、ドルパット大学が、講義をドイツ語で行ったことにより閉鎖された(このときまでドイツ語はこの地方の国家語ではあっても民衆的国民主義運動の声ではなかったことを想起せよ)。」
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳) 書籍工房早山、9刷,149p
・特に参考にしたページ
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳) 書籍工房早山、9刷,19p
「ナショナリズム」
ナショナリズムの代え難さ
アンダーソンはナショナリズムの簡潔な定義を行っていない。
イズム(ism)とは日本語で言えば「主義」である。それゆえに「国民主義」などと翻訳される。したがって自由主義や快楽主義、マルクス主義といったようなイズム、一種の政治主義と同類なのではないかと考えてしまいがちである。しかし、アンダーソンはそうは考えていない。家族や宗教といったカテゴリーの同類だとみなしている。
たしかにナショナリズムは「想像の共同体」に対して価値を置く立場であるから、任意に、自由に想像を停止したり、あるいは他の共同体に対して選択し直したりすることができると解釈することは原理的に可能である。
しかし、選択的に「想像をやめたり」、「価値づけをやめる」ことは現実には容易ではない。アンダーソンがネーションネスを皮膚や性別、生まれた時代と同列的に扱ったように、容易には変えがたい性質をもっているのである。手続きが大変だとか、法律の問題だとかいった形式的・技術的な難しさではない。
ナショナリズムは「ダイエットのために快楽主義をやめて禁欲主義になる」といったような軽い変更としては経験されにくい。
もちろん、「ある国民をやめて違う国民になることが不可能である」とは言っていない。相当な困難(言語や文化、国籍の習得など)を伴って「帰化」することが原理的には可能であり、開かれているからである。しかし形式的に国籍を変えたからと言ってネーションが想像において自動的に変わるわけではない。ボタン一つで国籍が変わるとして、自己犠牲を厭わないほどの愛着をその変更された国籍の成員たちに我々はもつことができるだろうか。
「人類学的精神で[『親族』や『宗教』を定義するように]国民を次のように定義することにしよう」とアンダーソンは述べている。
たとえば親戚のAさんを「親戚ではない」とみなすことは難しい。自分の子供を「子供ではない」と思うことも難しい。ただし、親戚や子供も概念であり、構築物である点に注意する必要がある。
キリスト教から仏教へ改宗するといったことも容易ではない。
しかしマルクス主義から自由主義に立場を変えることはそれらと比較すると容易に思える。言い方を変えると、政治的な立場はより「人工的(非自然的)なもの」として感じる。「あなたの考えですよね」という要素を強く感じてしまうのである。
それほど明確に対立しない立場で、かつ境界をもった主義への変更はより容易いだろう(たとえば社会民主主義から自由主義への移行、その逆など)。
もちろん、国家や家族、宗教を大事にする価値観全てに対して、「主観的な意志表明にすぎない。私はそうは思わない。」と言明することは可能であるが、それを心から実践して生きていける人は多くない。
親戚そのもの、宗教そのもの、国民そのものが実体として存在するわけではない。家族や国民は「想像」、あるいはより広く「人間の認識」によって「構築」されているものにすぎない。
それにもかかわらず、これらには一定の共通性をもって「代え難さ」を、「選択の難しさ」をもたらす何かが存在する。「墓を蹴っても祟りは生じない、そんなものは想像によるものだ」と仮に頭でわかっていたとしても、蹴ることは簡単ではない。
・特に参考にしたページ
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳) 書籍工房早山、9刷,24p
ナショナリズムをどのように人は身につけるのか
われわれはどのような生物的条件、社会的条件のもとでこのような「ナショナリズム」を身につけてきたのだろうか。
たとえば出版物や歴史、ロゴ、博物館、教育、無名戦士の墓、親の語り、国歌斉唱など、さまざまな要素が「ネーション」を維持するように、そしてそれに価値・愛着をもつように幼少期の頃から我々に影響を与えているとアンダーソンは考えている。ブルデューでいえば文化資本として「身体化」されて蓄積されていくものだろう(身体に染み付いた認識)。
夜道で光を見て「ホタル」ではなく「車の光」だと瞬間的に「思ってしまう」、「そのように現実を構成してしまう」のと似ている。
それが実際にどうか(言語化以前、思考以前のなにものかをどのように捉えることが可能なのだろうか)ではなく、そのように構成(想像)してしまうのであり、それが確固たる自然物や本質的なものであるかのように認識してしまう。車の光を日常的に見ない人々は違った対象(概念)として構成する。
国旗を目の前で踏まれて、それに対して怒りを感じない人がいったいどれだけこの日本にいるかを考えてみるとわかりやすい。
意識的な理屈ではなく、認識枠組みとして我々は学習し、ナショナリズムが程度の差こそあれ、染み付いている。こうした感覚が「近代以降に特有」などと信じられないくらいに当たり前になりつつあるのである。我々の多くは「日本国民」がはるか昔、古代からずっと連続してあると当たり前のように思っているようにである。
ナショナリズムの包括的な定義
社会学者の佐藤成基さんは、ナショナリズムを「ネーションおよびそれと等価な概念(国名等)の価値を奉じる言論および実践の集合である」と抽象的、暫定的に定義している。
たとえばナショナリズムの目的は「主権国家の確立」、「失地の回復」、「異民族の排除」、「アイデンティティの確立」などが代表的であるが、ナショナリズムは特定の単一目的だけによって定義できないという。どういう目的であれ、ネーションに価値があると考える人々の実践を意味するのである。この実践の中でのみ、ネーションは理念的に存在するのであり、実在的な力として現実に発現している。
・特に参考にしたページ
大澤真幸,姜尚中 編,「ナショナリズム論・入門」,有斐閣アルマ,44p
参考文献リスト
今回の主な文献
ベネディクト・アンダーソン (著), 白石隆 白石さや (翻訳) 「定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行」
ベネディクト・アンダーソン (著), 白石隆 白石さや (翻訳) 「定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行」
ベネディクト アンダーソン (著), 糟谷 啓介 (翻訳)「比較の亡霊: ナショナリズム・東南アジア・世界」
ベネディクト アンダーソン (著), 糟谷 啓介 (翻訳)「比較の亡霊: ナショナリズム・東南アジア・世界」
ヴァルター ベンヤミン (著), Walter Benjamin (原名), 浅井 健二郎 (翻訳), 久保 哲司 (翻訳) 「ベンヤミン・コレクション (1)」
ヴァルター ベンヤミン (著), Walter Benjamin (原名), 浅井 健二郎 (翻訳), 久保 哲司 (翻訳) 「ベンヤミン・コレクション (1)」
J.(ユルゲン) ハーバマス (著), 三島 憲一 (翻訳) 「近代の哲学的ディスクルス I 」
J.(ユルゲン) ハーバマス (著), 三島 憲一 (翻訳) 「近代の哲学的ディスクルス I 」
汎用文献
佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」
大澤真幸「社会学史」
新睦人「社会学のあゆみ」
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
参考論文
原田一美,「「ナチズムと人種主義」考(1) : 20世紀初頭までの系譜」(2006)[URL]
・人種主義の参考に
牲川波都季「『想像の共同体』 試論: ナショナリズムにおける言語の役割に着目して」(2005)[URL]
・アンダーソンの主張の参考に
粟津賢太「記憶と追悼の宗教社会学: 追憶の共同体をめぐる考察」(2015)[URL]
・ナショナリズム全般の参考に、特にウェーバー
竹内詩織< 査読付研究ノート> 1980 年代のナショリズム研究とローカリティ接続の試み:「創られた伝統」 と 「想像の共同体」 からの系譜(2022)[URL]
・アパデュライの主張の参考に
竹内詩織「<査読付論文>二項対立からの脱却を目指すということ:ノンダモンの視点から戯曲『タージマハルの衛兵』を記述するという試み」(2021)[URL]
・アパデュライの主張の参考に
大森いさみ 「「感覚」をつなぐ媒体としての食物:テレビ番組「今日の料理」をとおした「味」の共有」(2014)[URL]
・アパデュライの主張の参考に
梅森直之「想像の共同体」 以後のナショナリズム研究(2006)[URL]
・「比較の亡霊」の参考に
三尾稔「人類学における比較とナショナリズム: 比較の視線の転回を求めて」(2010)[URL]
・「比較の亡霊」の参考に
蔡悦「中国におけるファンダム・ナショナリズム: 現状と発展要因の考察」(2025)[URL]
・中国におけるナショナリズム論の参考に
山口裕之「歴史の天使が現れる世界ーあるいは, ベンヤミンのメシアニズムにおける二つの時間構造について」(2015)[URL]
・メシア的時間、歴史の天使の理解の参考に
三宅晶子 「ベンヤミンの< 想起> と私たち三宅晶子最終講義 (2020 年 1 月 28 日) II. テクストにおける 「想起」(2020)」[URL]
・ベンヤミンテーゼの理解に
上田廣美「ベンヤミン 「複製技術時代の芸術作品」 を読み直す」[URL]
・ベンヤミンの「複製技術の時代」の参考に
新倉 貴仁「海賊版としてのナショナリズム : ナショナリズムとメディアをめぐる理論的視座の構築」(2008)[URL]
-アンダーソンの構築主義的アプローチについて参考に
新倉 貴仁「ナショナリズム研究における構築主義 ベネディクト・アンダーソンの知と死」(2008)
[URL]
-アンダーソンの構築主義的アプローチについて参考に
遠藤英樹「ツーリズム, 創造性, オーセンティシティ」(2002)[URL]
– ヴィクター・ターナー関連
板東充彦, 飯嶋秀治, 髙橋紀子「社会科学分野におけるコミュニティ研究の概観─ 臨床心理学的コミュニティ・アセスメントへの接続─」[URL]
– ヴィクター・ターナー関連
土佐昌樹 「リミナリティと東アジアの近代性をめぐる理論的ノート」(2024)[URL]
– ヴィクター・ターナー関連
– アガンベンのホモ・サケル
井口由布「B・アンダーソン 「想像の共同体」 再考:「文化」 概念の脱構築:「文化」 概念の脱構築: 報告 2 (< 企画> シンポジウム: 世界システムの変容と地域研究の再定義)」(2004)[URL]
– アンダーソン関連
三宅晶子「「小さな門」 は開くのか?-ヴァルター・ベンヤミン 「歴史の概念について」 最後の言葉」(2002)[URL]
– 「歴史の天使」関連
鳥光美緒子「ベンヤミンは実存哲学者か?(コメント論文, 歴史に非常ブレーキをかけるもの-歴史の天使が眼差す行方-, Forum 1)」[URL]
– ベンヤミン関連、特にハーバーマスのベンヤミン解釈
小野 文生「夜が織りあげたものを昼がほどく : シェリングとベンヤミンをめぐる「交感の非歴史的テーゼ」の序にかえて(コメント論文,歴史に非常ブレーキをかけるもの-歴史の天使が眼差す行方-,Forum 1)[URL]
池田 全之「歴史に非常ブレーキをかけるもの : 歴史の天使が眼差す行方(報告論文,歴史に非常ブレーキをかけるもの-歴史の天使が眼差す行方-,Forum 1)」[URL]
井尻 直志「『密林の語り部』とナショナリズム小説—語りの構造をめぐって—」(2014)[URL]
– ベンヤミンの均質で空虚な時間意識の参考に
– アンダーソンの均質で空虚な時間意識の理解、及び「小説」についての理解。とくにジョナサン・カラーの主張。
浜 日出夫「記憶と場所 近代的時間・空間の変容」(2010)[URL]
– 時間意識の変遷について参考に
長谷正人「複製技術時代における思考の可能性-ベンヤミンの複製芸術論を読み直す」(2019)[URL]
菅谷優「ベンヤミンにおける習慣化の契機について」(2024)[URL]
佐藤貴史「問いとしての余白 拙著 『ドイツ・ユダヤ思想の光芒』 をめぐって」(2017)[URL]
– ユダヤ神秘教について



























コメント